今求められる“Bad”の価値:紙とウェブを横断する81/84/86世代のニューメディア編集長によるアウトサイダーな働き方

Kento Hasegawa
MEDIA BREAD
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27 min readSep 11, 2016

2106年9月10日(土)、御茶ノ水のデジタルハリウッド大学にて『Editors’ Lounge #06〜「編集」にとって紙メディアはまだ必要なのか?』が開催されました。

本イベントは、「編集者が駆使する『編集』というスキルの再認識と再構築が急務」という問題意識をベースに、毎回ゲストを招きながら行われるトークセッション。編集が隣接するメディア、情報、デザイン、コミュニケーションといった問題も扱っています。

第6回のイベントは二部制で行われ、前半のテーマは『ニューメディアの編集長が今「編集」したいもの』。

インタビューメディア『Qonversations』編集長の原田優輝さん、美容文藝誌『髪とアタシ』編集長のミネシンゴさんが登壇し、モデレーターを台湾×日本カルチャーマガジン『離譜』編集長の田中佑典さんが務めました。

彼らはそれぞれ81年、84年、86年生まれと30歳前半の世代。自ら手掛け、作り上げてきたメディアは2012年頃からのスタートながら読者を着実に獲得し、書籍化や他ジャンルへの進出も含め、彼らが仕事の領域を広げるきっかけにもなっています。

紙とウェブを横断しながら仕事をする3人は、取り組みはさながら出自もさまざま。アウトプットだけでなく、「編集」の捉え方や考え方のプロセス、キャリアパス、ライフスタイルにも気づきを与えてくれるはずです。

今回はご存知ない方のために自己紹介を厚めに残しています。すでに見知っている方は「東京から逗子/鎌倉へ移住したのはなぜ?」の見出し以降からどうぞ。

(およそ1時半のセッションより、聞き書きメモを抜粋・編集しました)

3人の編集長は、いかにしてメディアを作ったか

田中佑典さん(以下、田中):
僕は台湾と日本をつなぐクリエイティブエージェンシーをやっています。最近は雑誌の台湾特集や、台湾フェアなどのイベントで仕事をすることもあります。

仕事は自分たちのマガジン『離譜』、デザイン、編集、翻訳、オリジナルのイベントも開催しています。今年から語学教室もスタートしました。僕の「編集したいこと」に語学は強くひとつあるんです。

雑誌は自費出版でやっていましたが、先日は出版社から単行本も出しました。出版社を通すと「どう売るか」が全然違うのを知れたのも貴重な体験でした。これは後ほどお話できればと思います。

ミネシンゴさん(以下、ミネ):
僕はもともと美容師を4年やっていたのですが、椎間板ヘルニアで足がしびれてできなくなってしまい、美容師が読むような美容専門雑誌をやっている東京の出版社に入りました。

2年くらい経ち、カリスマ美容師みたいな人と仕事をして面白く感じてきたところでヘルニアが治って、鎌倉の美容院へ出戻りをしております。そこから2年やったところで、ヘルニアが再発して……美容に関わる他の仕事をしようとリクルートに入社し、「ホットペッパービューティ」の企画営業として3年半働きました。

リクルートは副業がOKなので、そのときに「自分でメディアを」と思って『髪とアタシ』を作りました。営業マンをやりながらなので、土日や仕事終わりで取材に行って誌面を作るというのを2号目までやっていました。

今は移住関係の仕事も多いですね。逗子に住んでいるので、逗子と鎌倉に人を増やすような事業を第三セクターと組んでやっています。僕は物書きに向いてないなぁと思いつつ『OZmagazine』で連載も。編集者と言いつつ、何の仕事をするかわからないのが編集者かなと思うんです。それでいまはアタシ社という出版社を作って活動しています。

僕らみたいはひとり出版社は(トーハンや日販といった)大きな取次とは取り引きが難しいので、小さい取次さんをメインに、あとは飛び込みで書店との直販をして、今は150軒の書店と取り引きしています。あとはネットで売っています。

「3000部を作って売り切れば、自分だけなら食える」というのがわかってきたところで、Amazonでの販売は止めました。Amazonは6掛けの委託販売(小売価格の60%で卸し、売れ残った場合は返品できる条件)というシステムで、買い切り(返品不可の代わりに、販売側のマージンが高まる方法)じゃないから利幅が少ないのと、1冊から発注がかかってくるので発送の手間もあって難しいと。

美容関係の業界からは見向きもされないのですが、第三者的なところから声をかけられることがあって、この前は文藝春秋の『文學界』からエッセイの依頼がきたり、ウェブ系の取材も増えています。

おしゃべりの仕事も多くて、セミナーやトークイベントをやったり、あとは「渋谷のラジオ」でラジオパーソナリティを始めることになりました。

原田優輝さん(以下、原田):
僕はミネさんよりちょっと先の、81年生まれで……えー、35歳です。30歳を超えると年齢ってわからなくなりますね(笑)。

僕はずっと編集の仕事をしていて、雑誌畑が出身でして、学生の頃から『DAZED&CONFUSED JAPAN』とか『i-D』とか、そういう雑誌が好きで、ちょいちょいタワレコとかに行って見ていたんです。

『DAZED&CONFUSED』の日本版を創刊するというので、大学3年生の時にアルバイトで入った……厳密には交通費しか出ないインターンだと入ってから言われたけど(笑)、まぁ実家に住んでいるし、それでもいいかと1年働きました。

創刊時は編集部3人、編集スタッフ数人でしたが、『DAZED&CONFUSED JAPAN』の半分は翻訳、半分はオリジナルだったので、その人数でも作れたんですね。インターン初日にカメラマンとふたりで撮影に行くとか、今思えば恵まれていますが「やらされながら覚える感」でしたね。

もともとは編集者になりたかったわけではなくて、平行してファッション専門学校にも夜学で通っていました。スタイリストに興味があったんです。スタイリストも編集者に近いところがあって、そういう気質があったのかなと思うんですけど。ただ、『DAZED&CONFUSED JAPAN』が立ち上がって忙しくなり、専門学校は1年で辞めることになりました。

大学卒業後にそのまま1年働いたのが、この道に入ったきっかけです。『DAZED&CONFUSED』はイギリスを代表するカルチャー誌で、残念ながら日本版は今はなくなってしまったんですけど。

そこから海外を放浪している時期があって、中国、大陸伝いで最後はインドへ。本当はもっと行きたかったんですけど体がガリガリになっちゃったり、行こうとしていたネパールが情勢不安だったりで取りやめて帰国しました。

戻ってきて、次は何をするのか明確に考えてなかったし、急に転職することも考えていなくて、『DAZED&CONFUSED JAPAN』の先輩や上司から仕事をもらって手伝い、実家暮らしで急に生活がまずくなることもないから、仕事を続けていました。

そんな時に、デザイン事務所のANSWRと知り合った縁で、彼らが作るフリーマガジンの『Public/Image. magazine』の編集に参加しました。いわゆる出版社でない人たちがマガジンをインディペンデントに出す動きが見られていて、僕もそういう雑誌の大方に興味があって手伝うようになって。

とはいえ、年2冊の刊行でしたし、常駐ではないからフリーで編集者の仕事も増えてきて、東京カルチャーを日米に発信する雑誌の『TOKION』にも2006年くらいに関わりました。

『Public/Image. magazine』はウェブマガジンの「PUBLIC-IMAGE.ORG」になり、編集長を5年間やりました。この活動がいまの仕事にもつながっていて、5年間で400名以上にインタビューする機会に恵まれたんですね。クリエイターのインタビューが多く、そういった人たちや、目指す人が読者というメディアでした。

※Internet Archiveより

あとはANSWRの事務所の隣にギャラリーを作ることになって、クリエイターの展示やトークイベント、物販もやるようになりました。これも発見があって、紙の仕事をして、ウェブだけでは何が出来るのかを考えていくと「リアルで人が集まる場がほしい」というのがあって、平行してやっていく中で新しいコミュニケーションが生まれるようになっていきました。

400名にインタビューをする中で、いろんな人に話を聞けるのが楽しい体験でした。それで「自分でもインタビューができる場所を」と作ったのが「Qonversations」です。基本的には個人メディアで、仲間にデザインをしてもらい、コンテンツは僕が基本的には作っています。

新しいことを立ち上げる時に今までと同じことをしてもつまらないので、インタビューをさせてもらった方々に「インタビューしてもらう側」を担当してもらおうと考えたんです。ひとつだけ縛りをつけて、話を聞くのは「同業者以外」にして。

クリエイターが持たれている興味はいろいろなので、例えばお寺の住職や、世界的なバービーコレクターとか、自分が仕事をしている世界の「外の人」に出会える楽しさもあります。あとは、インタビュー「されている」時よりも「している」時にこそ、その人の本質が見えるのも面白い発見でした。

色んな人に会うのは編集者やライターの仕事ですが、それは特権にすることないなと。インタビューされる側も「あなたに会いたい」と言っている依頼なら、ふつうのメディアのインタビューより嬉しいはずですよね。

田中:
インタビューはある程度のテンプレ化のあるものだと思っていたけれど、「Qonversations」のインタビュワーさんは普段は「される側」なので、引き出すテクニックはないかもしれないし慣れてもいないだろうけど、だからこその偶発性がありますよね。

原田:
彼らは「会いたい人に会い、聞きたいことを聞く」という純粋な欲求があるので、伏線や話の流れも考えないくらいで、「いきなりそこから聞くんだ!」みたいな発見があって面白くて。あとは、インタビュワーの関係性があって、普段は辿りつけないような人に意外と取材可能になったりするんですよね。

「Qonversations」と同じフォーマットを使ったメディアが「Qonversations TRIP」です。

フォーマットだけは同じに「地方出張取材」という形で、その土地ごとにいる方にインタビューしていただく「公開取材イベント」をして、記事にすることが多いですね。東京でやるのとは違う固有の土地性が見えて、メディアが地方に合わせて変化していく感覚があるのも面白かったです。

読むという意味で「Qonversations」にとって本は相性がいいので、いつか本も作りたいと思っていて、最近に「Qonversations」が2冊の本になりました。青いカバーが本編からのベストセレクションと新録、赤いカバーが「Qonversations TRIP」からの内容です。

なぜ2冊にしたかというと、版元がちがうんです。青いほうはP-VINEから声をかけてもらって作ったのですが、ベストセレクションだけを1冊つくる意味を自分で捉え兼ねるところもあった。それで、赤いほうは自費出版です。でも、デザイナーは一緒。

作り方も印刷所も違うんですけど、編集されたコンテンツがどう流れていくか、「作ったあとの工程」まで自分で見られるかをやってみたかったんです。

あとは、普段はフリー編集者なので、デザインやカルチャー関係の雑誌や仕事、ウェブメディアの立ち上げ、大分県と東京芸術大学の共同研究事業に編集者として参加したりもしています。

東京から逗子/鎌倉へ移住したのはなぜ?

田中:
お二人をお呼びしたのは仕事だけでなく、僕はこの「Editors’ Lounge」でテーマにしている「自己編集力」、つまり「他者への自分の見せ方」やライフスタイルにおいても、お二人に興味があると思ったからなんです。ミネさんは逗子に7年くらい、原田さんは鎌倉に1年半お住まいですね。なぜ東京から離れたんですか?

ミネ:
東京に美容院って多すぎるんですね。原宿近辺には500軒もあって、コレは世界一の密度です。「ここで美容師をやる意味はない」と思ったのが24歳の結論でした。もっと暮らしやすいところでやったほうがいいと、つながりはないけど鎌倉に移ったんです。あとは、東京にいると結構疲れるから、なるべく疲れない体を作るには……と考えて。

原田:
僕もカルチャーの先端を見る仕事は楽しくて、20代前半はそれでいいんだけど、歳と共に価値観も変わってきた。今は色んなシーンが細分化されてきて、みんながウェブマガジンをやり、トークイベントもやり……と、自分で何でもできるんですけど、そうするとすぐ隣で起きていることを知らない、コミュニティがちょっと違うと交わらないということが起きてきたのに違和感があった。

その頃に震災があり、旅行も好きだったので、いろんな場所へ行くようになると、20代前半で見えていなかった「自分のまわりでない場所」が面白くなってきたんです。

僕は1年半前に(鎌倉へ)引っ越して、東京にいないことで見えてくるものもあるな、と。あとは「東京の人」として地方に行って話すと「東京の人なんだ」と見られてしまうのから、自分をずらしたいとも思いました。結婚をして、子どもができるタイミングでもあったので、好きだった鎌倉に移りました。

田中:
東京にいなくても仕事が成立するのは確かですね。僕も月に1回は台湾に行きますが、あえて住まないようにしているんです。距離をとったほうが視野を広く保って編集ができると思っているから。

メインストリームよりもアウトサイダーで働く

田中:
働きかたも変化しましたか?

ミネ:
「務めている会社から月35万もらう」という概念がなくなり、「5万円を7つやればいい」というのが性に合ってるな、と。ひとつを磨き上げる職人気質よりも、いろんなことを捨てずに細切れにやって35万つくるみたいな働き方になって、オンとオフの切り替えもないし休みもないですが、嫌いなことはやらないし、好きなことを何も捨てないというスタンスで働いていますね。

84年生まれの世代なんてバブルも全く知らないですし、あんまり「頼らない生き方」がいいんじゃないかと思っています。

僕は自分の仕事を「ことばの仕事」だと思っています。その中心にある仕事が細分化するといくつかになって、そこから選んで「職種になる」感じ。これを1つの職種に絞って考えがちな人もいるんですけど、いろんなことができるのが編集者だし、そうするのが編集だとも思っています。

田中:
美容雑誌だとクライアントも美容室とかになりがちだけれど、そうでないところから仕事が来たりとか、別のジャンルとつなぎ合わせる仕事が多いですよね。

ミネ:
メインストリームにいない、というのを意識しているんですよ。トレンドに触れるなら東京にいたほうがいいけど、その周辺地帯が一番面白いと思っているし、外部との接着点が一番動きやすい。

田中:
僕も「彼は“台湾”の人」とカテゴライズされず、立ち回れるアウトサイダーとしていたい。それをミネさんにも感じます。どうしてもフリーや個人名だと印象づけが強くなりますね。

ミネ:
ツッコミと決めたがりの人が多いですよね。だから寺山修司みたいな立ち位置が良いなと。

原田:
僕もジャンルならデザイン界隈の仕事が多いですけど、それを中心にしたいとは思っていないです。「Qonversations」がわかりやすいけど、枠組みというか、容れ物や器をつくるのに関心がある。器なので何が入ってくるかによってメディア自体が変化しやすいんですよ。

京都で公開取材をやった時は、レストランのシェフがワインショップの方にインタビューをしました。会場がレストランで、ショップの方がワインを持ってきてくれて、飲みながらやったり。

枠組みをつくって中身が変化していくのが僕も興味のあることだし、地域でイベントをやると、それが特に出てくるんですよね。あとは「対談」でなくインタビューだと、非対称の関係が生まれるから(よく会う人同士でも)普段聞けない話や、飲み屋でも話せない内容が出てくる。

僕はミネさんと違って「ことば」ではなく「メディアを作る、デザインをする」というのが中心にあって、その周辺の仕事なんでしょうね。

「こだわりがない」という、こだわり

田中:
ミネさんは落語をやっていたり、多趣味ですよね。原田さんも作った枠組みにいろいろなものを常に入れ込んで機能させていく感じで、そういうのが編集的で偶発的だなと。

ミネ:
こだわりがるようであんまりないっていうか。

原田:
こだわりがないっていうところにこだわりがあるような(笑)。

ミネ:
紙でもウェブでもいいしっていう。媒体にこだわりがない。

田中:
だから多岐に向き合えるんでしょうか?

ミネ:
変化できる、というか。

原田:
フリーランスの立場でいうと、お願いされる仕事だけをして生きていかない、というようにしています。生計を立てていく仕事だけをやって、ずっとまわしていかないのがこだわり。

ミネ:
僕も「美容×何か」「髪にまつわる小商い」というのはずっと考えていますね。フリーでやっていると嫌われる勇気も必要で(笑)、雑多にやっていくなら、仕事も選ばなければ雑多にありますね。

原田:
ここ数年は企業が運営するメディアが増えて、フリー編集者が受けやすい仕事も多いですよね。でも、みんなが発信してもどこまで人々が受け取ってくれるのかとも思うので、この流れもあとどれくらい続くかな?と。

女子高生の髪型が似ている今の「バッド」な魅力

田中:
今、おふたりが「興味のあること」や「編集したいこと」ってなんですか?

ミネ:
ローカルスター。逗子や鎌倉にいて、まだ日の当たっていない、全く知られていない人が知られるように発掘したいんです。逗子や鎌倉も高齢化が進んでいて、面白い歴史を知っているおじいちゃんやおばあちゃんたちがいるうちいに、そういう人を「メディア的」にするのに興味があります。

田中:
『髪とアタシ』の最新号の特集が「Bad Hair」で、すごく面白く読みました。グッドではないバッドを取り上げるのは、豊かな暮らしとか、きれいな暮らしとか、本当に求められていて、全員が欲しているのかな?(という問いへの答えのひとつになっているようだった)と。今は全部きれいすぎるというか。

ミネ:
グッドガールとかグッドボーイが多すぎて、型化されているのが目につくし、鼻につくんですよ。女子高生の髪型がみんなすごく似ているみたいな。だからこそバッド(の需要)はすごくあると思った。

(世の中に)閉塞感はあるし、経済も良くならない中で、鬱憤があってシャウトしたいくらいの欲求が溜まっている。あらゆるところで、そこをちゃんと表現しているのは暴走族やパンクロッカーとかの「バッド」にいる人たちで、彼らは「ストレスフリーで素直」っていうのもある。(自分を)開放したいんだろうなって思うんです。

田中:
「バッド」というところでいえば、今ちょうどラップが盛り上がっているじゃないですか。『フリースタイルダンジョン』とか、あれも求められている「バッド」の形に近いのかなと。

ミネ:
逗子や鎌倉って悪い人もめっちゃいるんですけど(笑)、雑誌だとすごくクリーンに描かれている。でも、いわゆるEXILEの弟子みたいな人たち、現代版の太陽族がいっぱいいますよ。

田中 :
「バッド」だけ聞くとハテナが浮かぶかもしれないけれど、「ストレスフリーな環境」がそこにつながっているんですかね。

ミネ:
「バッド」な人たちがそういうフェーズになっていて、半ば憧れている。僕はサラリーマンもやった経験があるから「グッド」でいたころもあるからこそ、バッドに惹かれるんです。

原田:
僕は鎌倉や逗子に悪い人がどれだけいるかはわからないけど、自分自身と色んなものの距離感が明確になってきているのがあります。

地元と暮らしと仕事がごっちゃ(ごちゃ)になっていたのが東京。東京に仕事で行くようになると、感覚が仕事から少し離れる。半径2kmの距離を「地元」の視点で見られるようになり、家の中のことや、暮らし、食べるものというのが自分を中心とした半径の中で見えていくのに心地よさがなぜかあって。

編集気質がずっとあるので、分けて考えるよりは、街、地元、家のことも、「何と何をどう組み合わせると面白いか」を常に考えてしまうんですよね。東京と鎌倉、地方と鎌倉をつなぐにはどういう方法があるのか、とか。

鎌倉のローカルエリアも面白く見えてきたので、どう編集すれば面白く見せられるかを、メディアや人への渡し方も含めて考えていますね。鎌倉も狭い街ではあるんでしけど、ふだん人が来ないエリアでも色んなことが起きるので、たとえばそのエリアの人が本を編集するとどうなるか。作り方の部分に興味がある。

田中:
僕は(興味があるのが)「学び」なんです。教育を編集したいなと思って、その一環で語学教室を始めました。みんなも学びたくて、すごく好評で、生徒さんも増えているんです。SNSでないリアルの場で、知識をシェアする場作りって大事だなと思っていて。

ミネ:
SNS上に本当のコミュニケーションがない感じもするし、こういう(トークイベントやリアルの)場でないとぶっちゃけられないことってあるじゃないですか。とにかくネットで出しにくい話題が増えすぎている。だから、リアルの場を作るのはもっと加速するはずだし、「Synapse」みたいなコミュニケーションサロンじゃないけど、どんどんクローズドになる気もしています。

紙メディアは「機能として」まだ必要

田中:
次のテーマですが、編集にとって「紙メディア」はまだ必要なのか?

ミネ:
「まだ必要か」と言われると、まだ必要な気がする。でも、「永年あるか」と問われると、どうかな。松岡正剛さんが言うように、紙ならではの魅力はあるし、デザインやレイアウト、判型による大きさとか、デバイスでは出せない良さはまだあるかなと思っています。そういう意味では「まだ必要だ」と思う。

フリー編集者もやってよかったけど、自分が版元になるのはすごく面白いですよ。グラフィックやプリントパックみたいな(安価で小部数が刷れる)印刷屋さんができて、取次を通さずに見本誌をもって飛び込んで、書店の人に認めてもらえれば棚に置ける。

著者として原稿を書くと印税は10%だけれど、うまくやれれば1冊で60%くらいの利益を出せるのが(自費出版の)いいところ。1記事何万円かで書く仕事だけじゃなくて、何かバーンとやって1000冊売れてキャッシュで60万円が入ってくるみたいのは、僕みたいな弱小出版社はやりやすい。ウェブで100万PV取っても、それだけのお金になるってことはないでしょうし。

田中:
僕も自分で出している雑誌と、出版した本では流通がちがうのを見て、やっぱり「売り方」が何より大事だと思って。実は、こういうイベントのほうが、本は一番売れたりするんですよね。僕は、紙はアーカイブ性(に価値がある)かなと思っていて、最新号を販売すると、最新号ではなくバックナンバーが欲しいといわれますね。

ミネ:
それはある。収集癖によるのがひとつあるけれど、本というモノとしてはそういうところにしか価値がないという気がするけどなぁ。1500円の本を売るのは大変だけど、1500円で入場料をとってイベントをやるのは毎夜どこかでやられているくらいですし、コミュニケーションを生むのが編集だとは思うので。

原田 :
「Qonversations」の本は、特設サイトを設けて2冊セットでも売っています。それぞれ買うと3500円だけど、セットなら3000円。本来、本には再販制度があるので値段を変えることはできないのですが、版元になればそういうこともできる。そして、実はセットが一番売れる。そういうのをわかったのも大きかったです。

紙メディアは必要だとは思うけど、役割が変わってきている感覚ですね。編集って僕の中では、情報があって、モノがあって、体験があって、その関係性をどう考えるかだと思っていて、僕にとって本はモノなんですよね。モノは「手渡せる」という機能の部分で「Qonversations」でも本を作りました。

内容はウェブサイトに上がっているのとたいして変わらないし、ウェブで読めばお金を払わなくてもいいのかもしれなけど、本を売ることっていうのに今回は重きを置いていなくて、「本を作ることで何が起きていくか」に興味があった。ある意味で、名刺として本が機能しているんですよね。そういう意味で紙メディアは、使い方は僕の中で変わってきたかなと思っていて。

編集者は、いろんな情報を集めて本や広告を作るのが仕事のひとつだけれど、その前後の流通や本を卸すという前後の関係性も作っていかないと、もはや編集者の役割を果たしきれないのではないかと感じていますね。

* * *

こだわりがない、というこだわり。

柔軟性があるようにも聞こえるし、ともすると「テキトー」のように思えるかもしれません。しかし、いつから僕らは「ひとつにこだわって極めていくこと」を大切にしすぎるようになったのでしょうか。

紙か、ウェブか。

この言葉も、最近ではいくらか鳴りを潜めているふうにも思いますが、この裏にも「捨てられないこだわり」が隠れていそうです。もちろん、紙だのウェブだのといった議論でない場面にも当てはまります。

思いもよらないアイデアを実行し、成したいアウトプットへ結実させるのに、そんなものはいらない。彼らニューメディアの編集長たちの言葉からは、晴朗な視点と静かな野心を感じるのでした。

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Kento Hasegawa
MEDIA BREAD

長谷川賢人/86世代の編集者・ライター/日本大学芸術学部文芸学科卒/フリーランス