会社員の僕たちは明治時代を生きている/『WIRED』若林編集長トークイベントより

Kento Hasegawa
MEDIA BREAD
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17 min readJun 18, 2016

2016年6月18日、六本木アークヒルズの「WIRED Lab.」にて、雑誌『WIRED』編集長の若林恵さんによるトークイベント『「いい会社」と、そのミッションについて考えたこと』が行われました。

カラヤン広場、スペイン坂すぐそばにある「WIRED Lab.」

現在、『WIRED』は年に6冊ペースで刊行していますが、「今年はプロモーションも兼ねて、発刊した号について、毎回編集長であるわたくしがおしゃべりをする」ということで、つい先ごろ刊行された『WIRED』VOL.23の特集「いい会社」が今夜のトークテーマ。まさに今号の副読本とも呼べるほど、密度のある内容だったように思います。

併せて、若林編集長のメッセージ、そして本誌に目を通せば、「会社」という捉えどころのない言葉の輪郭が今よりもシャープになり、どこか手触りのあるものとして、立ち現われていくはずです。

(およそ2時間の独演会より、聞き書きメモを抜粋・編集しました)

オリンパスの元CEOはヒーローになり、食肉会社の専務はヒールになった

今回の「いい会社」特集、630円分は中身あるよね、って思う人……(手がほとんど挙がる)……ありがとう、お気遣いをいただいて。

なんでこの特集をやるんだといったら、まず働き方とか会社の特集は売れるんじゃないかという浅はかな編集者の考えもあるんですけど、そもそも話は結構遡ります。ずいぶん昔に、オリンパスという会社で外国人CEOが不正会計をリークして大問題になったわけです。

その元CEOのマイケル・ウッドフォードが内部告発をした顛末を書いた本があって、すげー面白い本なんですけど、いわゆる裏社会的なところから脅迫されたりするから警察がガードについて家から出られないみたいなことがあって、慌てて彼は香港に逃げる、映画みたいな話で。その本が出た時に面白くてインタビューに行ったんです。

その時に、結局は会社論みたいな話になった。つまり、なぜ告発をしなければならなかったか、という。この話はWIRED.jpにも記事が上がっています。経営陣がほぼほぼ会社を私物化していたことに、彼は極めて憤っていて告発したわけです。ウッドフォードはアメリカのオリンパスで現地社員として採用され、本部の社長になった生え抜きで、オリンパスを再生しようとしたけれど、道半ばで自ら断つわけですね。

そこで「会社は誰のためのものかしら」ということを僕が聞くわけなんですけども、「一晩でも二晩でも話せることだね」と彼は言いつつ、ステークホルダー、株主、社員、お客さんとのバランスをとっていくのが経営者の仕事になるだろうと話していて、「難しいもんだな」なんてつまらないことを思ったんです。「会社は誰のためのものか?」は、その後も僕としてはいろんな社長に聞いていったわけです。

僕が常に印象として持っている話がひとつあって、それは内部告発つながりで、ミートホープって会社があったんですよ。

お肉屋さんが食品偽装していた話で、これも内部告発で2007年に事件化するんですけど、2002年くらいからマスコミに「ラベルの付け替え問題」とかをリークし始めたんです。でも5年も黙殺され続け、朝日新聞が取り上げてニュースになった。

その時は「割とありそうな不祥事だな」って思っていたけど、たしかその2年後、2009年くらいに『日刊ゲンダイ』を読んでいたら、内部告発をした元専務のインタビューが載っていたんですよ。「その後はどうなりました?」みたいな。

僕はその答えにいたく衝撃を受けた。内部告発をしたおじさんは「非常に不幸になった」と。超貧乏で、一人暮らしをしていて、家族は内部告発の最中に出て行ってしまい、一族郎党からも爪弾きになる。同僚からは裏切り者と言われる。社会的存在として抹殺された土地で一人暮らしをしていますと。泣けて泣けて。インタビューの最後に「もう一度、同じ立場だったらどうするか」と問われて「絶対やらない」と彼は言うんですよ。衝撃的で、僕は今でも覚えている。

(会場笑う)

……いま、みんなは笑ったけれど、これってコワイ話で。オリンパスのウッドフォードは、アメリカでは告発者を表彰する賞があるらしくて、彼は受賞をしてヒーローなんですよ。アルパチーノとラッセル・クロウの、タバコ業界の不正を暴くいい映画があったけれど、内部告発者は勇敢な人として扱われる。アメリカでは社会的にほめられるものだが、日本ではそうではなかったと。

ミートホープ事件はワイドショーレベルでもやるけれど、テレビを見ている人間としては「クソみたいな会社だな」と思いながら、当事者になると笑っては見ていられない。社会通念上はひどい会社と思うけれど、中に入るとロジックが違って、それを暴いたやつは万死に値するという扱いになるんだなと思った時に、日本はコワイところだと。内部告発ではなく、会社にまつわるロジックが社会と反していた場合、多くの人は会社のロジックを取るひとが多いんだなと思ったわけなんですよ。

もうひとつ、僕がウッドフォードに「仮に社長でなかったら内部告発はできなかった?」と聞いたら「できなかった」と。社長で経済力があり、金銭的に裕福でなければできなかったというわけです。懸命な判断だと思うし、ある意味でミートホープの専務は愚かだったともいえる。だから難しいなという気がしたりするわけなんです。

……そういうのを考えながら雑誌ってのはできてるんですよ(笑)。

社会とつながる時間がクソみたいなのはツラい……だからこそ

仮に、自分の会社の主要取引先が東京電力であったとして、「原発はよろしくない」と自分は強く思っていた場合に、その人はツラいのではないかと思うわけです。たとえが原発でなくてもいいんですけど、ある種の社会的な不正義と思えることに自分が加担していることに関して、それを手伝わないといけない状況に置かれるのは……まぁ、ありえる状況だけれど。

昔はおそらく、たとえばなんだけど、会社が社員に対して「次の選挙はこの党を支持しよう」みたいなことってあったわけなんですよ。そこまで社員への組織票を取るみたいのを今はできにくくなっているだろうけど、それを支えていた考え方って、会社の利益と社会の利益とが結びついているときは幸せなわけです。会社が支持している理念や政策に、働くことで貢献できるというのは良いサイクルのはずだったんですけど、それは個人の価値観が多様になっていく中で乖離が起きているんだろうと。

そもそも世の中の価値観と、会社が持っている価値観が、ずれてくることが現在にはあって、それが結構見過ごせないぐらいの距離感になって立ちあらわれてくることがある。

僕がミートホープの話を聞きながら思ったことの一つとして、個人的な僕の生き方・考え方の範疇ですが、人は社会と関わって暮らしていく意味でいうと、自分は「組織の構成員」のひとりなわけですよ。僕は区民であり、都民であり、日本国民であり、コンデナストの一員であり……と、いろんな組織を通じて社会にコミットしている。

選挙で投票するのは、重要な社会への働きかけだし、自分の権利を行使して、その対価というところで税金を収める的なことがあって。その一票は大きい話だけれど、社会と通じるチャンネルとして、どれだけ生きている中で使うかといえば、微々たる話じゃないですか。

でも、会社を通して社会とつながっていく力って、選挙へ行くよりも強い……5万倍?10万倍?くらいじゃないかって思ったりするわけですよ。だから社会とつながっているその時間が、クソみたいなことに費やされていると思うのは嫌なんだろうと。

昔はもうちょっと、それが嫌なことでないと信じられていたという気がしていて。ある時期から経営の合理化で、アメリカ型の、MBA的な、マネージメント的なことがでてきたところがあって、日本が良かったときの家族型経営を持てなくなった時に乖離していく。

つまり、人生で単純に考えて、俺が男性で定年の65歳まで働く計算をすると、膨大な時間を費やして、それが世の中に役立っていない、社会に貢献できていないのを信じられなくなるのは、人が生きていくのはつらいことだろうという気がするんですね。

日本もそうだけど、アメリカでもそうなのかもしれない。会社というものが単純に「株主と配当」だけでなくて、もっと社会的な存在として、会社という組織を通して実現できることは、個人では出来ない大きな影響力を持つじゃない。「それはいい方向に使うのが良いよね」と、アメリカでもなってきているのかなって。

今回の特集は、もっとちゃんと「会社」と「社会」を考えるのが重要になってきたというか、おそらくみんなが求めていて、両輪になってきたのがあるんだろうなと思うんですよ。

理念が宗教になる、あるいは宗教が理念になる

会社っていうのは、変な話、ミートホープでいえば、内部告発者を排除する論理や感受性はカルトにも近いわけです。社会ってものと、会社ってものが、コンフリクトを起こした時に、会社の論理が力をもって作動するのは普通にあることなんだというのは、あるんだなって。なかなか怖いのものとしてあると思っているわけなんです。

今回は時間がなくて特集に入れなかった企画があって、グンゼという下着メーカーの会社がありますね。今はカタカナですけど、社名をもともとは漢字で書いていて、地名を表す「郡」に、良くするの「是」で「郡是」なんです。

京都の綾部市というところにありますが、昔は「斑鳩郡」にあった会社で、つまり「斑鳩郡を是しとする」という意味で、創業者の波多野鶴吉が付けたそうです。養蚕業が盛んなその地域を盛り立てていくのが、会社してのテーマにそもそもあり、社会的なミッションを最初から抱いていた会社なんですよね。

日本で明治維新が起き、バーっと近代産業化していく過程で、紡績工場をグンゼが建てる。そこで働く人、女工さんや工員が必要になると、農村から若い男女を連れてくるわけです。農村共同体で儀礼などを通じて育ってきた人が、自分の生きてきた生活基盤や文化から抜き取られて、工場みたいな抑圧的なところに置かれるわけです。

グンゼなら新しい工場を作って、養蚕業を拡張させることで地域社会をよくしていくビジョンはあるけれど、農民が働く以上は暴力的な社会生活の変換があって、大きく社会を動揺させるわけですよね。当たり前だと思って生きてきたことと違うロジックに放りこまれていき、功利主義や経済が入ってきて、彼らは根無し草の存在というか、アイデンティティが見つからない状況に置かれる。

そういう時代背景があった時、日本においては新興宗教とかがワッと出てくる。今となっては新興宗教かよって話かもしれないけど、非常に大きな意味を持っていたと。

グンゼの波多野鶴吉っていう人はキリスト教の信者なんですね。農村からの人々を働かせるときに、理屈としての理念が必要で、その時におそらく波多野鶴吉はキリスト教をもって、包括的な人の有り様、地域とコミュニティの有り様で、ひいては国家繁栄にもつながるのを構想したんだろうという気がしているんですね、僕としては。農村から連れてきた人にキリストの教えをあげ、礼拝もし、寝泊まりもし……新しい環境を全体としてデザインするっていうのを考えたんでしょう。

日本において会社というものが西洋から入ってきて、それが資本主義のロジックで回りはじめた時に、その新しい存在をどういう形で社会と結合させるかを考えないといけなかったんだろうという気がするんです。会社っていうものをどう社会的に存在させるのかが悩ましい問題だった。

割と僕の適当な勘ですけど、明治、大正から昭和初期、戦前までの会社は、単純に利潤でなくて、ある世界観に則って、地域や国、働いている個人をワンセットで考えていく、理念化するみたいのが文化としてあったんじゃないかと、ちょっと思ったりしたわけ。

会社はある種、宗教的というか、日本や世界と関わっていく中で、それを一本化する世界観がないと支えきれないのがあったんじゃないかなと。でも、この話は雑誌としては唐突すぎて入れるのをやめたんですけど。

家族が崩壊した日本で「家族的経営」は何を指すのか?

イメージ的に、江戸時代の商家っていうとファミリービジネスだったんだろうと思うんです。商いをしていくときは組織体として家族に属しているのが日本社会のありようだったのかもしれなくて。

つまり、世の中っていろんな組織からできているけど、新しい組織の類型ができてくると、社会としてはどこに置けばいいかわからないから困ってしまう。明治期にとって、それの最たるものが会社だったんですよね。

それまでの商い、日本的な類型と接続させられるときに、会社には家父長的なトンマナが継承されていったのかもしれない。お父さんが工場をやっていて、小学校から帰ると工員さんとキャッチボールしていたみたいな昭和の風景は、江戸時代の商家と近いんだろうなと。経営者と労働者が対立関係にある仕組みではなく、主人と奉公人みたいな関係性とオーバーラップする感じがあるのかな。それが「なごり」なのかどうかはわからないけど、失われていくんだろうなと思ったりはする。

だから家父長的でない価値観を導入しようとした時に、グンゼではないけど、キリスト教の価値観を置くみたいなことがあったんだろうと。現代で愛社精神が「家族的に守る」というのに結びついていると考えるとすると、今の日本では「家族ってなんだっけ?」みたいな話がめちゃくちゃになっていて、そこから日本の会社を考えるのは難しくなっている。そのコードがない中で、会社が「家族愛をもって運営します」みたいのって何なのか?って思うだろうと。

日本は愛社精神が強かったといわれるのはそうだと思うけど、何に寄ってそれが起きていたのかはわからない。現代で愛社精神が失われたと言われるのは、それを活動させる仕組みがなくなっているんじゃないのかって。

いまは「分断させられた個人」になっているだろうから、個人の愛で、会社を束ねるみたいのはすげー難しいじゃないですか。個人が主体的にコミットするやり方で束ねるのは、共通のコードがないとバラバラになるし、もろいものなんだろうなという気がするんです。そうすると関係性自体がお金に集約していっちゃうんだろうなって思うんですよね。

僕たちはいま、明治時代に生きている

おそらく今時の会社って、そういうのもちゃんと考えて重たいテーマを背負うようになるんだろうというのが、特集を作りながら思ったことで。

やっぱり欧米は「ミッションドリブンでやってこうぜ」みたいなことと「社会とつながってやっていこうぜ、誰もが幸せになれる仕組みを作らないといけない」って強くあるんだろうけど、それはキリスト教の考え方の延長にある、そういう共通のコンテクストがある。

アメリカの会社で大きくなっていくとファンドを作って何かに役立てる、貧しい子どもを救うためのNPOに寄付しますとかをやらないといけいない、社会的な求めがあるわけです。ただ金を貯めてるとかが社会的にアウトってのはあって、それを敷衍していくとB-Corpみたいのも出てくるのは必然だよねって思うんです。

会社がどうやって社会でありうるかを根本から考えると、僕らは明治、大正から起業した人と同じ環境に生きているのかな、と。

どういう会社をつくったら儲かるか、あるいは会社っていう枠組みで会社をつくるのじゃなくて、会社という概念をリデザインするものとして会社を立ち上げるみたいなことを考えられる状況に来たんじゃないかと思ったりするんです。特集の中でも、そういう会社の事例や形式を考える試みがいくつか出てきています。

『WIRED』Vol.23は「いい会社」の特集から、若林編集長が話す「事例」をいくつか挙げてみましょう。

公開されたプロジェクトに関心を持つ人なら、誰でもインターネットを通じて実現に働きかけられ、貢献に応じてストックオプションを受け取るプラットフォーム「JumpStartFund(ジャンプスタートファンド)」。言わば、クラウドファンディングの人的リソース版ともいえるでしょう。

Android OSを開発したアンディー・ルービンが立ち上げた“インキュベーター兼コンサルタント兼ベンチャーキャピタル”ともいえる「Playground Global(プレイグラウンド・グローバル)」。Uber共同創業者のギャレット・キャンプによる“会社をクラフトする会社”の「EXPA(エクスパ)」。さらには中国の一大テック企業となった「シャオミ」の戦略。

日本発で世界的なDJ機器メーカーとなったべスタクスの生みの親、椎野秀聰は新たなプロジェクト「STP Vestax」を立ち上げます。彼らがまず作ったのは約8000ドルという桁外れな価格のDJミキサー。その裏には自身と会社をドライブさせる理念があるといいます。

今号の特集を若林編集長は「売れそうだから」といいますが、手にとってしまう理由も納得できます。今の僕らは「会社」に対してのイメージ(あるいは意識の置き場)が、大きく揺れ動く最中にいるからこそ、この特集を読みたくなってしまうのでしょう。

読み終わった後、会社がただの「働く場所」としては、捉えられなくなってくる。自分のいる会社だけでなく、他の会社のことまでが気になってくる。「会社」への新しい視点をくれる一冊です。

若林編集長の刊行に寄せてのメッセージは以下より。

(長谷川賢人)

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Kento Hasegawa
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長谷川賢人/86世代の編集者・ライター/日本大学芸術学部文芸学科卒/フリーランス