ウェブに20年、ソフトウェアにさらに10年関わってきた今、僕はある症状に悩まされるようになった。「デザイナー症候群」だ。
簡単に説明すると、インターフェイスがひどくデザインされているとき、1番上に書いてあっても目当ての情報が見つけられないこと。
テーブルデザインがひどいとき、必要な答えが書いてあるカラムが見つけられないこと。
インターフェイスのデザインがひどいとき、正しいボタンを押せないこと。
なにかをシェアするようなサイトのデザインがひどいとき、僕は保存しようとして入力したデータを誤って消してしまうこと。理由は、多くのデザイナーなら「保存」ボタンを配置するところに「削除」ボタンがあるからだ。
これはみんなに起こることではない。だから僕はこれを苦悩と呼ぶ。もっと言うと、ほとんど僕以外のだれにも起こっていないようだ。
デザイナーではない友達や家族はびっくりするような(デザインとは呼べないような)デザインのサイトやアプリをストレスなく使っているように見える。どういうわけか彼らは、「削除」ボタンを間違えて押してデータを消したりせずに使いこなしている。
実際、美しさやユーザビリティに疎い友達や家族ほど僕が全く使い方を理解できないようなサイトやアプリを難なく使っている。
Ebayをマスターしていた元カノがその典型だ。
もはや「エクセルの住人」と呼べるような同僚もいる。僕は今でもエクセルを使いこなせない。タブが1番下にあるのはなぜ?foldよりもずっと下、データが終わるよりもずっと下なのはなぜ?なぜ空のページをずっとスクロールしないとそのタブを見つけられないのだろう。多くの人にはとても簡単なことのようだが、何回エクセルを開いても僕には全く理解できなかった。僕はきっと1000個のエクセルファイルを開いてみても「空の行をいくつもスクロールして、その下にあるタブをクリックする」なんて思いつけないだろう。どうしても頭に入ってこないんだ。何故って?デザインのせいだ。
これは僕に視覚や数学的な障害があるということではない。しっかりデザインされているものはたいていすぐに使いこなせるのだから。デザインのロジックが僕の足をひっかけるのだ。
こんなのは極端な例だと自分でも分かっているが、デザイナーなら誰でも多少は理解してもらえるだろう。なにかよくデザインされているものを僕に渡してくれたら、僕はそれをマスターして、必要なら人にレクチャーもできて、無意識に次に使えるデザインのアイディアを5つくらい盗むだろう。ひどいデザインのもの、多くの人が使いこなせるようなものを僕に渡したら、僕は代わりに社会奉仕の活動を始めるかもしれない。
僕が素晴らしいデザイナーというわけではない。自分のことをいいデザイナーだと言うのも気が引けるくらいなのだから。悪いデザインに混乱させられるくらいに知識と経験があるということだ。
でもこの「デザイナー症候群」について文句を言うことはない。
考えてみてほしい。離婚は辛いことだろう。でももしその結婚で子供を授かっていたら、それは価値のあることだったと言えるのではないか?離婚が原因の頭痛、怒り、年収の減額や自尊心、なにをしても誰かの「敵」であるときのあの嫌な気持ち。そんな耐えられない恋の失敗や壊れた家族でも、愛があった頃に子供がこの世に生み出されていたら、それは素晴らしいことなのだ。
娘のためになるなら、僕は千回の離婚、1万回の嫌な電話、1兆回のどうしようもなく嫌なテキストメッセージでもやり遂げるだろう。
僕が子供に抱くこんな感情は、デザインに対する苦悩と同じなのだ。多くの人が使いこなせるものを上手く使えない不便は、素晴らしいデザインを見つけたときの喜びで十分補うことができる。そして何回失敗しても、そんなデザインを真似たり競い合ったりする喜びを感じることもできる。
この記事は2014年12月27日にwww.zeldman.comで公開されました。