ストーリーを書くこと、知性、意思、そして他の多くについて

Ray Yamazaki
11 min readDec 22, 2015

ピーター・フリッツ・ヴァルターがMediumに投稿した『短編を書く』というストーリーから飛び出した会話

By Hasmik Antonyan

私はMediumで洞察に満ちたストーリーを見つけ、2〜3点ハイライトした後で作者に幾つか質問をしました。その結果、作者であるピーター・フリッツ・ヴァルターととても楽しい会話が出来たので、それをMediumの「レスポンス」や「レスポンスへのレスポンス」といった少しばかりトリッキーなシステムに埋もれさせるのは勿体無いと思ったのでここでシェアしたいと思います。

以下がその会話の内容です。

ハズミック・アントニョ:

あなたのストーリーでは、私たちがストーリーテリングの才能を失ってしまったことについて言及されています。それは私たちが物事について考えすぎるからなのでしょうか?それとも人生を知性に委ねてしまってるからなのでしょうか?ここで意思はどんな役割を果たしますか?私たち自身の人生や他の人の人生に語りかけ、つながり合うには知性か意思を黙らせなければなりませんか?

私たちが考えすぎるのが原因なのかですって?むしろ原因は17世紀のヨーロッパに端を発する文化的なトラップに未だに私たちが苦しんでいることにあります。文化面ではこの頃から左脳の役割が注目され始めました。すなわち論理的思考、推論、理由付け、男性的価値観などが重視され、ますます連想や帰納、想像力、女性的価値観といった右脳の役割が軽視されたのです。

そして20世紀も半ばになってようやく、システム理論の提唱や量子物理学のややこしいパラドックスによって私たちそれぞれの文化がどれ程バラバラに点在し、どれほど価値観が統合失調的に矛盾しているかが分かり始めました。また、子供たちがいかに知的「ドレッサージュ(馬場馬術)」のような教育に押し込められ、他の教育法のトレンドが来ない限りまるでロボットのような魂のない存在として鬱や他の精神病へと追い込まれようとしているのかも分かり始めました。ええ、知性を取り憑かれたように追い求めるのはまさにトラップです。私たちの西洋文化は、アフリカ、アジア、コーカソイドがこの点でバランスを保っているのに比べると、特にこの種の強迫観念に脆弱です。それが新しい幼稚園のプロジェクトである「クリエイティヴ – C ラーニング」(私のパブリケーションで確認できます)を私が開発した理由です。

人生を知性や思考力に委ねてしまってるのかですって?ええ、西洋における1文化としてはそうです。現在の学校制度では、直感の役割が過小評価されたりすっかり無視される一方で、知性を重視する活動ばかりが行われているのが分かると思います。でも人間は元来直感的なのです。子供たちは知性の面で「強化」されることがなければ、とても直感的でのびのび育つものです。

そして、直感とは人生においてとても大切なものです。例えば私の場合、直感を疎かにして分析や理由付けばかりをする時はいつも金融や投資で大きなミスをしてしまいます。アーティスト、ミュージシャン、アントレプレナー、作家、銀行家、その他専門職のセレブたちの伝記を研究すると、彼らはみな学校教育における知的「ドレッサージュ(馬場馬術)」を信用せず、何よりも自分の直感を信じなければならないことを分かっていたことが明らかになります。

私もそのうちの1人です。学生時代は怠け者でした。直感をうまく活用して学士号を取得しましたし、大学院でもテストの問題を本気で当てにかかって90%近く当てたりもしました。直感はいつもこれからどんなことが起きるかをそれとなく教えてくれますし、それこそが直感がこれほど重要な理由の1つなのです。エドワルド・デ・ボノが全ての著作で示しているように、理由付けという行為は堂々巡りで新しいアイデアを生み出せません。デ・ボノはかつて次のように言いました。「脳はすでに分かっていることしか見えない」と。それゆえ「重大なクリエイティヴィティー」と呼ばれる彼のアプローチは、知性や思考を高めるための反復重視の教育方式を忌避し、直感をうまく使うことで新しいアイデアへの扉を開いています。

意思はここで大切な役割を担っているのか?私は、意思というものは例外なく認識や理解を求める根本的な欲望に根拠があると思っています。子供たちを観察していますと、大半の子の意思の力は平凡ですが、リーダーの子に限っては「強い」もしくは「鉄のような」意思の力があります。また、現在幼稚園に通っているような若い世代の方が、例えば私のような古い世代よりも強い意思の力を有しているようにも見えます。これはドイツで私の世代の多くが苦しんできた拷問のような教育制度では持つことが不可能な類いの意思の力を、新しい世代は持つことが「許されて」いるという事実によるのかもしれません。

私の意思は実際には幼稚園の頃に既に打ち砕かれていたというわけです。さて、意思はどのようにして一方で知性と関連があり、他方で直感と関連があるのでしょうか?再びになりますが私は欲望こそが徐々に意思の力を育て上げるもので、それは論理的思考よりも直感力に近いと考えています。ひょっとすると話の本筋を離れるかもしれませんが、あなたは強迫的に知性に重きを置いた「文化的な」意思というものがあるのかと尋ねてくるかもしれません。確かに、これまでの話からすると17世紀後半そして「産業革命」あたりから「文化的」というかいわゆる共通意思のようなものが存在してきたと言えるでしょう。

それとともに「世界征服への」意思とでも呼ぶべき、植民地主義と奴隷制に結びつく意思もありました。この意思は自然と共存するのではなく支配することを目的とした強化された知性と結びついていました。この結果がどうなったかと言いますと、今日私たちが目にするように、地球温暖化、世界規模での種の激減、環境汚染、自然災害、そしてあらゆる種での生殖における問題が浮き彫りになっています。強化された知性がもたらしたものは歪んだ見方でした。例えば、性行為がロボットのような生活に対する唯一のクリエイティヴな反抗だとするもので、これが西洋の性行為への偏執の典型を生み出しています。人生の早い段階から知性を強化させる教育を偏重した結果の1つがこれです。

さて、あなたの最後の質問にお答えします。内なるおしゃべり声は瞑想によって鎮めることができます。ここで言う瞑想とはインドで使われているような厳密な意味ではなく、より広い意味です。瞑想は車の運転、家の掃除、料理、窓拭きと言えるかもしれません。これら全ての活動はインナーライフに直結しています。例えば窓拭きをするとき、あなたは物事をもっとハッキリと「見る」ために知覚の表層をも綺麗にするよう自分自身に命じています。料理するときは全ての材料がバランス良く調和することに集中していますし、床掃除をするときはキチッとした仕事をするためにパンのかけらや砂粒が残らないように気をつけています。「すること」に集中すると「考えること」に集中することがあまりなくなります。徒弟制度を通してスキルを学ぶような古いタイプの職業が、現代のオフィスワーカーたちのキャリアパスよりもずっとバランスの取れたものを生み出していたのはそういう理由です。

さて、書くことについてはっきりと自覚することがあります。私は書き始める前に家の中を整えます。まずは机から始めて、全てを綺麗に整然と。散らかった物を片付け、部屋を風水(子どもの頃から直感的に習熟しました)に従って光や煌めきで満ちている状態にしなければなりません。そうすると、あなたの本の方が書き始めるのです。私は執筆、音楽や芸術作品の制作等にいかなる努力もしたことがありません。全て自然に生まれてきたのです。しかも後になって手直しするようなものはほとんどありませんでした。私が高校生の頃、エッセイと学内誌の編集で表彰されたときには既にこんな感じでした。これが人生への愛を私なりに表現する方法ですし、こと人生についてなら一層ごく自然にできます。

教師として働いていた頃、私はいつも「見てごらん。子供たちは自然と育つものなんだ。引き上げてあげる必要はないのです」と言っていました。そして他の先生方を観察すると、彼らは自然のなせる術を信用せず、発育を妨げられていると思ったらその子を無理にでも引き上げようとしていました。そんなことをしなくても、人生で完璧と呼べるのは無理な努力をせず、平穏に満ちたものなのですが。

頭の中が整然とまとまって、内なる平穏を経験しているなら、書いてみるべきですし、特に無理をする必要もなく、きっとそれは完璧で心地良い体験になるはずです。最高に楽しいですよ!

ハズミック・アントニョ

なるほど。手を動かして何かやるべきというのはその通りですね。窓拭きや料理に編み物とか。手で何かすると本当に癒された気持ちになるときがありますね。きっと脳のどこかとても大切な部分に繋がっているのでしょう。機械を取り扱い、ボタンを押すのと反対に。機械いじりをしていると、物がそれを取り扱っている自分よりも利口だという感覚を覚えます。スマホがどんな風に機能しているかなんて知りませんよね?しかも数多くの機器があるので、その使い方を1つ1つ学ぼうなんて思ったら一生あっても足りません :)

ピーター・フリッツ・ヴァルター

私は幸い周りにガジェット類がない環境で育ちました。最初の白黒テレビが現れたのは6歳になってしばらくした頃 — 有難いことに人間の脳は6歳までに基本的な部分の発達が終わります。2–6歳で人間の脳は「最適回路」と呼ばれる重要な神経経路を構築します。しかし毎日テレビを見ていると、例えばハンディキャップというものについて自然に学ぶプロセスを明らかに損傷するようになったりして、極端な場合は統合失調症にすらなり得ます。

今日の子供たちはガジェット中毒に近いため、近代の教育はこのようなテクノロジーの幻影に追い立てられている子供たちのために「ガジェットの機能をマスターする」ことに文化面からバランスの取れたやり方を教える必要があります。この幻影の中身は、はっきり言ってしまえば全てのボタンと全ての機能を理解できるようになったときに獲得できる「価値ある」個人的スキルといったものですが、実際には感情面での乏しさや貧しさに直結します。それゆえバランスを取れたやり方を学ぶ必要から、あなたが提案してくださったように手を動かす類の活動をするべきです。

あなたのコメントを読んで『The 5th Discipline(注 邦訳『最強組織の法則―新時代のチームワークとは何か』徳間書店)』という本を思い浮かべました。この本の著者でマネージメント・コンサルタントであるピーター・センゲは「肉体労働」と「精神労働」の隔たりはアメリカ社会で余りにもありきたりで、なおかつ見せかけだけのものであって、「肉体労働」の10倍以上の給料を「精神労働」に支払う理論的根拠は全くないと書いています。これは全体としての文化的偏見を示す好例でしょう。

この点、禅宗は粉々になったマインドセットや世界観へと繋がることになるこの二分的価値観の存在にいつも気づいています。それゆえ禅では思考と思考をうまく繋ぐための手を動かす活動に注目しています。

注意力に関する最新の研究は、1番クリエイティヴなテスト結果が注意の程度が「軽く」、注意するのが「難しいものでない」ときの脳によるものだということも示しています。例えば、参加者が質問に対してクリエイティヴに答えるように言われる前に様々な脳の活動が検出されたりもします。そして、難しくない簡単なレゴのような「軽い」注意の下での活動が、脳を「クリエイティヴ・ドライヴ」の状態にします。これはガーデニングはもちろんすべての家事に当てはまります。家事は「軽い」注意力の程度で行われ、それは概して軽い音楽を流しながら行ったりします。それゆえ、難しく考えすぎて頭が固くなる代わりに知覚が研ぎ澄まされるのです。

有難うございました、ピーター・フリッツ・ヴァルター。こんなに多くの知識を私とそれからこの記事を見つけてくださった読者の皆さんとシェアするためにお時間をくださって。

(訳者注 Thank you, Yusuke Kondo, for his technical knowledge of brain science.)

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