東京のとある本屋さんのおかげで、紙の本がまた大好きになりました

ツタヤに行ったことが、デジタル文化を優先していいのか考えなおすきっかけになった理由


Barnes & Noble の大型店舗がアメリカ国内の主要都市に相次いでオープンしたことがあり、本の虫達にとっては辛い時期でした。各都市に根付いた地元書店が、次々と廃業に追い込まれたからです。

一方、地元書店への侵略ともとれるこの流れにも、明るい部分はありました。特定の年齢層のニューヨーカーにとっては、きっと懐かしい思い出でしょう。どういうことかというと、多くの本好き達が新しく出来た巨大書店の雑誌コーナーに群がったのです。はじめて、売店の店番からの厳しい注意(「立ち読み禁止!見たら買うこと!」)を気にすることなく、数々の雑誌を自由に立ち読みし、プロレスからパンク・ロックにいたるまで、気になるトピックの情報を好きに集められるようになりました。

ところが、より親しみやすく、より身近な読書文化の実現例かと思われたこの雑誌コーナーが、いまではすっかり閑散としています。まさに、斜陽産業の象徴といっても過言ではありません。

アメリカ国内がそんな状況だったので、ツタヤというマルチメディアチェーンの東京にあるフラッグシップ店舗を訪れたときの私の驚きは、ただならぬものがありました。大勢の人が雑誌コーナーに群がり、熱心に立ち読みしていたのです。代官山にあるこの書店は、書き言葉の持つ力がまだまだ力強いことを示してくれました。本棚に並ぶ本や雑誌を眺め、手にとって目を通し、実際にそれを買う。ここでは、それらは多くの人が楽しみにしている行為だったのです。

このツタヤ、他の書店よりもただ単に高級感があるというわけではありません。ここでは、言葉や本がとても大切に扱われています。本の書き手と読み手についても同様です。いずれも、配慮の行き届いた、驚くほど最先端の魅力的な扱いを受けているのです。

勘違いしないでほしいのは、この書店はあくまで商業施設であって、文化施設ではないということです。朝7時から夜中の2時まで営業しており、ほんの数時間の閉店時間は清掃と商品補充にあてられます。しかも、開店中は常に混雑しているのです。1号店がこのとおり大成功だったので、神奈川県内で2号店がオープンしました。3号店も二子玉川でオープンする予定だそうです。

日本の本・雑誌に関わる業界は、アメリカのそれとは全く違うように感じます。日本でも小規模書店の多くが廃業に追い込まれてはいますが、ネット通販や電子書籍の影響はいまだ業界に大打撃を与えてはいなくて、多くの雑誌においてウェブサイトの必要性は軽んじられているのです。理由はわかりませんが、アメリカに住む人達と比べて、日本の人達には印刷物への愛着がまだまだ強く残っていると言えるでしょう。

日本において印刷物への愛着が根強い理由、それを探す鍵がこの書店にあるに違いない!ツタヤの本棚巡りをしていて、はっきりとそう思うようになりました。そして、私自身、紙の本がまた大好きになっていることにも気づきました。ちょっとした驚きでした。というのも、私は新しいもの好きで、SIM カードを常に何枚も持ち歩いているような旅行オタクで、使っている Kindle はもう7台めなのです。これはもう、「あのころは良かった」的な郷愁ではありえません。本棚を巡り、本を見て回り、実際に手にとって読み、そして考えた結果、はっきりと見えてきた5つの命題。本への愛着を私が取り戻せたのは、それらの命題に対する自分なりの反応だったのです。


1. 本来、読み書きは実体をともなう
行為です

ツタヤが運営するこの T-site 書店では膨大な数の本や雑誌が扱われていますが、さらに、読み書きの身体性がとても大切にされています。その一例が *Anjin* です。書店の2階にあるこのラウンジはとても明るく、インテリアや内装には眼を見張るものがあります。壁は本棚になっていて、とてもきれいでいかにも読みたくなる雑誌が多数並んでいます。なかには数十年前に発行されたものもあるくらいです。しかも、ラウンジの利用者であれば、食事をしたりお酒を飲んだりしながら自由にそれらを手にとって目を通すことも出来るようになっています。

表紙が緑色のハードカバーといえば、1990年代にアメリカの図書館に行ったことがある人ならピンとくるはずです。そう、マイクロフィルムやデジタル化以前に用いられた、古い定期刊行物を保管する手段です。ミッドマンハッタン図書館の本棚に詰め込まれたそれらを高校生のころに眺めては、「いかにも実用的、って感じでセンスないなぁ」と、思ったものです。それと同じものが Anjin にもありました。しかもそこでは、これまでとは違う役割、「失われつつある文化の名残」という役割を果たしていたのです。それらのハードカバーに変わらない価値・美しさがあったのは、今後そういったものが二度と現れないからに違いありません。

また、同じフロアの一角には、おそらく世界一の規模を誇るであろう文房具のショップもあります。ここでは、商品の展示がちょっとした美術館のようになっていて、千を超える数のペンそれぞれが芸術作品であるかのようです。その甲斐あって、展示物のどれもが洗練された魅力的なものに思えます。過去の遺物でないのは明らかです。

ふと、書店全体について思いを馳せてみました。あらゆる種類の本が、店内のそこかしこに美しく陳列されている様子についても考えてみました。すると、他にも自分が見失っていたものに気づいたのです。これまで、表紙の装丁や背表紙といえば、友人のアパートの壁を覆っている存在に過ぎませんでしたが、ここではそれが、特別な安心感を与えてくれていたのです。これまでに読んできたものはすべてクラウドに保存されている、というのとはまた違った安心感でした。本の表紙とは、ただ装丁のためだけに用いられているのではありません。読書を通じて変わっていったあなた自身の内面や感情、育まれていった知性を思い起こさせてくれる、手にとって触れられる存在なのです。iPad で本の内容をいつでも見られるからといって、同じ本を実際に身の回りに置いておくのとは比べ物になりません。大切な本が身近にあれば、目に映るたび、そういった本の一冊一冊が持つたくさんの意味を感じられるのです。


2. 情報の発信源という意味では、
人の存在も重要です

先日ツタヤを訪れたときに食品関係の雑誌について店員に質問したところ、「『食』関連本専門のコンシェルジェ」を紹介してくれました。彼は店内に揃えられている「食」関連本や雑誌を熟知しており、まるで子供のころ出会った図書館司書のようでした。当時、質問攻めで大人を困らせていた私にとって、司書の皆さんはよき相談相手であったのです。

店内で私のことを案内してくれたコンシェルジェが、先日バークレーを訪れたときの話を聞かせてくれました。地産地消を訴えていることで有名な Alice Waters に会いに行ったそうです。「へー、休みをとっていったのかな?」と思いますよね?答えはノーです。それはツタヤでの仕事、「出張」でした。その目的は彼が取りまとめている展示のための調査で、Alice Waters の著書を特集する予定だ、とのことでした。

「えっ!?」と自分の耳を疑ったのをよく覚えています。なぜって、地元の Barnes & Noble が、調査のために日本に店員を出張させるなんて、とても考えられないからです。それをいうなら、そもそも書店員達に自由な時間を与え、取り扱う本のテーマについて勉強・調査できるようにすることも Barnes & Noble の場合は想像がつかないくらいです。仮にそうすれば、接客時に詳細な説明ができるはずなんですけどね(チェーンではない独立系の書店ではこういったことはよく行われていますが、予算の面でとてもツタヤにはかないません)。

また、コンシェルジェとやりとりをしていて気付いたのは、昔は何かを調べるときは誰かの助けを借りていましたが、今ではすっかりネットだけを頼りに自分で調べてしまっている、ということです。調査の目的が仕事であれ趣味であれ、その傾向に変わりはありませんでした。もちろん、とても便利なデジタルツールが自由に使えるようになってきている事実は否めません。ですが、ツタヤにいる専門家の方と話していると、調査に「人間味」を交えることの意義や楽しさが実感できました。例えば、とあるアイディアについて私が説明すると、それと繋がるような雑誌記事(彼が過去に読んだことがある記事で、ツタヤにまだ置いてある雑誌でした。)を彼が紹介してくれる、といった具合です。日本料理のどこがどう画期的であるか、ネットでは突き止めきれませんでしたが、コンシェルジェの彼はすぐにコンセプトを理解してくれました。確かに、コンピューターを使ってアイディアを煮詰めてたり参照記事を探したりしてはいましたが、そういった彼の協力がなければとてもそれらの記事にはたどり着けなかったでしょう。


3. 印刷することで、文字と絵の結びつきが唯一無二の強力なものになります

ツタヤに置いてある雑誌をパラパラと眺めていると、日本では印刷物がいまだに大切にされている理由がわかってきたように思いました。このツタヤでは、「マガジンストリート」と呼ばれる渡り廊下が雑誌コーナー(最新号だけではなく、バックナンバーも並んでいます。)になっていて、店舗である3つの建物をつないでいます。雑誌が置かれているテーブルがいくつもあるのですが、常に人でいっぱいなのです。

雑誌の紙面デザインについても、配慮の行き届き方がアメリカの場合とはまったく違っています。写真・絵・図表が全ページに渡って配置されており、文章はそのすきまを縫うようにして少しずつ配置されているのです。雑誌編集者の友人が言うには、日本語は英語よりも書き言葉としての情報密度が高いため、1ページまるまる文章だと読むのが大変なのだそうです。写真や絵をたくさん並べて文章を細かく分割することは、すくなくとも雑誌においては不可欠なのです。

タブレットの画面をいくらスクロールしてみても、綿密なデザインできれいに印刷されたページをめくることに勝る快感は得られません。また、結果としてそういった雑誌はとても独創的な仕上がりになるので、「大阪で一番おいしいオムレツのお店」や「Lee Marvin が男性ファッションに与える影響」など、どんなマニアックなテーマであれ、その世界にどっぷりと入り込むことができるのです。

デジタル媒体はその性質上、ブラウズするときはテーマが中心になったり、ソーシャルメディアの関心を追う形になったりしがちです。写真中心の雑誌をパラパラとめくるような読書体験はいまだ提供できていません。つまり、こっちの写真・タイトル・デザインに目を奪われつつ、あっちのは見なかったことにし……と、内容をただただ目で追っていくことはデジタル媒体ではまだまだ難しく、見たいものを自分で探さなければなりません。

「browsing」(「ブラウズする」)という言葉は、皮肉なことにウェブサイトを見て回る行為を表すようになってしまいました。ですが、本来この単語は、デジタル媒体ではとても真似できない行為を表す言葉(訳注:英語の「browsing」には、「本を拾い読みする」「お店を見てまわる」などの意味もあります。)であったのです。


4. ぶらぶら眺めて回ることが、案内されることに勝ることもあります

ご存知のとおり、「ブラウズする」という言葉には、展示・陳列されている物を(対象を見せるのに適した店や会場などで)見て回る、という意味や、何が見つかるかをセレンディピティにゆだねる、といった意味もあります。

デジタルな世界に身をおいて「これもオススメです」と案内されるのも悪くはありません(ターゲット広告には辟易していますが)。ですが、この書店にいると、ただ店内をぶらぶらしている方がずっと満足感があります。ツタヤの店内は「思いがけない出会い」がうまれるようデザインされているので、思っても見なかった物と出会える可能性があるのです。

しっかりと作りこまれた展示にあちこちで驚かされるのも、ツタヤで店内をぶらぶらしたくなる仕掛けのひとつです。そういった展示のおかげで、紙の本が持つ美しさにも気づけます。たとえば「ビート・ジェネレーション」を特集したコーナーには総ガラスのカウンターがあって、Kerouac や Ginsberg の独創的な初版本や原稿がたくさん収められています。

そんなことを考えながらツタヤをぶらぶらしていたら、「あのとき、あそこをぶらついてよかったな」という体験を思い出しました。何年も前、Kindle がまだなかったころの話です。当時、イエメン・エリトリア・エチオピアをめぐる長旅をしていて、読む物が底をついてしまったのです。そんななか、イエメンの首都サナアにある中央郵便局から出てきたところにあった露店で、読み古された薄手の文庫本が売られているのを見つけました。のちのプロバスケットボール選手 Bill Bradley の プリンストン大学時代の選手生活について John McPhee が書いた、A Sense of Where You Are という本でした。

どんなタイトルであれ A Sense of Where You Are よりは当時の私の関心を引けたはずです。それほどにつまらなそうなタイトルに思えました。ですが、他に本があるわけでもなく、仕方なしにそれを買ってみることにしました。「もっと面白そうな本ないのかなぁ」と思いながら最初のページをめくり……結局、その場で本を読み終えることになっていました。そう、それはノン・フィクションを書かせたら右に出る人はいない、と思える作家との出会いの瞬間になったのです。


5. 紙の本は、あなたをあなたたらしめる
助けになります

もちろん、違った捉え方もできるとは思います。このツタヤは「ここがヘンだよ日本人」の一例にすぎない、という人もいるでしょう。日本では大半の人がいまだ音楽を CD で購入しているように。もっとひどい可能性もあります。フェチや消費社会の表れであって、純粋な言葉の力をないがしろにしてしまっているんだ、と感じる人もいるかもしれません。

ただ、私はそういった意見には疑問を覚えます。紙の本の時代に育った熱心な読書家を何人も知っていますが、そういった人達にとって実際に手にとって触れられる紙の本の存在は、読書におけるおまけではなく、本質そのものといっていいはずだからです。一見変わった、「読書の聖地」といってもいいようなこの書店に足を踏み入れるたび、心の奥深くに感じるあの喜び。ひょっとすると、何年も前、紙の本に触れ、読み、買うことで感じていた喜びと似ているのかもしれません。

また、いまでは読書の大半をなんらかの電子デバイスでおこなうようになりましたが、そうすることで自分が何を失っていたか、ツタヤは教えてくれました。たくさん読むことが習慣になってくると、本が自分の世界を作るようになり、同じ空間を共有するようにもなります。自分にとっていかに本が大切なのかを示す証拠だといってもよいでしょう。ですが、本がデータになってしまうと、そこから何かが失われてしまいます。物理的にそこにある本と違い、見ただけで中身がわかるようなことはなくなってしまうのです。新しくできた友達や恋人のことを探り、関わり合い、理解するのに、自宅にある本を見てみるのはよくある手段のひとつでした。同じことをいましようとすると、相手の Amazon 用パスワードが必要になってしまいます。

今回、旅行で日本にいき、読めもしない言語で書かれている本ばかり置いてある書店に足を踏み入れました。皮肉に思えますが、そうすることではじめて、何が今日の私を私たらしめているのかを思い出し、認識を新たにすることができました。

写真: James Whitlow Delano


The Ritz-Carlton is part of the Marriott International portfolio.