このストーリーに使われている写真はGueorgui Pinkhassovが撮影したものである。彼はモスクワ生まれのフォトジャーナリストで、40年以上世界を写真に記録して回っている。彼の超現実的な作品は、旅がどのように僕達の視点を変えてくれるのかを教えてくれる。彼は人々の記憶に焼きつくような崇高な瞬間を捉えることができる写真家だ。
イランの山脈やジョグジャカルタの裏通りから、戦争の被害を受けたアディスアベバや台湾のヒルサイドのベッドタウンまで — これは故郷を離れ、二度と戻らなかったアメリカ人放浪者のストーリーである。
僕の叔父であるFrankは僕の人生の中では伝説的な存在だ。Frankは世界を周り、地球の反対側のどこかミステリアスな場所を訪れていることを、僕は子供の頃に薄々とではあるが理解していた。Frankが故郷に帰ってくることは滅多になかった、ほんの数日でも彼がマサチューセッツに帰ってきた時はとても家の中が明るくなった — そして彼がキッチンでコーヒーをすすっている時でさえ、僕にはFrankが旅の途中で休憩している冒険家に見えた。そして彼はすぐまたどこかに、足跡を残さずに消えていった。毎年クリスマスになると僕は変なプレゼントをFrankから貰った — 遥か遠くの国の消印がついたプレゼントだ。フィンランドで北極圏よりさらに北にあるお店で買ったTシャツ、モンゴルの未開の地から送られたヘンテコで小さな帽子、日本の乾燥しいたけが入った小袋。
大人になって、僕はFrankの冒険がとても理想的なものと思うようになった。僕はカナダより遠くに旅なんてしたことがなかったので、Frankの行き当たりばったりの放浪の旅を羨み、またなかなか外に出ない自分の性格が嫌だった。僕が十代の頃、Frankはボストンで開かれる学術会議に出席することになった(彼はその当時台北で大学教授をしていたのだ)。その期間の一晩だけ僕に会ってくれることを彼が承諾してくれたので、僕はとても嬉しかった。Frankの今までの旅のこぼれ話をなんでもいいから、Frankが僕に話してくれることを切に願った。その夜の終盤、僕はFrankと会議に参加した彼の同僚と一緒にダウンタウンのホテルの一室でマリファナを吸っていた。Frankは立ち上がりバスルームのシンクで蛇口を捻りコップに水を注ぎながら、僕にこう尋ねた。「最近のアメリカの水道水は飲んでもOKなのか?」その誰でも知っている質問を尋ねたことが僕には衝撃的だった — マサチューセッツは彼が旅の中で通過した、独特の脅威や習慣をもつ様々な土地の一つに過ぎなかったのだ。


僕の家族はみんな、Frankと僕には何か共鳴するものがあるとよく言っていた:周りを引きつける情熱や性格が似ているらしい。いつもぼんやりしていて、夢見がち。珍しいものには目がなく、実験的なことが好きだ。日常の中に潜む詞的な美しさを感じた瞬間に大きな喜びを見出す。僕はそんなことをいつも胸に抱いている。カレッジにいた頃僕はFrankのように英語と哲学の両方を専攻していた。そして同じように、お金が貯まったらすぐに、世界旅行に出かけた。6つの大陸を横断し、終わりのない海を貨物船で渡り、半年間ぶっ続けでバックパックの旅をした。自分がちょっと嫌な奴だなとよく思った。でも僕はどこへ行ってもどんなに遠くへ行っても、最後はいつも家に戻ってきた。
でもFrank叔父さんは帰ってこなかった。僕と違って彼は故郷に鎖で繋がれていないのだ。僕は僕とFrankの違いを知りたがっていて、そしてそれを知るためには彼の素が見える場所で彼に会う必要があると思った。
Frankが台北に住んで数年経つが、彼に会いに台北を訪れたことはそれまで一度もなかった。僕がタクシーでFrankの住むアパートに着いた時、彼は入り口前で僕を出迎えてくれて、歩道の縁に車を停めるように指示をした。僕はすぐにFrankが最後に会った時と比べてかなり年をとっていることに気づいた — 10年ぶりだろうか。以前に比べたら随分とお腹が出ているし、あごも垂れてきている。ブルドッグのような頭の上に生えたもじゃもじゃ頭は黒から白に変わっているし、眉毛は年配のかたのそれのように分厚く重みがある。彼の家の広間に荷物を降ろして水を一杯頂くと、Frankは僕をハイキングに誘った。


Frankのアパートは丘の斜面に位置しており、下に生い茂るジャングルのような街を一望できる。数え切れない路地と小道が狂ったように交差し、その上空の電源はまるでスパゲッティみたいだ。Frankの家の前にある道を渡ると丘の頂上へと繋がる歩道があり、頂上の一方は都会のグレーが広がり、もう一方はのどかなグリーンが広がる。丘の頂上はセメントと芝の代わりに、風邪で揺れ動く木々とハイキングを楽しむ人々、そして共同墓地の墓碑がぽつぽつと存在している。
ウォーキング用シューズとシワだらけの半袖Tシャツを着たFrankは、どこからどう見ても週末に田舎で散歩している教授だ。坂道をぶらぶらと下っている時に、Frankに今までの冒険について僕に話してくれないかと聞いてみた。すると彼は — 旅の途中で集めたイディオムを織り交ぜたスパイスの効いた口調で、ペルシャ語、タイ語、そして中国語を訳しながら — 旅の話を聞かせてくれた。
旅の始まりは1973年の春まで遡る。Frankは当時ボストン大学で哲学の博士プログラムの最終ストレートに差し掛かっていた。結婚して二年半になる。彼は博士号を取得した後はアメリカのどこかの大学で教員職を見つけて、伝統的なアカデミック生活を送ろうと考えていた。そんなある日大学の廊下で、掲示板の広告が彼の目に止まった。
それはイランの首都テヘランにあるインターナショナルハイスクールの教員職の求人広告だった。「それまでは中東なんて、アラビアのロレンス以外何にも知らなかったよ。」と、丘のジグザグ道を回りながら、現在の彼は手を口にあてて曰くあり気に小さな声で告白した。「自分でも何故あの時その求人に応募したのかわからないよ。」彼はそれ以前にもドイツやメキシコに行ったり、大学時代に何度か車でアメリカを縦断したこともあるらしい。「旅行熱がどんどん大きくなって、もういろんなところへ行きたくてうずうずしていたよ。」


Frankの奥さんもイランについてきたけど、彼女はそこが好きになれないとすぐにわかった。アメリカ人女性が70年代のペルシャに居心地の悪さを感じたとしても、そんなにびっくりすることではないだろう。原因が何であれ、一年も経たないうちに(Frankのことを快く思わない母親に心動かされたこともあり)彼女はアメリカに帰りたくなった。
Frankはテヘランから出ることを拒んだ。彼はヒップなイラン人の生徒と一緒に丸めたハシシを吸いながら、テヘランの晩春宿発掘を始めた(先ほど小さな声で告白したのはそういうことがあったから、らしい)。彼は電動バイクを購入し山の近くまで小旅行をしたり、バスで北上しカスピ海の浜辺に行ったりした。アメリカは全然恋しくならなかった。「アメリカは金持ちで、人種差別が満ち溢れた、くそったれの国と思うようになっていった。」と彼は言った。「ニクソン、ベトナム…」そして彼の結婚は終わりを迎え、誰にも邪魔されない国外生活が始まった。
翌年Frankと一組のアメリカ人教師たちはその学校での教師の仕事を辞め、彼らが思い描く”Wild East”へと旅立った。アフガニスタンとの国境を越えた時は、「ロシアが来る前の時代」だったため、数世紀ほど過去へタイムトラベリングしたような感覚に陥った。カブールへ行くバスの中は、誰かが下痢になって不快な臭いが漂っているか、あるいはみんなドラッグでハイになってた。彼らがネパールの首都カトマンズへ到着した時にFrank以外の仲間はアメリカへ戻っていった — 旅行熱が冷めてしまったらしい。でもFrankはさらに突き進んだ。一人で何週間もかけて山を登り、標高15,000フィートにあるネパールの村々通り抜けた。インドのコルカタ、ミャンマーの旧首都ヤンゴンを通り、タイの首都バンコクでは「水煙草を吸いながら用水路を下った」、マレーシアのペナン、インドネシアのスマトラとジャカルタ、インドのゴアビーチで幻覚剤にハマり、そのままディスコに女の子を引っかけに行った。
彼は計画など立てず、また次に何がやってくるのかなんて期待もしていなかった。インドネシアのジョグジャカルタのストリートを歩いている時、彼はとあるビルの木製ドアに刻まれた — ヒンドゥーの神話に出てくる鳥の様な生き物 — ガルーダに思わず見入ってしまった。彼が凝視しているとすっとそのドアが開き、一人の男がFrankを中に招いた — そこには8人の人たちが輪になっていた。彼らはFrankのことを”超自然的な現象”だと言い、彼を浅い川に連れて行った。そこで彼らは川の流れに逆らうかたちで、何も喋らずに一時間川の中にFrankを立たせた。彼は川でただただ立っていた、完全なる静寂の中、毎日正午と真夜中に。そしてFrankは気づいた、これがカルトというものなのだと。結局彼はそこに一週間滞在した。


僕とFrankはもうすぐ丘の麓に差し掛かっていた、台北の日差しは強く汗が止まらない。僕たちは仏教墓地を通って行った。次に儒教、そして今は植民地時代に建てられた台湾原住民の像の前に到着した。この像は台湾の文化を象徴するものの一つかもしれない — 原住民の持っていた伝統と、日本や中国が押し付けた文化的強要のミックス — そしてそれがFrankに、彼の人生に影響を与えた繋がりについて深く考えさせるのだ。理由は何であれ、Frankの人生の道は角度を変えていた。彼自らが違う道を歩んだのかもしれない。70年代にアジア中を歩き回り、彼の貯金は底をつき始めていた。彼はこの辺りでお金を稼ぐ必要があると気づいた、そしてまた途中だった博士論文を完成させたいとも思った。これまでの旅が彼に学術的な悟りのようなものを開かせたようで、彼はギリシャの哲学者Heideggerが唱えた西洋哲学とLao-tzuが唱えた東洋哲学の共通点を題材に論文を書こうと決めた。彼はボストンに戻り論文を書き上げ、教授職に応募した。その時はアメリカにそのまま住もうと考えていたようで、「あんな無茶な旅はもう十分やり尽くしたと思ったんだ。」と言った。ボストンの外にあるChestnut Hilで彼は貯水湖の隣のベンチに座ってただただぼーっとしていた1980年、それを彼は宿命的に旅から切り離された宇宙と表現した。
ある日テヘラン時代のバックパッカー仲間の一人に再開することになった。その男は到着すると、Frankの肩を掴みこう言った — 俺とお前は北アフリカに行かなくてはならない — そして二人は本当に北アフリカへ旅立った。カサブランカ、アルジェ、チュニス、カイロ。
数ヶ月もしないうちにFrankの友達は典型的な旅の辛さに耐え切れなくなった — オンボロバスに乗った17時間の移動、原因不明の食中毒、ろうばいと文化的孤独 — 彼は故郷に帰ることを決めた。そしてまた、Frankは一人留まった。Frankは一人で放浪を続けた。今回はアディスアベバ、エチオピアへ旅をし、部族争いの起きている真っ只中でアヘンを吸った。


台北の二日目にFrankは僕をダウンタウンのツアーに連れて行ってくれた。地下のディスカウントショッピングモールでは$3のご飯と野菜のプレートを買い、それをスカーフで包み小売業者の人混みを抜けた。しっかりと栄養補修はできたので、僕らは小さな丘がいつくも連なる街の端っこへとぶらぶら歩いて行った。僕らは静かな細い小道を下り、山の水を使った用水路へとたどり着いた。
そこには小さなお寺が一つあった — 数人の信仰者達が静かに中庭の日陰に座っていた — Frankはその静寂に心を奪われているようだった。ダウンタウンと空との境界線は次第に大きくなり、僕らを包んでいった。僕らはTaipei 101(完成した2004年から世界最高を誇るタワー)に寄ったあと、わずか数ブロック先の台北の古を訪れた。本物の竹が生い茂った一角だ、高層ビルを思い起こさせるような巨大な竹ではなく、普通の竹がたくさん生えていた。「何て気持ちを穏やにしてくれる場所なんだろう」と彼は外側からその竹林を見て驚いていた。
かれこれ30年以上台湾で生活しているにもかかわらず、Frank は全く変わっていなかった。今年で70歳で、人生を台北での仕事に費やしている、中国語は上手いが、完璧というわけではない。肌の色はもちろん周りの中国人とは違う。彼が教えているNational Taiwan Normal University(NTNU)で同僚のFrankへの接し方が僕の目をひいた。NTNUのレンガ造りのキャンパスにある彼のオフィスにメールをピックアップするために立ち寄ったとき、学部長がいかにFrankをリスペクトしているかを教えてくれ、それが彼の地位の高さを表していた。忙しそうな生徒たちでごった返したホールで彼の同僚教師に出くわしたとき、彼女はFrankの知性とウィットについて片言な英語でものすごい勢いで喋りだした。彼女らの言葉や態度は、それが真実の種から育ったものだからこそ花開いている — もちろんアメリカからやってきた甥っ子へのリップサービスというのもあると思うけど — でもまたこう思わずにもいられない、今まで見てきた彼ら彼女らのFrankへの敬意は、Frankが西洋の人間だからではないだろうか、と。そして僕はまたもう一つの強い疑念を抱いている — Frankはそういった台北での暮らしにすっかり慣れてしまっているのではないだろうか。
僕らはその午後にNational Palace Museumを訪れた。丘の上に建設された印象的な建物で、周りを霧で覆われていて、しっかりとしたレッドカーペットが洞窟のような入り口に敷かれている。明王朝の皇帝Shen Zhouの書道や水墨画を目の前に、僕らは思わずうっとりしていた。その時一人の男がFrankの肩を叩いた、Frankに昔教わったことのある生徒だった。彼は今や中年で、趣味で水墨画を描いているという。Shen Zhouの絵画を前に、彼(台湾人だが僕らには自分の名前は”Bruce”だと言っていた)は古代の画法が作る繊細な美しさ — きめ細かな墨の集まりが作りだす蟹や猫の形 — について説明してくれた。僕はBruceの仕事について尋ねた。彼はFrankを見ながら、教師をやっていると教えてくれた。「あなたの影響を受けました」と彼は真剣な眼差しで告げた。「あなたは僕にとって最高の先生でした。」Frankは頷き、居心地悪そうににっこりと笑った。彼はその思いを受け止めたが、感情を動かされるほどではなかったようだ。
ある日の午後、僕は外出してDin Tai Fung の本店で思いっきり美味しいものを食べようと提案した — 台北の中心地にある4階建のレストランで、絶品の水餃子を武器に今や世界中に支店を持っている。僕にはあるミッションがあった:今までFrankが訪れた他の国と同じように、彼はこの台湾に何の忠誠心も持っていない、それなのになぜ彼はここから出て行こうとしないのか、Frankに聞いてみたかった。彼はここに永住権を持っているし家も所有しているが、彼は一つの地に根をおろす人間ではないはずだ。彼は台湾の安定しない政情を注視している。しかし地方選挙に投票はできない。今もずっと辺境の地に住む孤独な外国人のままだ。ウエイトレスと箸の音とせいろから立ち昇る蒸気がけたたましく交差するレストランで、僕は慎重に”何故”を聞き出そうとしていた — 何年にもわたる放浪の旅を経て — Frankがプノンペンでもカイロでもラバトでも他のどこでもなく台北に根を下ろしたその理由を。
彼の指を動かす仕草が、その理由を彼もまだ理解していないことを表現していた。行き先のわからない人生の不可知さ。彼の答えはシンプルで、台北が彼の終着駅だったのだと言った。彼は年をとったし、動きも遅くなった。飽きと惰性、それにNTNUでのまともな仕事が、すぐに仕事を辞めていたFrankに一つの仕事を続けさせたのだと。そして決定的な要因:台北に来て数年後に彼は若い台湾女性 — Dorisという名の、彼の元教え子 — と付き合いはじめ、彼女が結婚を後押しした。
その答えが不誠実だと思ったので、思わず彼を指差してしまった。彼らは子供を授かり、その子が学校へ通いだす年頃になると、Dorisはその小さな僕の従兄弟、Lunaをシアトルに連れてきて、アメリカの教育を受けさせることにした。Frankも一緒に戻って、アメリカの大学で職を見つけて落ち着くかと思った。けど、テヘランで最初の妻が帰った時や、バックパッカー仲間が旅を途中でやめた時と同じように、Frankはまた一人で台湾に残った。
Frankは旅の話をしてくれているとき、何度も自分の事を”自己中心的な男”と言っていた。彼はいつも大学がターム休みに入ると妻と娘に会うように努力していた、でもその一方で二人を置き去りにして自由奔放にしていたからこそ台北に住むことができたんだということも認めた。彼が言うには娘をアメリカの学校に入れたいと言い出したのはDorisのほうで、Frankはそれに渋々同意したが、同時にアメリカには自分は戻らないと決めた。「スーパーのだだっ広い通路とか…」彼は頭を振りながらこう言った。「アメリカは誇らしいほど物質社会だ。」


Frankは僕の叔父だ、僕は彼が大好きだ。僕は彼を断罪することなんてできないが、でも正直なところ、最近は台北もすっかり物質社会だ。眩いショッピングモールなんかはニュージャージーの郊外そっくりだ。Frankがアメリカの嫌味を言うのはきっと彼がアメリカをスモークガラス越しに見ているからなんだと思う。何故彼が台北にずっと住んでいるかというと、それはきっと彼が一人でいることが好きで、独立した生活が送りたいからで、責任や愛情を避けるためだと思う。(彼は結婚指輪を指にはめていない — まだDorisとの結婚は続いているのだが — その事も僕の考えを後押ししている。Frankは若き日の旅先で出会った現地の女性の記憶が今でも残っているとも言っていた。)でも彼はボストンでだって自己中心的な生活を送ることができる。何故此処に居続けるのだろう — 数千マイルも家族から、母国から、個人的な過去から離れて。
Frankが外国生活を送り続けるのは、誰にも邪魔されたくないという思いや、感情的つながりの欠如、アメリカへの嫌悪感、台湾の魅力、それだけが理由じゃない。Frankが心の底から願っていること、それは外国で暮らすことで得られるスリルなんじゃないだろうか。彼はこの丸い国の中で自分を四角い型にはめることに喜びを感じている。永遠に外国人でいることに喜びを感じている。もしアメリカに帰ったら、彼はただの白人のおじいさんの一人でしかない。でも外国にいれば、彼はすぐに”他人と違う”と認識され、”他人と違う”扱いを受ける。Frankはここでは特別なのだ、そこにいるだけで周りの注意を引く。彼はその生活を捨てることができないのだ。
そういった外部からの要因に加えて、内部からの刺激もある:トラベラーズ・ハイというやつだ。飛行機を降りて馴染みの薄い景色を目にした時の気持ち、あなたにもわかるはずだ。旅はドラッグだ。旅は現実を新鮮にしてくれて、景色を違う風に見せてくれて、そして癖になる。
Frank風にアカデミックに表現するなら”defamiliarization(異化)”という言葉になるだろう。彼はEmily Dickinsonの言葉を引用した — リラックスした子供への雷/わかりやすい説明と共に — 彼は子供の頃の体験を話してくれた。「木はものすごく巨大で、まるでエイリアンみたいに思えた。雷はそれ以上に怖かった。」僕らは大人になっていくにつれて、いろんなものから受ける驚きに慣れてしまう。でももし僕らがトラベラーなら、少なくとも旅の間は、いろんなことが新鮮に見えて、また子供の頃のように驚くことができる。
Frankのように、いつも自分と帰化した国との間に腕くらいの距離を保っている人たちは、何十年も同じ町に住んでいてもそういうdefamiliarizationを体験できるのだ。「今でもまだ旅のわくわく感を味わうことがある。」とFrankは教えてくれた。「長い間ここに住んでいる今だって、突然に、ここが外国なんだって感じることがある。それに台北でバックパッカーを見かけるとまるで自分のことのように感じるんだ。」
それこそが僕が大好きな旅のわくわく感だ。でも僕は限られた数しかそれを服用できない。いつかは旅を終わらせなくちゃいけない、地面に根を降ろさなきゃいけない、ローカルにならなきゃいけない — その場所の一部にならなきゃいけない。Frankはその必要がなかったか、またはそうしたくなかったのだ。彼の旅のわくわく感への渇望は死ぬまで終わらない。彼は満足できないのだ。
This originally appeared in the November/December 2014 issue of AFAR magazine. Sign up for our newsletters.