テクノロジーより貴いのは、きみが弱いと認めること。
2017年6月3日(土)、つくば市で開催されたイノベーションワールドフェスタ2017(以下イノフェス)に参加してきた。
「テクノロジーと音楽の祭典」と銘打たれた本イベントでは、著名人によるトークセッションや豪華アーティストのライブなどが華やかに繰り広げられ、最先端のテクノロジーが惜しげもなく披露されていた。会場のそこかしこでは、「テクノロジーが人間の可能性をどう広げてくれるのか」という議論が、熱っぽく展開されていた。
しかし、私が思うのは、どれだけテクノロジーが進化したところで、それを使う側の人間が弱い存在であるならば、テクノロジーは人類にとっての良き伴走者になど、なりえるはずがないということだ。
この記事は、テクノロジーと音楽の祭典のど真ん中で、閃光と轟音に貫かれながら人類の可能性について思いを巡らせていた、一人の人間の思考の記録である。
テクノロジーは、感覚器官を拡張し、「好き」の領域を広げ、人間の自己実現を可能にする。
こうした考え方は、もちろんパピルスが紙として活用されていた時代からあっただろうが、インターネットが登場してから、その論調はさらに加速したように思われる。
2005年ごろ、セカンドライフというサービスが世界を席巻し、梅田望夫氏の『ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる』でインターネットがいかに人類を向上させるかということが熱く語られていた頃、その勢いはピークに達した。
今も、AR(拡張現実)やVR(バーチャルリアリティ)、AI(人工知能)、自動運転技術、ドローンなどといった言葉が世間を賑わせ、テクノロジーは「人間の自己実現の伴走者」として注目を浴び続けている。
例えば、VRを利用すれば自分の好きな人と実際に会っているかのように会話することができるだろうし、ドローンを利用すれば自分が足を踏み入れることのできない危険な世界を垣間見ることができるだろう。
実際、私はイノフェスでドローンを操縦する機会に恵まれたが、その小さな機体に取り付けられたカメラの画面を流れてゆく世界のかたちは新鮮で、幼い頃に「いつかこんな体験がしてみたい!」と強く思った『スター・ウォーズ エピソードI ファントム・メナス』のポッドレースのシーンが、ありありと自分の内に蘇ってくるのを感じたものである。
テクノロジーは素晴らしい。
私は、このメッセージそのものに対して異論を差し挟むつもりはない。
ただ、「人間が使うこと」を考えると、手放しでテクノロジーを賛美するわけには、とてもいかないのである。
なぜなら、「テクノロジーが人間の自己実現の伴走者となる」という主張には、重要な視点が欠けているからだ。
それは、「人間とはそもそも弱い存在である」という視点である。
そうした「人間の弱さ」は、具体的には以下の3点である。
1つ、自分のやりたいことを自覚できない。
2つ、能動的におもしろいことを探せるほど、好奇心が旺盛ではない。
3つ、強制的な環境に置かれなければ、自らを向上させられない。
一つ一つ、具体的に見てみよう。
1, 人間は、自分のやりたいことを自覚できない
こう言うと、多くの人は「そんなことはない」と反論するかもしれない。
現に、書店の棚は「夢を思い描き、その実現のためのステップを具体化して、理想の人生を生きよう」という自己啓発書で溢れかえっている。
しかし、最近の脳科学の研究では、人間の「意志」というものは幻にすぎないと言われている。
國分功一郎氏の『中動態の世界 意志と責任の考古学』の冒頭にはこうある。
現代の脳神経科学が解き明かしたところによれば、脳内で行為を行うための運動プログラムがつくられた後で、その行為を行おうとする意志が意識のなかに表れてくるのだという。
脳内では、意志という主観的な経験に先立ち、無意識のうちに運動プログラムが進行している。しかもそれだけではない。意志の現れが感じられた後、脳内ではこの運動プログラムに従うとしたら身体や世界はどう動くのかが「内部モデル」に基づいてシミュレートされるのだが、その結果としてわれわれは、実際にはまだ身体は動いていないにもかかわらず、意志に沿って自分の身体が動いたかのような感覚を得る。
(『中動態の世界 意志と責任の考古学』P.17)
すなわち、意識が「こうしたい」と思う前に、身体が「こうしよう」と動き出しているのである。
これはあくまでコンマ秒レベルの生理学的な話だが、人間が自分のやりたいことを自覚できないということを示す例は、キャリアの文脈においても見出すことができる。
日本における就職活動は、リクルート社によって大きく変わった。それまでは学閥や門閥といったものに縛られていた就職の機会が、企業の採用情報を集約したリクルートブックによって、多くの人に開かれることになったのだ。
特に、リクナビが登場してからは、自分が入社したいと思う企業に、誰もが気軽にエントリーできるようになった。
しかし、そうしたテクノロジーの発展によって「自分がやりたいと思ったことを実現できる環境に身を置いている人の割合」は格段に高くなっているはずなのに、大卒の3年以内での離職率は、インターネットの無かった30年前と変わらない3割程度の数字を示している。(参考:厚生労働省「学歴別卒業後3年以内離職率の推移」)
これなどは、「人間が自分のやりたいことを自覚できない」ために、テクノロジーが自己実現に結び付いていない典型例ではないだろうか。
また、やりたいことや進みたい方向を自覚できないがゆえに、選択肢が多く与えられれば与えられるほど、どのチョイスが自分にとってベストなのか選べなくなるという事態も生じている。
先日、いわゆる「マッチングアプリ」、俗に言う「出会い系アプリ」をダウンロードしてみたのだが、画面の向こうに無数の女性が立ち現れてきて、何をどう判断して相手との相性を見極めればよいのか、わからなくなってしまった。
2016年にヒットした二大コンテンツ『君の名は。』と『逃げるは恥だが役に立つ』は、どちらも強制的に異性と結ばれる物語である。
大ヒットの背景に、自分の行く末を誰かに決めてほしいという無意識の願望があると考えるのは、穿ちすぎだろうか。
星新一氏のショート・ショート集『ひとにぎりの未来』に収録されている『はい』という短編は、すべての人間が耳元の人工知能のささやきに従って幸せな人生を生きるというグロテスクな話だが、Amazonに行けばレコメンドが、検索すればリスティングが、SNSにログインすればおすすめユーザーが表示され、それぞれのサジェストに従って人が動く現代は、まさにそんな時代になりつつある。
2, 人間は、能動的におもしろいことを探せるほど、好奇心が旺盛ではない
これは、ヒトという生物種について一般的に言われていることと、矛盾するように思われるかもしれない。
400万年ほど前、我々の祖先は慣れ親しんだジャングルに別れを告げ、まったくの未知の環境であるサバンナに降り立った。立花隆氏の『ぼくはこんな本を読んできた』では、このサバンナ進出の原動力としてヒトの好奇心の強さが挙げられている。
そんな人類の歴史の中でも、人間の好奇心に最も大きな信頼が寄せられた瞬間は、つい最近、Googleが検索エンジンを開発した直後だったであろう。
「検索エンジンがあれば、好きなことを好きなだけ調べられる!」「TVなどのトラディショナルメディアが情報を与えるプッシュ型だとすれば、インターネットは人が自分から情報を取りにゆくプル型だ」などと、当時はやかましく言われたものだった。
しかし現在、通勤電車に揺られてスマホを眺める人の大半は、アプリゲームに興じ、LINEのメッセージに反応し、TwitterやFacebookのタイムラインを遡り、まとめサイトを回遊する、ただそれだけの行為に時間を費やしている。
「それは本当にあなたの好きなことですか?」と問えば、多くの人は首をかしげるはずだ。
プッシュ型のメディアというのは、人間の怠惰という本質に非常にフィットした暇つぶし道具である。
昨今はTVの興亡について様々な議論が交わされているが、少なくとも「TV的なメディア」、すなわち「こちらから自発的に動かなくても勝手にコンテンツを流してくれるメディア」というものは、残り続けるだろう。
3, 人間は、強制的な環境に置かれなければ、自らを向上させられない
PCやインターネットが、すべての人にとって自己を向上させるプラットフォームになると言われて久しい。
作曲やデザインが誰にでも可能になるツールや、プログラミングや外国語を学ぶためのコンテンツが、コンピュータの発展とともに供給されるようになった。
事実、私がヒンディー語の単語や文法を学んだのは、顔も名前も知らない親切な誰かが作っていた、ヒンディー語学習のための個人サイトだった。
しかし、それはあくまで私が当時ムンバイに住んでおり、従事していた不動産業のインターン業務の中で、地元のブローカーたちと互角に渡り合う必要に迫られていたためだ。
もしもインターネットによって各個人が自分の能力を極限まで引き上げられるのであれば、日本人のうちもっと多くの人が英語を話せてもよさそうなものだが、全国の男女20歳から49歳の1200人を対象にした「英語レベル」を問う調査では、実にその72.0%が自身の英語力について「単語を羅列させる程度」「英語は話せない」と回答している。
私自身のことを振り返ってみても、インターネットのリソースを有効に活用して自己の能力を向上させられたと胸を張れる経験は、上述のヒンディー語習得以外には見当たらない。
自分のよりよい生のためにテクノロジーを利用し、自己を向上させていくことは、誰にでもできることではないのだ。
テクノロジーが感覚を拡張し、「好き」を増やすのは素晴らしいことだ。その恩恵を受けて、大いなる自己実現を達成する人もたくさん現れるだろう。
しかし、「テクノロジーが人類全員を救う」ことは不可能だ。
なぜなら、私が上で述べたように、人間は基本的に弱い存在であるためだ。
ここで、考え方を180度転換してみよう。
逆説的に思えるかもしれないが、「自分は弱い存在だ」と認められてはじめて、人は納得のいく人生を送れるようになる。
たとえば、
「やりたいことを自覚できない」という認識があれば、「一見やりたくないと思ったことでも手を出してみれば学びがある」と思えるし、
「能動的におもしろいことを探せない」という認識があれば、「人が体験したこと、人がおもしろいと言っていたものをとにかく吸収してみよう」と思えるし、
「自発的に自らを高めることができない」という認識があれば、「強制的な力によって動かざるをえない環境に身を置こう」と思えるからだ。
「自分が弱い存在である」ことを認めるには、生身の身体と脳みそをひたすら使って、リアルな体験を重ねてゆくしかない。
学生時代、私は「何者か」になりたいと切に願い、「意識高い系」として興味を抱いたことにひたすら手を出していった。
大学の図書館に何百冊と置いてあるブルーバックスという科学書のシリーズをすべて読破しようとして10分の1もいかず挫折したり、
ベンチャー企業のインターンの一環で、石の鉢を売るという、つげ義春氏の『無能の人』顔負けの怪しげな新規事業を立ち上げた結果、商品が1つしか売れずに事業終了に追い込まれたり、
沖縄は久米島にあるスキューバダイビングショップで、インストラクターの兄ちゃんたちに怒鳴られながら半月間の泊り込みのアルバイトを経験したり、
学園祭で足湯にドクターフィッシュをぶち込んだアトラクションを作ろうとした結果、学祭期間の4日間でたった3人しか利用してくれずに大赤字を出したり、
投資銀行やコンサルティングファームに憧れ、意気揚々と夏のインターンの面接に臨んだものの「日本にあるサッカー場の数」を聞かれてあっという間に撃沈したり、
インターネットで知らない人たちを10人集めて「人間の好奇心」をテーマにウェブサイトを作ったものの、1日のPVが50にも達しないままクローズさせてしまったり、
インド・ムンバイに赴き、スラムのアパートの1室でインド人8人と暮らしつつ、日系企業の駐在員のための高級アパートを売るなかで、毎日毎日クライアントから「なんでインドはこうなんだよ!」と激詰めされたり…。
私は、科学者にも、起業家にも、ダイビングのインストラクターにも、経営コンサルタントにも、ウェブを使って大もうけする人にも、世界を股にかけて活躍するグローバル人材にも、なることができない。
それだけが、私が大学時代に得た哲学だった。
しかし、その哲学こそが、会社に入って「絶対に向いていない」と思っていた「テレビ担当」という仕事を与えられた時、「やりたいことがわからないのだから、やりたくないと思うことだって、死ぬ気でやってみればいいじゃん」と私に思わせ、体当たりで業務に取り組ませた原動力だったのだ。
イノフェスのライブステージで、演奏を終えたロックバンド・フレデリックのボーカルの三原健司氏は観客に向けてこう語っていた。
「僕たちはただ音を鳴らすだけ。イノベーションはきみたちの中にある」と。
この言葉を、私は「すべての起点は生の体験であり、それがイノベーションに繋がるかどうかは、その体験を自分のものにできるかどうかにかかっている」と解釈した。
デジタル音源だけを聴いていてはわからなかった楽曲の良さをライブで発見することは、音楽好きの人なら誰しも心当たりがあるだろう。
私はフレデリックというバンドをきちんと聴いたことが無かったが、この中毒性の高いメロディと世間を斜めから見ているボーカル、気の抜けたサウンドの組み合わせは素晴らしいと思った。特に演奏してくれた『オドループ』『オンリーワンダー』は抜群だ。
しかしそういった発見も、CDやデータやウェブ上でこのバンドを聴いていては、もたらされなかったものかもしれない。
生の体験を通して、自分という人間を見極めていくこと。
その過程では「好き」も「嫌い」も見つかるだろうし、「得意」や「苦手」も発見することになるだろう。
そして、そのすべての経験を通して「自分はどうしようもない弱い存在だ」と受け入れること。
人が生きる上で、テクノロジーの発展よりも何よりも大切なことは、きみが弱いと認めることだ。