【ミレニアルズの轍】ミレニアルズとは何者か?②~インターネットとゆとり教育~

Hajime Sakaguchi
MILLENNIALSTIMES
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8 min readJun 30, 2017

前回は、ある集団における人々に共通する特性である「社会的性格」について述べ、ミレニアルズの「社会的性格」は、彼らの共通の体験やライフスタイルに由来するものである、ということを書いた。

今回はボトムアップ式に、まずはこの共通の経験が何かということについて考察し、その後、その経験がミレニアルズにどのような影響を及ぼしたかについて考えていきたい。

それでは、ミレニアルズの共通の経験やライフスタイルとは何だろうか。私が考えるに、それはインターネットとゆとり教育である。

インターネットは、1990年代の半ばから急速に一般に普及した。利用率が総人口の半分を超えたのは2002年末のことだったが、その時点で既に、13–19歳の88.1%、20–29歳の89.8%が、インターネットを利用しており、これらの世代は他の世代と比較して利用率の高いツートップであった。

なお、この2002年末の段階で、ミレニアルズの先頭を走る1980年生まれの人の年齢は22歳である。2003年以降、2016年までの調査結果において、13–19歳及び20–29歳のインターネット利用率は毎年90%を超えている。ここから、インターネットはミレニアルズの共通経験だと言ってよいだろう。

総務省『通信利用動向調査』

また、ゆとり教育は、1980年以降段階的に実施され、その目的は「[ゆとり]の中で、子供たちに[生きる力]をはぐくむ」こと、であった(1996年7月の中央教育審議会答申)。偏差値による進路指導が禁止されたのが1992年、学習時間数削減の象徴である学校5日制の導入が2002年であり、これらはミレニアルズの学生時代にモロ被りする。

1980年以降、日本の義務教育の就学率は99.9%以上(総務省統計局調べ)であるため、好むと好まざるとにかかわらず、ミレニアルズはゆとり養育に大きな影響を受けているはずだ。

さて、ミレニアルズはインターネットとゆとり教育によってどのような「社会的性格」を持つに至ったのだろうか。

私が思うに、それは「自分の好きなことをして生きよう」という価値観である。

この価値観を、インターネットはインフラとして、つまりはミレニアルズのハード面から支え、ゆとり教育はメッセージとして、ミレニアルズのソフト面に訴えたように思う。

まず、インターネットがミレニアルズに与えた影響について考えよう。インターネットが登場してきた時代は、すなわちマスメディアが以前ほどの力を持たなくなった時代でもある。CMが効かない、ということは昨今うんざりするほど言われているが、「こういうクルマを持ち、こういう家に住み、こういうブランドものを身につけている人間が幸せである」という幻想が、打ち破られた時代であると言えるだろう。

それは、「おカネを稼げば幸せになれる」という考え方が「誰にとっても共通の価値観」ではなくなってしまった、とも言い換えられる。

マスメディアと比較すると、インターネットは、マクロに見れば多様化を、ミクロに見れば個別化を、それぞれ促進するインフラであると言うことができる。各々の人が各々の好きなことを掘り下げた結果、インターネット全体では多様な価値観が生まれるということだ。

「好きなことを掘り下げる」とは、どういうことだろうか。それは、Googleで検索することかもしれないし、SNSで検索することかもしれないし、(やや古いが)掲示板やブログで発信して反応をもらうことかもしれないが、総じて言えるのは、「自分の好きなことをしていると、(基本的には)ポジティブな反応が返ってくる」ということだ。

自分の好きなことについて検索すると、より詳細な情報が出てくる。自分の好きなことについて発信すると、いいね!されたり、コメントがついたりする。

このような「正のフィードバック」を受けながらインターネットで遊んできたミレニアルズは、「押し付けられた価値観に沿うよりも、自分の好きなことをした方が楽しいじゃん」という気持ちを、繰り返し強められながら成長してきたはずだ。

2001年に出版され、もはやインターネットに関する古典と言ってもよい糸井重里氏の『インターネット的』という本では、「価値観のフラット化」ということが書かれている。

いままでは、”みんなのプライオリティが一定している“ことが、社会が安定していることと考えられていました。お金は一番大事なもの、上司の命令は家庭の事情に優先する、レミー・マルタンとビールでは高いほうの酒を飲みたい…。(中略)

でも、その常識が、いまや紅白歌合戦の視聴率レベルにまで降下してきたように思います。つまり、半分くらいの人々は、いままでどおりに考えている、というくらいの感覚かなぁ。

このように、豊かな社会においては、経済も、文化も、いままでのような同じ価値観で「価値の三角形(ヒエラルキー)」をつくっていくことが困難になっていきます。(中略)

価値の三角形はバタンと倒れて、平ら(フラット)になり、そこではそれぞれの人が自分の優先順位を大事にしながら役割をこなしている。そんな、船の乗組員たちの集合が、ぼくのこれからの社会のイメージです。

(糸井重里 『インターネット的』 Kindle 位置No.396)

糸井重里『インターネット的』

お金や仕事が大切だ、という価値観は共通のものではなくなり、自分の好きなことを大切にして生きていこう、という価値観が社会に広まるということが、ここでは見事に予言されている。ミレニアルズは、その先陣を切る世代となった。

次に、ゆとり教育がミレニアルズに与えた影響とは何だろうか。個人的には「君はゆとりだから」などという物言いをされると大変に腹が立つものだが、我々ミレニアルズがゆとり教育を受けたことは事実だし、そこから大きな影響を受けていることは否定できないだろう。

実際には、ゆとり教育によって教わった内容そのものより、社会全体がゆとり教育的な価値観を重要視していたということの方が、ミレニアルズに対して影響を及ぼしたと思われる。

苅谷剛彦氏の『大衆教育社会のゆくえ』は、戦後の日本の教育の特徴を的確に指摘した名著であるが、その終章には、「ゆとり教育」という名前こそ出ていないものの、「これからの教育」についての言及がある。

現在起こりつつある教育の変化が、大衆教育社会を支えてきたこれまでの教育への反省を出発点にしていることは間違いない。より正確にいえば、これまで戦後日本の教育が抱えていた能力主義と平等主義からの脱却が、改革のめざす方向である。そのことは、受験競争の緩和、形式的平等主義の否定、学歴社会の是正、といった改革のキャッチフレーズをみればわかる。個性重視の教育や創造性を育てる教育といった価値が示される場合でも、これらが従来の教育の反省のうえに立つことは明らかである。

(苅谷剛彦 『大衆教育社会のゆくえ』 P.207–208)

苅谷剛彦 『大衆教育社会のゆくえ』

ここで言う「現在起こりつつある教育の変化」、すなわち「ゆとり教育」は、戦後日本の成長を支えた「詰め込み型・競争的教育」への反発から生まれた。その価値観とは「学歴や偏差値至上主義からの脱却」「詰め込みによる知識ではなく自ら考える力の尊重」などである。

これは、「良い大学に入って一流企業に就職する」という「従来の幸せの形」を盲信するのではなく、自分にとっての幸せとは何かを考えよ、というメッセージだと読みかえることができるだろう。

ゆとり教育が成功したか失敗したか、それを論じることは本論の目的ではない。しかし、大切なことは、ミレニアルズは高度経済成長期的な価値観ではなく、自分にとって大切なことは何かを考え、それに沿って生きよ、というメッセージの込められた教育を受け、そうした価値観を抱くようになったということだ。

以上、インターネットとゆとり教育という「ミレニアルズの共通体験」から、それらの体験がもたらした「社会的性格」を洗い出してみたが、いかがだっただろうか。

その通りだと思う、とか、なんとなく腑に落ちない、とか、いろんなご意見があると思う。

次回は、「自分の好きなことをしよう」というミレニアルズの社会的性格をモットーとして生きてきたものの、自分を探してニシヘヒガシヘ。道に迷っていろんなところに頭をぶつけてきた、著者の自己紹介をしようと思う。

人は本当に「自分の好きなこと、やりたいこと」を信じて生きることができるのだろうか?

これが私の永遠のテーマであり、人がこれからの「ポスト・ミレニアルズ」を生きる上で、極めて重要な問いかけになると確信している。

「自分探し」時代に住んでいたインドのアパート。ガネーシャが見える。

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Hajime Sakaguchi
MILLENNIALSTIMES

1989年生まれ。キャッチーが正義の広告業界で、僕は生き残れるか。