100年前のVR

miyaoka
Miyaoka Notes
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6 min readJun 1, 2018

Oculus Go 買いました。なるほどーこれがVRかーという体験性でした(語彙力)。

新しい技術が普及すればコンテンツも自ずと変わっていくんだろうなあとぼんやり思いましたが、これから先どうなるかは確実には分かりません。ですが、これまでにはどう変わってきたのかという振り返りはできます。なので振り返りの話をしましょう。

映画の誕生

技術変化を語るとき、軍事を始めとして様々な分野で変遷は見れますが、ここ100年くらいのスパンというところでは映画というメディアはなにかと捉えやすいものではないかと思います。

Kinetophone. ほぼoculusです

映画は19世紀末に誕生して現在までに120年くらいの歴史があります。発明したのはアメリカともフランスとも言われています。何故かと言えばアメリカのエジソンがキネトスコープという一人用の動画鑑賞装置を作り、それを応用して現在の映画のように映写機によってスクリーンに投影して集団鑑賞できる興行形態を作ったのがフランスのリュミエール兄弟だからです。つまりVRですね。

『ラ・シオタ駅への列車の到着』 L’Arrivée d’un train en gare de La Ciotat (1896 仏)

リュミエール兄弟による最初期の映画です。「画面奥から列車が近づいてきて、そのリアルさに思わず観客が驚いて逃げ出した」という都市伝説的な話でよく語られますが、ホントかよ?と思います。(新しい見世物ということで、多少は大げさに喧伝されたのではと思いますが)

そもそも、映像というものを見慣れている現代の我々からしたら何も驚くことがありません。しかしそういう技術が全く無かったところで初めてこれを見ることを想像してみると、確かにこれは新しい体験だったんだろうと思います。つまりVRですね。

サイレントからトーキー

映画誕生後から30年ほどは技術的に音声トラックが無かったのでサイレント映画と呼ばれる無声映画でした。そのため映像だけで分かる表現を前提として制作されます。セリフは字幕カットとして挿入したり、音楽は上映側で演奏したり、活動弁士と呼ばれる人がライブで解説やセリフのアテレコ芸などを担当していました。

映画における最初の大きな技術革新は、そこから音声が映像に同期するようになったことでしょう。トーキーと呼ばれる(今では当たり前の)技術の映画が出てくるのが1920年代末です。

『巴里の屋根の下』Sous les toits de Paris (1930 仏)

フランス最初期のトーキー映画である『巴里の屋根の下』では、4階建ての屋上から地上までクレーンが降りていって、女性にカメラが寄るシーンから始まります。

これも今見るとふーん?程度な感じだと思います。ロケ撮影に見えるこの建物群がセットとして作られてるとかそういうすごいところもあるのですが、しかし技術変化として当時の心境になってみれば、一番やりたかったことがよく分かります。何かと言うと、音ですね。

地上では群衆がこの映画のテーマ曲を歌っているのですが、最初は屋根の上から始まるので微かに聞こえるくらいで、そもそもフレームにも入っていないのでこの時点では一体何だか分かりません。それがカメラが降りて地上に近づいていくに従って音がだんだん大きくはっきりと聞こえ、それを歌う人々の姿も認識できるようになります。

煙突だらけの屋上から、煙を抜け、地上の人々を捉え、そして女性にフォーカスするという多重なシーン変化の連続性に歌声が連動しているわけです。映像と音のリニアな変化によって主題へといざなわれる、そこで観客は映画の外部から内部世界へと入り込む体験性を感じるわけです。つまりVRですね。

確かどこかで言われてた気がするのですが、FF7のオープニングがそうした上空から地上へのリニアな変化、そして列車の到着であるというのは、こうした古典映像のように新しい技術でできる体験性から考えて制作されているのだと思います。つまりVRですね。

『M』 (1931 独)

トーキー映画をもう一本挙げると、フリッツ・ラング監督の『M』もこの時期の作品です。街に潜む殺人鬼が ペール・ギュント 「山の魔王の宮殿にて」 の口笛を吹くというのが印象深い作品なのですが、これもやはり音によってもたらされる体験性です。あの曲が聞こえる=殺人鬼!という強烈な関連付けがされています。

しかしそれ以上に印象深かったのは冒頭のシーンです。エルジーという女の子が誘拐され、帰りを待つ母親が心配して階下や外に何度も呼びかけるのですが、母親の呼びかけに反してそこには不気味な無言の空間のみが提示されます。これによりエルジーは帰ってこないのだ、という不在っぷりが観客に体験として伝えられるわけです。つまり…、そう、VRですね。

『街の灯』 City Lights (1931米)

同時期のチャップリンは、映画界がトーキーになっていく流れの中で未だサイレント劇を作っていました。

現代からすればどの作品も白黒で、ただの古い映画だと一緒くたに感じてしまうかもしれません。しかし、おそらく当時としては現代のように技術変化の真っ只中だったのだと思います。そこで敢えてサイレント映画でドラマ作りに徹したというのは、やはりサイレント時代を代表する役者ゆえであると思います。

終盤のほんの短い字幕のみで言葉を交わす演出効果などは、サイレントでなければありえなかったのではとも思いますし、観ていた僕は「これが…、涙?」と初めて落涙して綾波レイのような体験性を得ました。

浮浪者チャップリン、盲目の少女、そして現実を忘れて酒に溺れる富豪という三者が、見えないものを見ようとする。そこに真実があるという体験性のストーリーです。

つまり、VRですねー。

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