はじめに・文芸オープンソース宣言
今日、日本語で書かれた近代文学作品の多くにネット上でアクセスできる。インターネットの電子図書館「青空文庫」には、2021年7月の時点で1万6千以上の作品が収録されており、その大半が著作権の保護期間が過ぎたパブリック・ドメインのものだ。パソコンから、もしくはスマホやタブレットから、膨大な量の作品に、自由かつ無償でアクセスできる。しかし、夏目漱石から山本周五郎に至るまでの文学が、ただ読めるだけではなく、新たな創作に使えるということの価値に気づいている人はどれだけいるだろうか。
本書は、青空文庫という素晴らしい文化資源の森に入り込み、日本近代文学作品の数々から新たな価値を現代の文脈の中に取り出した過程そのものを表現している。21の作品を読み、その経験から編み出した表現の数々は、今もわたしの思考の隅々で息づいている。
そもそも本を読む、ということは一体どういうことなのか、考えてみよう。読むという行為は、他者の書きつけた情報を「知識」として取り込むことではない。読書はただの受動的な経験ではない。読むというプロセスの中には、書くという行為が埋め込まれているからだ。
文学作品を深く読み込んでいる時、わたしたちの意識のなかでは多彩なイメージが渦巻いている。このイメージの源泉は、決して作品そのものに書かれた文にとどまらない。読者の内なる思考や経験の蓄積といった固有の記憶の総体が、他者の表現に触れられることによって、自由なイメージの奔流が生成されるのだ。この時、作品は読者にとっての、意識の「遊び場」へと変化する。
優れた書き手は、巧妙に練り上げられた感覚の迷路へと読者を誘う存在だ。そして、優れた読者は、その世界に足を踏み入れることによって、自分だけの経験を掴み取る。
書き手と読み手のあいだに、ダンスのような相互作用が生まれてはじめて、文学的体験は成立する。このことは文学に限らず、あらゆる表現、そしてコミュニケーションの根底を成している。
わたしたちは読みながらにして既に、無意識のレベルにおいて書きはじめているのだ。だから、読書が完了するには、その過程で生まれたイメージと思考が体の外側に表出されなければならない。
このように考えると、書くという行為もまた、読む行為と不可分であることに気づく。なぜなら、書くということは、それまで読み込んできた膨大な文章の総体を自分なりに編集し、そこから未知の組み合わせを練り上げることに他ならないからだ。わたしたちは言葉を書き出した刹那、数十ミリ秒から数百ミリ秒単位の時間尺度のあいだに、それを読んでいる。書く行為の最中に記憶へのフィードバックがかかり、新しいイメージが惹起される。
わたしたちは、だから、自ら書き出した文字の面影にさえも、他者のテキストを読み込んでいるのだといえる。
かくも循環的な「読む」と「書く」の関係性は、普段はほとんど意識されていないだろう。わたしたちが生きている現代では「情報はインプットとアウトプットから成る」という機械的な二元論が信奉され、意味内容の「正確な理解」が求められる。
あたかも「客観的な正解」なるものが存在し、無駄なノイズは排除すべきだと信じ込まされている。また、現代社会を規定する諸々の制度は、「作り手」と「受け手」のあいだに境界線を引き、「消費者」が容易に「制作者」の領域に踏み込めなくするようなメッセージを張り巡らせてきた。
その意味では、著作権という法律制度は象徴的である。著作権とは、ある表現作品を複製したり、別の作品の素材として利用する権利のことだ。著作権が存在しなければ、作品が公表された瞬間、不法なコピーが出回ってしまい、作者は正当な対価を得られなくなってしまう。この意味では、著作権は文化が発展する上で必要不可欠のルールであるといえる。
しかし、同時に、企業が権利を保護して収益を最大化する、という市場の論理に支えられて、著作権は過去300年を通して肥大化の一途をたどってきた。18世紀初頭においては、作品の公表からわずか14年であった著作権の保護期間は、現在では作者の死後70年になった。
もともとは、作品の公表から一定の期間は著者の権利を認め、それが過ぎれば社会に還元されるというバランスが、当初の著作権の構想にあった。表現者は誰しもが、過去の先人たちが築いてきた文化的共有財の恩恵を受け、新しい表現を生み出している。だか ら、新しい作品が作られる際には、独占的な権利を一定期間は保護するが、その後は社会の共有財にしよう。それは、次の世代の表現者たちが開花するための大切な糧になるのだから。
この循環的な文化観は、優れた「書き手」も最初は「読み手」である、という人間の自然と整合するものだった。しかし、その後のわずか300年ほどで、文化はいつのまにか金銭で買い取るか、もしくはただただ消費する対象とみなされるようになってしまった。
ただし、21世紀に入って、インターネット文化の誕生が状況を大きく変えた。アメリカの憲法学者であり、著作権法の専門家でもあるローレンス・レッシグは、インターネットの登場によって、それまでは「読み取り専用」型であった文化が、「読み書き」型に変化したと論じた(※1)。
出版という世界に限れば、インターネット以前は、専業 作家や研究者が主な書き手であって、読者が書き手に転じるケースは比較的稀であった。しかし、インターネット以降は、誰しもがブログを書いたりつぶやきを発信したりするようになり、そこから潜在的な書き手が本を出版するケースが格段に増えた。
個々の作品のクオリティやアマチュアとプロフェッショナルの境界といった点は議論されなければならないとはいえ、今日の社会のなかで表現者として表出している人の数は確実に増え続けているだろう。
インターネットによって可能になった自由な情報流通は、既存の著作権の商慣習を揺るがし、多くの新しい文化様式を生むと同時 に、少なくない摩擦も生んできた。その過程では、たとえば違法なファイル共有を促進する動きも生まれてきた。その反動で、過度に権利を保護しようとするダウンロード違法化のような法改正の動きも活性化し、混沌とした様相を呈している。
それでは、文化の主導権を巡って解放と抑圧の力がせめぎ合う過渡期を生きるわたしたちに、何ができるのだろうか。わたしは、これまで通り、本を読みながら書き、書きながら読むという、人間が脈々と行ってきた営為を力強く継続することが肝要だと思う。しかし、それは豊かな文化の必要条件であっても十分条件ではない。
インターネットが全地球規模に浸透することによって、それ以前から人類の文化を駆動してきた文化の力学が、ネットワークとして可視化されるようになった。
この文化的ネットワークは、無数のミクロな「読むこと」と「書くこと」で構成されている。
わたしたちは文化の「消費者」ではない。「文化の消費」などという現象は存在しない。わたしたちが読んでいる過程には、常に書き込みが伴っている。
あらゆるものがネットワークに接続されるポスト・インターネットの時代にあって、この事実こそがもっと語られ、認識されなければならないだろう。
本書を支えているのは、「読む」と「書く」が同時並行していることを示すための構造だ。わたしが選んだ21の作品は、それぞれ三つの部分に分けて構成されている。まず、その作品を読みながらわたしが書いた短いテキストが配置されている。次に、当該作品の初版本から本文ページのスキャン画像を提示している。これは、原著が生み出された時代の感覚を、活版の印刷やテクスチャから読み取ってもらえればという考えに基づいている。
そして、最後に、青空文庫からダウンロードした本文データを基に、わたしのテキストが言及しているパートを中心に抜粋した部分を掲載している。作品によってはそれだけでページ数が一冊の本となるものがあるので、全てを掲載することはできなかったが、末尾に掲載したQRコードをスマートフォンのカメラで読み込めば、すぐに青空文庫の全文にアクセスできる。本書を読み進めながら、ぜひ原作も読んで頂ければ嬉しい。
本書で作品を選び、読み込む過程で、わたしは自身の研究に関する重要なヒントを多く抽出できた。その意味では本書は、客観的に作品を評する、いわゆる「書評集」ではない。それでは一体、これらのテキストは何なのだろうか。わたしが行ったのは、作品の内側に入り込み、そこから栄養素を摂取し、別の情報を代謝しながらテキストを練り上げるということだ。読書を通して生まれた思考を自ら記録した文章は、あるいは旅行記や体験記に似ているのかもしれない。そうやって書き出したテキストたちも、互いに影響し合っていった。
たとえば、日本民俗学を打ち立てた柳田國男の『遠野物語』(1910)は、「妖怪」という表象世界が人々の多様な心理を反映している事実を、圧倒的な密度をもって表現している。そして、柳田における「生者と共在する死者」という主題は、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』(1933)、折口信夫の『死者の書』(1943 )、そして小川未明の数々の童話とも共鳴している。このこと は、能を習うわたしにとっては、 「見立て」という認知機能のリアリティを滋養させてくれ、情報を読み取る過程における人間の能動性について考える糧となった。
たとえば、哲学者の和辻哲郎が若い時期に書いた仏教美術の鑑賞記『古寺巡礼』(1919)を読めば、ユーラシア大陸を横断する大きな文化的影響の流れの存在に気が付かされる。同時に、歴史家の内藤湖南の講演録『大阪の町人学者富永仲基』(1925) は、同じアジアに属するインド、中国、日本でも、それぞれの地域における文化的認識論が根源的に異なることについて考えさせられた。テクノロジーが人の心理に及ぼす影響に関する研究領域では、文化差は改めて重要視されるようになっているが、そこでも富永や内藤たちの議論は示唆を与えてくれるだろう。
またたとえば、岡倉天心が英語で書いた『茶の本』(1929 ・英語原文は1905)や九鬼周造が仏語で書いた『「いき」の構造』(1930)が、ある文化に特徴的な観念をどのように他言語に翻訳できるのか、という問いに対するヒントを与えてくれる。自国主義が蔓延し、新しい冷戦に突入しようとしているかのようにみえる現代において、異なる文化間の翻訳はなおさら重要になっていると言えるだろう。
本書は、以上の様な筆者の読書プロセスを表現したものだが、それと同時に、その表現形式自体をひとつのフォーマットとして読者に提案するものでもある。つまり、本書の構造は、誰にでも再現可能になるように作った。
本書の特徴の一つは、先述したように現作品を、紙幅の許す限り収録した点にある。このような構成が可能なのは、対象とした作品がどれもパブリック・ドメイン、つまり著作権が失効したものを選んだからである。
パブリック・ドメインとは、作品を使う権利が社会に還元されている、ということを意味している※2。加えて、パブ リック・ドメイン作品の文字入力と校正を続けてこられた青空文庫の有志の「工作員」の方々のおかげで、原文のデータにアクセスできたからである。
青空文庫は1997年に設立されたインターネット上の電子図書館で、著作権が切れた数多くの文芸作品を電子化してきた。青空文庫が無償で提供するデータはまた、Amazon Kindleなどの電子書籍リーダー用にも無償配布されているし、他にもさまざまな専用アプリを介してスマートフォンで読むこともできる。青空文庫コミュニティが営々と築いてきたこのアーカイブが存在しなかったら、筆者が本書のために作品を読み、編集する作業は非常に困難だったろう。
パブリック・ドメインの作品は、ただ無償で読めるだけではなく、すべて自由に翻案したり改変することもできる。まさに、読み手自 身の新しい表現の糧にすることができるのだ。学術的な論文における引用であれば、対象作品の著作権がたとえ失効していなくても、著作権法の規定から除外されるので、自由に使うことはできる。しかし、文化を構成する表現の総体のうち、学術研究は一部分を成すに過ぎない。もっと自由に、過去の文学作品を別の新しい作品の構成要素として利用できなければ、文化は次第に窒息してしまうだろう。
この考え方は、読み手が書き手になって捻り出した新しい表現に対しても適用されるべきだろう。筆者が多くの文芸作品を読みながら書いたテキストもまた、本書の読者にとっての表現の糧として利用されてほしい。だから、本書に収めた筆者による書評は全て、筆者のクレジット表記さえ伴えば、誰でも無許可で、商用利用しても良い、という条件を付与した。その条件を規定するのが、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスという規約である。
クリエイティブ・コモンズとは、先述したレッシグが2002年に仲間たちと立ち上げた国際NPOであり、インターネット上で原作者が自ら、自身の作品の著作権の一部をあらかじめ「開放」するためのライセンスの仕組みを提供している※3。ライセンスには基本 形6種類に加えてパブリック・ドメインのものがあり、作者は自分の作品に付与したい自由度を都度もしくは一括で意思表示できる。
筆者は、本書のために書き下ろしたテキストには一様に、クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(表示4.0国際)という条件を付し、全てウェブ上で公開している(次頁QRコードを参照)。これらの文章を引用したり他の目的のために使いたい場合、ウェブ上の記事にアクセスすればコ ピー&ペーストが容易に行える。そして、それを使った文章やその他の形式での作品を発表する場合には、原文ページへのリンクと筆者の氏名を表記してくれれば良い。わたしに事前に許諾を申請する必要もない。
インターネットの世界では、ある作品の構成要素が他者によって自由に活用される状態で開示されることを「オープンソース」と呼ぶ。わたしたちが日常的に使うスマホやパソコンを駆動させる大部分のソフトウェアがオープンソース形式で、無数の開発者の協働によって日々制作されていることは意外と知られていない。クリエイティブ・コモンズは、このソフトウェアの力学を文芸やその他の表現様式全般に適用しようとして生まれた。
翻って考えるに、文芸とはもともとオープンソースであったと言える。文芸作品を形成する文字は全て、最初から読者に対して、新しい表現の素材として、開示されている。わたしたちはただ、文学に対する認識を、「読み込み専用」型から「読み書き」型へと更新すればいい。少なくとも、本書で扱っているパブリック・ドメインの文学作品については、それらを自身の表現の糧として取り込み、使うことが法的にも認められている。そうすることで、過去の作品の一部が新しい表現の一部として生き永らえることにもつながるのだ。
わたしたちは、いまこの時点においても、宮沢賢治が『インドラの網』で描いた幻想的な風景のように、あらゆる時空の思念が数珠つなぎになって形成された広大なネットワークの中にいる。本書はその中の微小なサブネットワークに過ぎないが、読者の方々にはぜひ上位のインターネットワークへと連なるうねりを感じ取ってもらえればと思う。
※1: Lawrence Lessig, “Remix: Making Art and Commerce Thrive in the Hybrid Economy,” Penguin Press, 2008
※2: 2018年12月30日に「環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定」(TPP)が日本において効力を生じ、原則的保護期間がそれまでの50年から70年まで延長された。その時点で著作権が失効してない作品は、作者の死後70年経たないと著作権が失効しないことになった。
※3: 筆者は2003年より、日本におけるクリエイティブ・コモンズの立ち上げに携わり、以来その普及活動に従事してきた。クリエイティブ・コモンズについてより詳しく知りたい方は、ホームページをご覧頂きたい。
http://creativecommons.jp
ドミニク・チェン『コモンズとしての日本近代文学』
(イースト・プレス)
各章の構成(※印刷製本版)
1著者によるテキスト
著者による作品の解説、解題、批評。現代の視点から原著が持っていたさまざまな可能性を論じます。
2初版本の本文写真( 2頁分を見開きで構成 )
初版本の本文写真を掲載することでオリジナルの物としての本が、いったいどのような消息をもって読者に伝わっていたのかを示します。
3原著の抜粋( 作品によっては全文掲載 )
著者が解説した原著の該当部分を青空文庫から抜粋。QRコードから青空文庫の該当頁へ飛びます。そこで原著を最初から読むことができます。
本文中で言及された作品のうち、タイトルの脇に†マークのあるものは青空文庫で読むことができます。
日本近代文学は、いまや誰でも今ここでアクセスできる我々の共有財産(コモンズ)である。そこにはまだまだ底知れぬ宝が隠されている。日英仏の文化とITに精通する著者が、独自に編んだ一人文学全集から、今の時代に必要な「未来を作る言葉」を探し出し、読書することの本質をあらためて問う。もう重たい文学全集はいらない。
・編著者:ドミニク・チェン
・編集:穂原俊二・岩根彰子
・書容設計:羽良多平吉
・320ページ / ISBN:4781619983 / 2021年8月20日刊行
目次
寺田 寅彦『どんぐり』
・ドミニク・チェン:「織り込まれる時間」
・『どんぐり』初版本
・『どんぐり』青空文庫より
使用書体 はんなり明朝
夏目 漱石『夢十夜』
・ドミニク・チェン:「無意識を滋養する術」
・『夢十夜』初版本
・『夢十夜』抜粋 青空文庫より
使用書体 しっぽり明朝
柳田 國男『遠野物語』
・ドミニク・チェン:「死者たちと共に生きる」
・『遠野物語』初版本
・『遠野物語』抜粋 青空文庫より
使用書体 幻ノにじみ明朝
石川 啄木『一握の砂』
・ドミニク・チェン:「喜びの香り」
・『一握の砂』初版本
・『一握の砂』抜粋 青空文庫より
使用書体 しっぽり明朝
南方 熊楠『神社合祀に関する意見』
・ドミニク・チェン:「神々と生命のエコロジー」
・『神社合祀に関する意見』初版本
・『神社合祀に関する意見』抜粋 青空文庫より
使用書体 いろは角クラシック Light
泉 鏡花 『海神別荘』
・ドミニク・チェン:「異界の論理」
・『海神別荘』初版本
・『海神別荘』抜粋 青空文庫より
使用書体 A P-OTFきざはし金陵 StdN M
和辻 哲郎『古寺巡礼』
・ドミニク・チェン:「結晶する風土」
・『古寺巡礼』初版本
・『古寺巡礼』抜粋 青空文庫より
使用書体 源暎こぶり明朝 v6 Regular
小川未明『赤い蝋燭と人魚』
・ドミニク・チェン:「死者と生きる童話」
・『赤い蝋燭と人魚』初版本
・『赤い蝋燭と人魚』青空文庫より
使用書体 A-OTF 明石 Std L
宮沢 賢治『インドラの網』
・ドミニク・チェン:「縁起を生きるための文学」
・「インドラの網』初版本
・『インドラの網』青空文庫より
使用書体 幻ノにじみ明朝
内藤 湖南『大阪の町人学者富永仲基』
・ドミニク・チェン:「アップデートされる宗教」
・『大阪の町人学者富永仲基』初版本
・『大阪の町人学者富永仲基』抜粋 青空文庫より
使用書体 小塚明朝
三遊亭 円朝『落語の濫觴』
・ドミニク・チェン:「落語の未来」
・『落語の濫觴』初版本
・『落語の濫觴』青空文庫より
使用書体 游教科書体 Medium
梶井基次郎『桜の樹の下には』
・ドミニク・チェン:「ポスト・ヒューマンの死生観」
・『桜の樹の下には』初版本
・『桜の樹の下には』青空文庫より
使用書体 TB明朝
岡倉 天心『茶の本』
・ドミニク・チェン:「東西翻訳奇譚」
・『茶の本』初版本
・『茶の本』抜粋 青空文庫より
使用書体 I-OTF 明朝オールド Pro R
九鬼 周造『「いき」の構造』
・ドミニク・チェン:「永遠と無限の閾」
・『「いき」の構造』初版本
・『「いき」の構造』抜粋 青空文庫より
使用書体 クレー
林 芙美子『清貧の書』
・ドミニク・チェン:「世界への信頼を回復する」
・『清貧の書』初版本
・『清貧の書』抜粋 青空文庫より
使用書体 RF 本明朝 — MT新こがな
谷崎潤一郎『陰鬱礼賛』
・ドミニク・チェン:「陰影という名の自由」
・『陰影礼賛』初版本
・『陰影礼賛』抜粋 青空文庫より
使用書体 ZENオールド明朝
岡本 かの子『家霊』
・ドミニク・チェン:「呼応しあう「いのち」」
・『家霊』初版本
・『家霊』抜粋 青空文庫より
使用書体 筑紫明朝 Pro5 — RB
折口 信夫『死者の書』
・ドミニク・チェン:「死が媒介する生」
・『死者の書』初版本
・『死者の書』抜粋 青空文庫より
使用書体 XANO明朝
中谷 宇吉郎『『西遊記』の夢』
・ドミニク・チェン:「本当に驚くような心」
・『『西遊記』の夢』初版本
・『『西遊記』の夢』抜粋 青空文庫より
使用書体 F 篠 — M
柳 宗悦『雑器の美』
・ドミニク・チェン:「アノニマス・デザインを愛でる」
・『雑器の美』初版本
・『雑器の美』抜粋 青空文庫より
使用書体 A-OTF A1 明朝
山本周五郎『季節のない街』
・ドミニク・チェン:「全ての文学」
・『季節のない街』初版本
・『季節のない街』抜粋 青空文庫より
使用書体 平成明朝体 W3