宮沢賢治『インドラの網』:縁起を生きるための文学

Dominick Chen
Modern Japanese Literature as a Commons
10 min readAug 20, 2021
ドミニク・チェン『コモンズとしての日本近代文学』(イースト・プレス)書影

ヒンズー教において天上と地上の世界を統べるインドラは、仏教に改宗して帝釈天と呼ばれるようになった。空海が中国より持ち帰り、発展させた華厳経では、このインドラが住む宮殿のアーキテクチャをイメージすることが、生きながらにして悟る(即身成仏)ための方法として説かれている。

インドラ宮殿には重々帝網と呼ばれる網がかかっている。網の結び目のひとつひとつが珠玉であり、他の全ての玉の存在を映している。この世界の中では互いに関係し合わない存在は無い、という「縁起」の仏教思想を説くメタファーだ。賢治は束の間のあいだの幻想の中でこの「インドラの網」を感得する風景を独特の画風で描き出した。

この短編に登場する人物には、20世紀に入って社会に広まった科学的な視点が混じっている。岩石の種類を知る地質学、異文化の交流を知る考古学、光の特性を知る物理学の語彙が入り混じりながら、幻想的な光景が興奮と共に描写される。ここには、後世の優れたサイエンス・フィクション作品が描いた異世界の幻想性にも通じる情緒が感じ取れる。

わたしは、この短いテキストを読んで、インターネットのイメージを喚起させられた。もしも賢治が21世紀の今日も生きていたら、情報ネットワークというモチーフをどのように捉えただろうか。

人は、世界の複雑さと対峙するためのインタフェースとして、高度に発達した神経系をその身体に持つ。人間の受容器官はしかし、それほど多くの物理現象を知覚できるわけではない。一部の生物は、人間が知覚しえない赤外光や化学物質、地磁気までも捉えることができる。また、世界に働きかける媒体としても、テクノロジーをそぎ取ってしまえば、せいぜい分節化された四肢と声帯しか持ち合わせていない。鳥類のように羽根を羽ばたかせて空を飛翔することや、イルカやコウモリのように、超音波を発して空間の構造を認識するエコーロケーションを使うこともできない。

それでも人類は今のところ、地球環境の支配種となり、人新世の時代を作り上げた。それは生命の進化という無目的で遅い変化のプロセスを、テクノロジーを用いて加速させたからだ。私たちは今日、インターネットによって結ばれた情報社会の上で、光の速度で地球の裏側にいる同輩と会話を行い、電子ディスプレイの上で言葉や形をつくり、それを物理的に出力して世界中の地域に届けることができる。

ネットワークとはそもそも網のことであり、ノード(網目)とは複数の接続線を持つ結節点を指す。この網目の細かさは日々、増大している。20世紀の中葉には大きな部屋一杯を占めていたメインフレーム・コンピュータが家庭やオフィスのワークステーションやパーソナル・コンピュータに置き換えられ、21世紀に入ってからは一人ひとりが携帯するスマートフォンになった。モノのインターネット《Internet of Things》が浸透した現在は、道具や建築環境のような無機物までもがネットワークに接続している。この傾向は今後ともさらに加速する。分子ロボティクスと普遍的なデータベースとしてのパブリック・ブロックチェーンが結合すれば、人間や家畜の臓器や細胞の一つ一つまでもがインターネット上で情報を刻む網目になるだろう。

この人間社会の向かう先に、賢治が幻視したインドラの網は現出するのだろうか。帝釈天の宮殿にかかる網というビジョンは、あらゆる存在が不可視のレイヤーで接続していることを説くものだが、賢治は仏教の用語は使わずに、あくまで一個人の主観的な視点からこの宇宙的なネットワークの体験を描いた。わたしたちは普段、ディスプレイ越しにインターネットに接続しながら、その裏側で無数の電気信号がネットワークを往来している様子を認識していない。インターネットの内部に視点を移すことが可能であれば、それは賢治の描いた筋書きのない夢のように幻想的な知覚を生み出すに違いない。

夢のなかの身体は実在しない。だが、それが包囲環境の情報入力を介さずに脳神経ネットワークのなかで生成されるという意味では、知覚としての純度は異常に高くなる。これは身体に備わる原初のヴァーチャル・リアリティの生成能力として見て取れるだろう。夢のなかでは、実世界では意識によってフィルターされてしまう無数の知覚が自然法則の制約から解放されて、縦横無尽に生起する。そうして物理的常識からは考えられない事態が、何の不思議もなく発生する。「百千のその天の太鼓は鳴っていながらそれで少しも鳴っていな」い音の聴取や、「その孔雀はたしかに空には居りました。けれども少しも見えなかったのです。たしかに鳴いておりました。けれども少しも聞えなかったのです。」という知覚は、夢や幻においては全くの現実なのだ。

賢治は、3人の子どもが指差す「インドラの網」、「風の太鼓」、そして「青孔雀」という不可知の存在の体験を通して、次第に自己の輪郭を失くしていく。環世界のネットワーク構造を直に知覚することで、主観と客観の二項対立が崩壊し、第三の認識を得る。賢治においては、インドラの縁起のネットワークとは、このような体験として納得されたのだろう。

生命本来の縁起から遠ざかってしまったように思える人類種が、これほどまでに客観描写が難しい体験にそれでも共感し、追体験できるのは、言語と記憶のおかげだろう。言語という最初のメディウムを獲得したことで、私たちは夢を詩に起こせるようになった。そして、計算機を用いることでヴァーチャルな視聴覚体験を紡ぐことが可能になった。

しかし、賢治の文章を読んでいると、これほど不可分に思える人間と技術の関係性をもう一度見直す可能性についても考えさせられる。技術がどれほど身体に接近しようと、現在の脳神経科学は感覚そのものが発現する地点に達していない。外部から「見せる」ことと、身体がその内部において自律的に生成することで「見える」ことの距離は、いまだに大きいのだ。果たして、未来のインターネットが賢治の幻視したインドラの網に近づけるかどうか、それは意外にも文学と人間の関係を再構築することによって明らかになるのかもしれないと思う。

ドミニク・チェン『コモンズとしての日本近代文学』
(イースト・プレス)

各章の構成(※印刷製本版)

1著者によるテキスト
著者による作品の解説、解題、批評。現代の視点から原著が持っていたさまざまな可能性を論じます。

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初版本の本文写真を掲載することでオリジナルの物としての本が、いったいどのような消息をもって読者に伝わっていたのかを示します。

3原著の抜粋( 作品によっては全文掲載 )
著者が解説した原著の該当部分を青空文庫から抜粋。QRコードから青空文庫の該当頁へ飛びます。そこで原著を最初から読むことができます。
本文中で言及された作品のうち、タイトルの脇に†マークのあるものは青空文庫で読むことができます。

日本近代文学は、いまや誰でも今ここでアクセスできる我々の共有財産(コモンズ)である。そこにはまだまだ底知れぬ宝が隠されている。日英仏の文化とITに精通する著者が、独自に編んだ一人文学全集から、今の時代に必要な「未来を作る言葉」を探し出し、読書することの本質をあらためて問う。もう重たい文学全集はいらない。

・編著者:ドミニク・チェン
・編集:穂原俊二・岩根彰子
・書容設計:羽良多平吉
・320ページ / ISBN:4781619983 / 2021年8月20日刊行

目次

寺田 寅彦『どんぐり』
・ドミニク・チェン:「織り込まれる時間」
・『どんぐり』初版本
・『どんぐり』青空文庫より
使用書体 はんなり明朝

夏目 漱石『夢十夜』
・ドミニク・チェン:「無意識を滋養する術」
・『夢十夜』初版本
・『夢十夜』抜粋 青空文庫より
使用書体 しっぽり明朝

柳田 國男『遠野物語』
・ドミニク・チェン:「死者たちと共に生きる」
・『遠野物語』初版本
・『遠野物語』抜粋 青空文庫より
使用書体 幻ノにじみ明朝

石川 啄木『一握の砂』
・ドミニク・チェン:「喜びの香り」
・『一握の砂』初版本
・『一握の砂』抜粋 青空文庫より
使用書体 しっぽり明朝

南方 熊楠『神社合祀に関する意見』
・ドミニク・チェン:「神々と生命のエコロジー」

・『神社合祀に関する意見』初版本
・『神社合祀に関する意見』抜粋 青空文庫より
使用書体 いろは角クラシック Light

泉 鏡花 『海神別荘』
・ドミニク・チェン:「異界の論理」

・『海神別荘』初版本
・『海神別荘』抜粋 青空文庫より
使用書体 A P-OTFきざはし金陵 StdN M

和辻 哲郎『古寺巡礼』
・ドミニク・チェン:「結晶する風土」

・『古寺巡礼』初版本
・『古寺巡礼』抜粋 青空文庫より
使用書体 源暎こぶり明朝 v6 Regular

小川未明『赤い蝋燭と人魚』
・ドミニク・チェン:「死者と生きる童話」

・『赤い蝋燭と人魚』初版本
・『赤い蝋燭と人魚』青空文庫より
使用書体 A-OTF 明石 Std L

宮沢 賢治『インドラの網』
・ドミニク・チェン:「縁起を生きるための文学」

・「インドラの網』初版本
・『インドラの網』青空文庫より
使用書体 幻ノにじみ明朝

内藤 湖南『大阪の町人学者富永仲基』
・ドミニク・チェン:「アップデートされる宗教」

・『大阪の町人学者富永仲基』初版本
・『大阪の町人学者富永仲基』抜粋 青空文庫より
使用書体 小塚明朝

三遊亭 円朝『落語の濫觴』
・ドミニク・チェン:「落語の未来」

・『落語の濫觴』初版本
・『落語の濫觴』青空文庫より
使用書体 游教科書体 Medium

梶井基次郎『桜の樹の下には』
・ドミニク・チェン:「ポスト・ヒューマンの死生観」

・『桜の樹の下には』初版本
・『桜の樹の下には』青空文庫より
使用書体 TB明朝

岡倉 天心『茶の本』
・ドミニク・チェン:「東西翻訳奇譚」

・『茶の本』初版本
・『茶の本』抜粋 青空文庫より
使用書体 I-OTF 明朝オールド Pro R

九鬼 周造『「いき」の構造』
・ドミニク・チェン:「永遠と無限の閾」

・『「いき」の構造』初版本
・『「いき」の構造』抜粋 青空文庫より
使用書体 クレー

林 芙美子『清貧の書』
・ドミニク・チェン:「世界への信頼を回復する」

・『清貧の書』初版本
・『清貧の書』抜粋 青空文庫より
使用書体 RF 本明朝 — MT新こがな

谷崎潤一郎『陰鬱礼賛』
・ドミニク・チェン:「陰影という名の自由」

・『陰影礼賛』初版本
・『陰影礼賛』抜粋 青空文庫より
使用書体 ZENオールド明朝

岡本 かの子『家霊』
・ドミニク・チェン:「呼応しあう「いのち」」

・『家霊』初版本
・『家霊』抜粋 青空文庫より
使用書体 筑紫明朝 Pro5 — RB

折口 信夫『死者の書』
・ドミニク・チェン:「死が媒介する生」

・『死者の書』初版本
・『死者の書』抜粋 青空文庫より
使用書体 XANO明朝

中谷 宇吉郎『『西遊記』の夢』
・ドミニク・チェン:「本当に驚くような心」

・『『西遊記』の夢』初版本
・『『西遊記』の夢』抜粋 青空文庫より
使用書体 F 篠 — M

柳 宗悦『雑器の美』
・ドミニク・チェン:「アノニマス・デザインを愛でる」

・『雑器の美』初版本
・『雑器の美』抜粋 青空文庫より
使用書体 A-OTF A1 明朝

山本周五郎『季節のない街』
・ドミニク・チェン:「全ての文学」

・『季節のない街』初版本
・『季節のない街』抜粋 青空文庫より
使用書体 平成明朝体 W3

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Dominick Chen
Modern Japanese Literature as a Commons

Researcher. Ph.d. (Information Studies). Profile photo by Rakutaro Ogiwara.