小川未明『赤い蝋燭と人魚』: 死者と生きる童話

Dominick Chen
Modern Japanese Literature as a Commons
10 min readAug 20, 2021
ドミニク・チェン『コモンズとしての日本近代文学』(イースト・プレス)書影

子どもが生まれてから、寝かしつける際に絵本を読み聞かせたり、子守唄を歌うようになった。数年の間、少しずつ童話と童謡の世界に親しむうちに、絵本の物語の作られ方に興味が湧いてきた。というのも、何度も何度も経典のように同じ絵本を読み上げることで、大人が読み親しむ小説とは異なる妙味が絵本にはある、と実感されるようになったからだ。

特に、単純な起承転結の構造に従わない不条理な絵本には、なんとも言えない味わいがある。子どもに読み聞かせていると、知覚の根底を掘り返されるような、少し怖いような感じがする童話もある。読みようによっては、絵本は大人にとっても奥深い幻想譚となる。そのような物語を声に出して読み上げる際には、自ずと感情が込もってしまう。

それでも、現代の絵本では、いくつかの例外を除けば、死や暴力の残酷さがむき出しのまま描かれることはほとんどない。だから、小川未明の作品を読んだ時には、これほど人の死を題材にした話を子ども向けに書けるものなのかと、驚いてしまった。

未明は短気な性格だったようで、もともとは小説家だったが、長編が書けないということから童話に転向したという。青空文庫ではすでに500以上の作品が公開されており、作業中リストにはさらに300タイトルほどが登録されていることからも、未明の尋常ではない多作ぶりが伺える。どの作品も、大人の読み物としては掌編小説のようであり、子どもに読み聞かせる話としてもちょうど良い長さだ。

そのなかでも古典的名作と呼ばれる『赤い蝋燭と人魚』(1921)は、人の優しさに憧れる人魚が、自分の子どもを海辺の町に産み落とす情景から始まる。すると信心深い老夫婦に拾われて、平和に育てられる。しかし、彼女の作る蝋燭の魔術的な効能に、多くの人々が惹きつけられてしまう。そうしてある日、見世物興行の香具師にそそのかされ、欲に目が眩んだ老夫婦は、実の娘のように可愛がっていた人魚を売り飛ばしてしまう。するとほどなく、人魚の母としき者が嵐を巻き起こし、最後には老夫婦の住んでいた町ごと滅ぼしてしまう。

この物語の読後感には、複雑なニュアンスが漂う。当初は異形の子どもを慈しむ心を持っていた夫婦が、人魚は不吉であるという言葉によっていとも簡単に「鬼のような心持」になってしまうということだ。この人間の恐るべき浅ましさは、悪人たちが 最後に凄まじい自然の力によって罰せられたとしても、払拭されない。なぜなら、老夫婦は当初は善人であったのだから。善悪は区別できない、同じ人間のなかに善も悪も同様に住み着くのだというメッセージが読み取れる。

このやるせない感情は、未明作品を特徴づけるモチーフなのだろう。『野ばら』†(1922)では、敵同士ながらも固い友情に結ばれた国境警備兵の若者と老人が、戦争の勃発によって引き離されてしまう。若者が北方に去り、老人がひとりで残っていると、旅人から若者の国が敗北し、皆殺しにされたと知らされる。老人が居眠りをしていると、将校になった若者が軍勢を引き連れてやってきた。しかし、それが夢であると知った老人は、退役して故郷に帰る。たとえ自分が身代わりになろうと、若者が生き延びることを望んだ老人が生き残ってしまう悲しさが尾を引いて、幕が閉じる。

しかし、未明作品は決してただひたすら読者を悲壮感に浸らせるものではない。老夫婦は当初は人魚の娘を慈しんでいたのだし、若者と老人は敵兵同士ながら心を通わせていたのだ。そして、消すことのできない悲しみを抱えながら、それでもなお生き続ける人の様子も描かれている。親しい人の死をよく受け容れることで、生者のうちに死者が生かされるという希望もにじみ出てくる。

『たましいは生きている』†(1948)では、兄を戦争で喪った弟が、兄の遺したハーモニカを海に失くしてしまい途方に暮れる。すると海の方からハーモニカの音色が聞こえ、不思議に思っていると、浜辺で傷ついた復員兵と出会う。その兵士から、戦場で同僚の兵士の霊魂に救われたという話を聞いて、少年は新しいハーモニカを得て、海に向かって吹いた。すると海からハーモニカの音は聞こえなくなった。ハーモニカを新しくすることで、弟が自分の死を乗り越えたとわかり、成仏する兄の姿が水面に映える。

『青い星の国へ』†(年代不詳)では、ある少女が敬愛する先生をその故郷に訪ねに行ったところ、先生がすでに亡くなっていることを知らされ、悲嘆にくれる。しかし翌日、先生の弟と共に墓参に向かい、先生の霊に別れの言葉を告げる。この時、先生の弟は姉の好きだった曲をハーモニカで鳴らしている。

今日の社会では人の死に触れることが昔に比べて減っているという話をよく見聞きする。昭和の頃には近隣の家の葬儀に参加するという風習が残っていたと聞くが、近所付き合いが希薄化した都市生活では、家族以外の死を物理的に目撃することはほとんどない。だから今日、未明の物語を子どもと共に読むことは、たとえ想像上の世界ではあっても親しい人の死を経験する、豊かな一時をもたらすのではないか。そんなことを思わされた。

そして、わたしはウェルビーイングの研究調査のなかで、ある仏僧の方から「父親を看取った経験によって心が満たされた」という趣旨の報告を受け、とても驚いたことを思い出す。近代的な西洋医学や精神医療の世界では、近親者の死とは乗り越えるべき悲しい出来事であり、ネガティブな感情の源泉と見なされるからだ。

理由を聞くと、「親しい人の死は不可避なもの。だからこそ、死にゆく人と遺された人がよりよい時間を過ごすことで、心を充足させられる」という。先に挙げた未明の童話においても、親しい人の死を受け容れ、死者の存在を内在化していくプロセスが描かれている。先に「やるせなさ」と書いたが、未明はむしろ、やるせない死という不条理を経て、死者と自らの心のうちで共在するプロセスを描いているように思えてくる。

わたしもこれから、娘と未明の童話を読みながら、死者と共に生きる物語を心に馴致させようと思う。

ドミニク・チェン『コモンズとしての日本近代文学』
(イースト・プレス)

各章の構成(※印刷製本版)

1著者によるテキスト
著者による作品の解説、解題、批評。現代の視点から原著が持っていたさまざまな可能性を論じます。

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初版本の本文写真を掲載することでオリジナルの物としての本が、いったいどのような消息をもって読者に伝わっていたのかを示します。

3原著の抜粋( 作品によっては全文掲載 )
著者が解説した原著の該当部分を青空文庫から抜粋。QRコードから青空文庫の該当頁へ飛びます。そこで原著を最初から読むことができます。
本文中で言及された作品のうち、タイトルの脇に†マークのあるものは青空文庫で読むことができます。

日本近代文学は、いまや誰でも今ここでアクセスできる我々の共有財産(コモンズ)である。そこにはまだまだ底知れぬ宝が隠されている。日英仏の文化とITに精通する著者が、独自に編んだ一人文学全集から、今の時代に必要な「未来を作る言葉」を探し出し、読書することの本質をあらためて問う。もう重たい文学全集はいらない。

・編著者:ドミニク・チェン
・編集:穂原俊二・岩根彰子
・書容設計:羽良多平吉
・320ページ / ISBN:4781619983 / 2021年8月20日刊行

目次

寺田 寅彦『どんぐり』
・ドミニク・チェン:「織り込まれる時間」
・『どんぐり』初版本
・『どんぐり』青空文庫より
使用書体 はんなり明朝

夏目 漱石『夢十夜』
・ドミニク・チェン:「無意識を滋養する術」
・『夢十夜』初版本
・『夢十夜』抜粋 青空文庫より
使用書体 しっぽり明朝

柳田 國男『遠野物語』
・ドミニク・チェン:「死者たちと共に生きる」
・『遠野物語』初版本
・『遠野物語』抜粋 青空文庫より
使用書体 幻ノにじみ明朝

石川 啄木『一握の砂』
・ドミニク・チェン:「喜びの香り」
・『一握の砂』初版本
・『一握の砂』抜粋 青空文庫より
使用書体 しっぽり明朝

南方 熊楠『神社合祀に関する意見』
・ドミニク・チェン:「神々と生命のエコロジー」

・『神社合祀に関する意見』初版本
・『神社合祀に関する意見』抜粋 青空文庫より
使用書体 いろは角クラシック Light

泉 鏡花 『海神別荘』
・ドミニク・チェン:「異界の論理」

・『海神別荘』初版本
・『海神別荘』抜粋 青空文庫より
使用書体 A P-OTFきざはし金陵 StdN M

和辻 哲郎『古寺巡礼』
・ドミニク・チェン:「結晶する風土」

・『古寺巡礼』初版本
・『古寺巡礼』抜粋 青空文庫より
使用書体 源暎こぶり明朝 v6 Regular

小川未明『赤い蝋燭と人魚』
・ドミニク・チェン:「死者と生きる童話」

・『赤い蝋燭と人魚』初版本
・『赤い蝋燭と人魚』青空文庫より
使用書体 A-OTF 明石 Std L

宮沢 賢治『インドラの網』
・ドミニク・チェン:「縁起を生きるための文学」

・「インドラの網』初版本
・『インドラの網』青空文庫より
使用書体 幻ノにじみ明朝

内藤 湖南『大阪の町人学者富永仲基』
・ドミニク・チェン:「アップデートされる宗教」

・『大阪の町人学者富永仲基』初版本
・『大阪の町人学者富永仲基』抜粋 青空文庫より
使用書体 小塚明朝

三遊亭 円朝『落語の濫觴』
・ドミニク・チェン:「落語の未来」

・『落語の濫觴』初版本
・『落語の濫觴』青空文庫より
使用書体 游教科書体 Medium

梶井基次郎『桜の樹の下には』
・ドミニク・チェン:「ポスト・ヒューマンの死生観」

・『桜の樹の下には』初版本
・『桜の樹の下には』青空文庫より
使用書体 TB明朝

岡倉 天心『茶の本』
・ドミニク・チェン:「東西翻訳奇譚」

・『茶の本』初版本
・『茶の本』抜粋 青空文庫より
使用書体 I-OTF 明朝オールド Pro R

九鬼 周造『「いき」の構造』
・ドミニク・チェン:「永遠と無限の閾」

・『「いき」の構造』初版本
・『「いき」の構造』抜粋 青空文庫より
使用書体 クレー

林 芙美子『清貧の書』
・ドミニク・チェン:「世界への信頼を回復する」

・『清貧の書』初版本
・『清貧の書』抜粋 青空文庫より
使用書体 RF 本明朝 — MT新こがな

谷崎潤一郎『陰鬱礼賛』
・ドミニク・チェン:「陰影という名の自由」

・『陰影礼賛』初版本
・『陰影礼賛』抜粋 青空文庫より
使用書体 ZENオールド明朝

岡本 かの子『家霊』
・ドミニク・チェン:「呼応しあう「いのち」」

・『家霊』初版本
・『家霊』抜粋 青空文庫より
使用書体 筑紫明朝 Pro5 — RB

折口 信夫『死者の書』
・ドミニク・チェン:「死が媒介する生」

・『死者の書』初版本
・『死者の書』抜粋 青空文庫より
使用書体 XANO明朝

中谷 宇吉郎『『西遊記』の夢』
・ドミニク・チェン:「本当に驚くような心」

・『『西遊記』の夢』初版本
・『『西遊記』の夢』抜粋 青空文庫より
使用書体 F 篠 — M

柳 宗悦『雑器の美』
・ドミニク・チェン:「アノニマス・デザインを愛でる」

・『雑器の美』初版本
・『雑器の美』抜粋 青空文庫より
使用書体 A-OTF A1 明朝

山本周五郎『季節のない街』
・ドミニク・チェン:「全ての文学」

・『季節のない街』初版本
・『季節のない街』抜粋 青空文庫より
使用書体 平成明朝体 W3

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Dominick Chen
Modern Japanese Literature as a Commons

Researcher. Ph.d. (Information Studies). Profile photo by Rakutaro Ogiwara.