折口信夫『死者の書』:死者と生者の異時同図

Dominick Chen
Modern Japanese Literature as a Commons
10 min readAug 20, 2021
ドミニク・チェン『コモンズとしての日本近代文学』(イースト・プレス)書影

これは登場人物たちが時間と空間を超越し、彼らの人格もまた融解しあう、不可思議な物語だ。「不可思議」とは本来「思議すべからず」という意で、人間に備わった生来の感覚や思考では体験し得ないことを指す。『死者の書』における不可思議とは、まずもって「死」そのものであり、次に死者との交感である。

わたしたちは死んだ後に、その体験を生者に報告することができない。臨死体験というものが時折報告されるが、それは死の間際に起こる現象であり、生物学的に死んでから一定の時間が経過した後に蘇生した、というようなことは科学的に確認されていない。自然科学と技術がどれだけ進んだとしても、死というテーマは永遠の謎として、人類の好奇心を刺激し続けるだろう。

わたしたちの文化は、死者たちに実に饒舌に語らせてきた。唯一神教であるキリスト教圏では、死者の復活というテーマは、イエス・キリストただ一人を例外とし、神の秩序を脅かすものとみなされ、近代に至るまで悪魔の所業という烙印を押されてきた。それでも、降霊術や錬金術などのオカルト信仰において、死者との交信にまつわる様々な表象や言説も発展した。ただし、キリスト教的価値観が近代の技術科学(テクノサイエンス)主義へと継承された西洋近代においては、生死の二分法は強固であり続けた。古代のエジプトとギリシャの汎神論世界、アフリカのヴゥドゥ教やケルトのドルイド教、そして仏教においては許容され、存分に展開していた死者に対する想像力は、神と科学が結合する統一的な秩序の支配のもとでは抑圧された。

この抑圧の過程は、「分割不可能な人格(個人)」の概念を死後にまで延長する手続きでもあった。近代的な葬祭においては、故人はその人格を維持したまま、あの世に移住する。輪廻転生を認めない唯一神教は、その認識論が現世社会の法秩序にも反映されている。輪廻する生はAがBでもあるという認識をもたらすが、近代社会はそのような論理矛盾を抱え込めなかったとも言えるだろう。

折口が『死者の書』で描くのは、時空をまたぎながら、Aという存在がBになり、さらにCにもなる物語だ。まず、滋賀津彦の霊が、二上山の墓のなかで無念を嘆くシーンから始まる。滋賀津彦とは物語の時点から100年ほど前に、謀反の罪で処刑された大津皇子のことだ。そして、藤原南家の郎女〔若い女性〕が、父から贈られた経典を1000部写経する過程で、窓から見える二上山に裸形の男性の姿を見る。この郎女は伝説の中将姫その人だが、折口は独自のアレンジを加えている。オリジナルの伝説では、中将姫は阿弥陀如来を視ているのに対して、折口は大津皇子をはじめとして、異なる時代を生きた貴人たちの魂をひとつの集合体として編み込んでいる。郎女はその後、なにかに取り憑かれたように家を出て、二上山の万法蔵院に入り、遂には裸形の男のために蓮糸曼荼羅を織る。

滋賀津彦の霊が郎女に感応するのは、彼が生前に一度だけ見た限りの耳面刀自〔飛鳥時代に生きた女性で、大友皇子の妃の一人といわれる〕の記憶によってである。滋賀津彦にとっては、現在の郎女は過去の耳面刀自と同化している。当麻寺の語り部たる老女が説くには、郎女が幻視し、恋慕するのは、滋賀津彦その人というよりは、大津皇子、そして大津皇子と同時代を生きた大友皇子、さらに3世紀を遡った時代に生きた隼分皇子、そして神話に登場する天若日子といった貴人たちの集合である。彼らはみな、非業の死を遂げている点で共通しており、郎女が「おいとほしい。お寒からうに」と漏らすのは、彼らの昏い人生を想ってのことだろう。そうして、郎女が蓮の糸を編み上げたに幻の男の絵を描いた時に、付き人たちには数千体の菩薩の姿が浮き出るように見えた。これが当麻曼荼羅として今日残っているものの由来である、という結論をもって小説は終わる。

ここに淡々と語られる神話は、自然のなかに埋め込まれた死者たちが生者の意識に立ち上がり、強い衝動を与えるプロセスを描いている。それは阿弥陀や曼荼羅という、当時としては先進的な文化体系であった仏教のモチーフを、神道的な、より旧い土着の宗教観念へと解体していく所作でもあった。折口は『死者の書』という題名が「ゑぢぷともどきの本」を意識したと書いているが、彼は古代文明に普遍的に共通する死生観を、当事者の視点から観測してみるためにこの小説を書いたのかもしれない。

死者と生者をつなげる円環的な時間の構造は、折口が研究した日本芸能のなかでも特に複式夢幻能のなかに頻出するものだ。たとえば、藤原定家と式子内親王の悲恋を旅の僧侶が慰める『定家』でも、クライマックスではシテとワキが共同でフレーズを完成させる共話の形式をとりながら、地謡によってその風景が歌い上げられて終わる。亡霊は風景の中から出現して、再び風景の中へと戻っていく。そもそも定家の霊は、「定家葛」と呼ばれる蔦に化身している。『死者の書』でも、滋賀津彦の霊が現世の郎女によって観察されたのが夕暮れの二上山の上であったように、死者は自然風景の中に遍く潜在しているという認識論が浮かび上がってくる。まるで過去から現在までの人間たちが、同時に存在する異時同図を見るかのようなイメージが喚起されるのだ。

このイメージは三人称で記述したり、論理的に理解するのが難しいものだが、主観的な感覚意識体験としては不思議と共感できる。そして、この名状しがたいカタルシスは、わたしたちは死してなお、実世界の風景に融け込み、生者の認知のなかで生起することで生を持続することができる、という希望にもつながっていないだろうか。

それはあまりにも生者の認識に寄りかかっている見方かもしれない。それでも、あらゆる個人を孤独から救い、語られることのない歴史につなぎとめる思想にもなりえる。少なくとも、かつては生者であった無数の死者たちの時間が織り込まれた複層的な世界を認識することこそが、古来より日本の風土をかたちづくってきた倫理観であることを思い起こさせてくれるだろう。

ドミニク・チェン『コモンズとしての日本近代文学』
(イースト・プレス)

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日本近代文学は、いまや誰でも今ここでアクセスできる我々の共有財産(コモンズ)である。そこにはまだまだ底知れぬ宝が隠されている。日英仏の文化とITに精通する著者が、独自に編んだ一人文学全集から、今の時代に必要な「未来を作る言葉」を探し出し、読書することの本質をあらためて問う。もう重たい文学全集はいらない。

・編著者:ドミニク・チェン
・編集:穂原俊二・岩根彰子
・書容設計:羽良多平吉
・320ページ / ISBN:4781619983 / 2021年8月20日刊行

目次

寺田 寅彦『どんぐり』
・ドミニク・チェン:「織り込まれる時間」
・『どんぐり』初版本
・『どんぐり』青空文庫より
使用書体 はんなり明朝

夏目 漱石『夢十夜』
・ドミニク・チェン:「無意識を滋養する術」
・『夢十夜』初版本
・『夢十夜』抜粋 青空文庫より
使用書体 しっぽり明朝

柳田 國男『遠野物語』
・ドミニク・チェン:「死者たちと共に生きる」
・『遠野物語』初版本
・『遠野物語』抜粋 青空文庫より
使用書体 幻ノにじみ明朝

石川 啄木『一握の砂』
・ドミニク・チェン:「喜びの香り」
・『一握の砂』初版本
・『一握の砂』抜粋 青空文庫より
使用書体 しっぽり明朝

南方 熊楠『神社合祀に関する意見』
・ドミニク・チェン:「神々と生命のエコロジー」

・『神社合祀に関する意見』初版本
・『神社合祀に関する意見』抜粋 青空文庫より
使用書体 いろは角クラシック Light

泉 鏡花 『海神別荘』
・ドミニク・チェン:「異界の論理」

・『海神別荘』初版本
・『海神別荘』抜粋 青空文庫より
使用書体 A P-OTFきざはし金陵 StdN M

和辻 哲郎『古寺巡礼』
・ドミニク・チェン:「結晶する風土」

・『古寺巡礼』初版本
・『古寺巡礼』抜粋 青空文庫より
使用書体 源暎こぶり明朝 v6 Regular

小川未明『赤い蝋燭と人魚』
・ドミニク・チェン:「死者と生きる童話」

・『赤い蝋燭と人魚』初版本
・『赤い蝋燭と人魚』青空文庫より
使用書体 A-OTF 明石 Std L

宮沢 賢治『インドラの網』
・ドミニク・チェン:「縁起を生きるための文学」

・「インドラの網』初版本
・『インドラの網』青空文庫より
使用書体 幻ノにじみ明朝

内藤 湖南『大阪の町人学者富永仲基』
・ドミニク・チェン:「アップデートされる宗教」

・『大阪の町人学者富永仲基』初版本
・『大阪の町人学者富永仲基』抜粋 青空文庫より
使用書体 小塚明朝

三遊亭 円朝『落語の濫觴』
・ドミニク・チェン:「落語の未来」

・『落語の濫觴』初版本
・『落語の濫觴』青空文庫より
使用書体 游教科書体 Medium

梶井基次郎『桜の樹の下には』
・ドミニク・チェン:「ポスト・ヒューマンの死生観」

・『桜の樹の下には』初版本
・『桜の樹の下には』青空文庫より
使用書体 TB明朝

岡倉 天心『茶の本』
・ドミニク・チェン:「東西翻訳奇譚」

・『茶の本』初版本
・『茶の本』抜粋 青空文庫より
使用書体 I-OTF 明朝オールド Pro R

九鬼 周造『「いき」の構造』
・ドミニク・チェン:「永遠と無限の閾」

・『「いき」の構造』初版本
・『「いき」の構造』抜粋 青空文庫より
使用書体 クレー

林 芙美子『清貧の書』
・ドミニク・チェン:「世界への信頼を回復する」

・『清貧の書』初版本
・『清貧の書』抜粋 青空文庫より
使用書体 RF 本明朝 — MT新こがな

谷崎潤一郎『陰鬱礼賛』
・ドミニク・チェン:「陰影という名の自由」

・『陰影礼賛』初版本
・『陰影礼賛』抜粋 青空文庫より
使用書体 ZENオールド明朝

岡本 かの子『家霊』
・ドミニク・チェン:「呼応しあう「いのち」」

・『家霊』初版本
・『家霊』抜粋 青空文庫より
使用書体 筑紫明朝 Pro5 — RB

折口 信夫『死者の書』
・ドミニク・チェン:「死が媒介する生」

・『死者の書』初版本
・『死者の書』抜粋 青空文庫より
使用書体 XANO明朝

中谷 宇吉郎『『西遊記』の夢』
・ドミニク・チェン:「本当に驚くような心」

・『『西遊記』の夢』初版本
・『『西遊記』の夢』抜粋 青空文庫より
使用書体 F 篠 — M

柳 宗悦『雑器の美』
・ドミニク・チェン:「アノニマス・デザインを愛でる」

・『雑器の美』初版本
・『雑器の美』抜粋 青空文庫より
使用書体 A-OTF A1 明朝

山本周五郎『季節のない街』
・ドミニク・チェン:「全ての文学」

・『季節のない街』初版本
・『季節のない街』抜粋 青空文庫より
使用書体 平成明朝体 W3

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Dominick Chen
Modern Japanese Literature as a Commons

Researcher. Ph.d. (Information Studies). Profile photo by Rakutaro Ogiwara.