林 芙美子『清貧の書』:世界への信頼を回復する

Dominick Chen
Modern Japanese Literature as a Commons
10 min readAug 20, 2021
ドミニク・チェン『コモンズとしての日本近代文学』(イースト・プレス)書影

1929年10月のウォールストリートにおける株価の大暴落が発端となり、翌1930年には世界中に経済恐慌が伝播していった。日本では1930年に昭和恐慌が発現し、250万人以上の失業者が生まれ、さらには農産物の価格の崩落と冷害による大凶作に見舞われた昭和農業恐慌が起こった。この直前にも、1927年には第一次世界大戦や関東大震災の余波として、不良債権の不適切な処理によって引き起こされた昭和金融恐慌が起こって、世情不安が拡大したという。

林芙美子の代表的な私小説作品『放浪記』†(改造社、1930)が発売され、数十万部の大ヒットとなった原因のひとつには、このような時代背景があったと言われる。二つの大戦に挟まれ、度重なる天災と人災によって一般市民が苦しみを生き抜いた時代。当時のことを資料と映像からしか知ることのないわたしには、そのような紋切り型の言葉しか浮かばないが、作家の一人称的な記述を通して、よりリアルな情景を想像することができる。

芙美子の親は行商人であり、幼少の頃より流浪の生活を続けた。しかし、あるとき、尾道に少し落ち着く時期があり、自分でも働きながら現地の学校に通い、文才を開花させた。その後も女工や女給の仕事を転々としながら日記を付け続け、まとめたのが後の『放浪記』につながる。同作では、貧困状態のまま流転を続けながらも、その時々で出会う「面白さ」に駆動され、力強く生きる芙美子の文体が印象的だ。当時の人々は、この作品を読むことで、かろうじて恐慌の一方的な被害者としてではなく、能動的に生きる人間としての矜持を保とうとしたのだろうか。

『清貧の書』は、芙美子が一躍時の人となった翌年に書かれた、短い私小説である。それまでに出会ってきたひどい男たちと別れてから、ペンキ屋の仕事で食いつなぐ芸術家志望の与一という男とくっつく。心機一転、彼と新たな家に住み始めるが、身の丈に合わない高い家賃に苦しめられて、生活苦はおさまらない。与一の日雇いの仕事も不安定で、飢えがとまらない。もしかしたら彼もまた、自分を捨ててどこかに去っていくかもしれない。それでも、与一はこれまでの男たちと違い、芙美子を虐げることなく、彼女と精神的な対話を交わす。また、彼女の両親の窮状にも理解を示し、徴兵先からも積極的に金銭を送っている。

この与一のモデルとなったのは、画学生であった手塚という人である。実際に手塚は彼女の執筆業を扶け、妻が流行作家になってからは自らの才能に見切りをつけて妻の秘書業務に徹し、そして彼女の没後にはその創作資料の整理分類を行ったといわれている。

『放浪記』が、ひとりの若い女性が困難の最中で自律性を獲得していく物語だとすれば、『清貧の書』では、精神的なパートナーを得ることで、世界への信頼を回復していくプロセスが表されている。ここには劇的な恋愛の描写は一切ないが、与一と交わす情が次第に深まっていく記述は、読者の意識にじわりと染み渡ってくる。本作の後半では、兵舎から与一が送ってくる計6つの手紙の内容が綴られているが、物理的な別離はむしろ主人公の夫に対する愛を深める契機となっていることがわかる。

「花のいのちは短くて、苦しきことのみ多かりき」とは、芙美子が好んで言及した言葉だといわれる。実際、芙美子は人気作家になってからも精力的に世界各地を飛び回り、原稿を書き続けた過労からか、47歳という若さで没している。自由奔放なライフスタイル、それを支える画家の夫、そして早逝したことなど、芙美子よりひとまわり上の世代ながらも同時代を生きた岡本かの子と重なる点が多い。ただし、かの子が良家のお嬢様で、およそ貧乏とは縁遠い生まれであったことに対して、芙美子は『放浪記』がヒットするまでは貧困を生き続けた。社会的成功をつかんだ後も、彼女を駆動し続けた創作意欲の背景には、極限状態を生き抜くなかで涵養された、過剰なまでの生への執着があったのだろうか。

『清貧の書』を読んでいると、女性差別と男女の平等、経済状況と幸福の相関といった、現代社会のテーマをも想起させられる。恐慌の時代といえば、21世紀においても2008年のリーマン・ショックの記憶はまだ新しい。日本でも、アメリカでも、世界中のどこでも、自由主義経済と自己責任の名の下で国家が市民のケアを怠り、貧富の差が拡大し続ける現在、物質的な欲望だけではなく精神的な充足の重要性も叫ばれている。その意味では、芙美子の時代と現代は決して無縁ではないどころか地続きである。わたしたちは100年をかけて、社会インフラや情報技術を拡充したかもしれないが、社会全体としてより幸福になったのかという問いにはいまだにはっきりと答えられていない。少なくともわたしには、自国主義と政治的分断が加速し、自分と異質な他者を隔てるわかりあえなさが肥大化する現代は、それほど進んだ時代であるようには到底思えない。

それでも、芙美子が描いた自らの好奇心、精神の弾力性、そして自律的な姿から、生きることの面白さをあらためて学びなおせるように思う。生活に困窮している最中でも、芙美子は自らの言葉を紡ぎ続けた。言葉に書き出すことで、わたしたちの世界への眼差しは深化する。そして、ささいな変化に気づき、好奇心を育てることができる。ミシェル・フーコーは「ケア」(care)と「好奇心」(curiosity)が同源であると指摘し、好奇心が「存在しているものと、まだ存在してないものに対するケア」だと表現した※1。本作では「私」の能動的な眼差しによって、与一とのいまだ存在しない共助的な関係が紡がれていく様子が描かれている。小さな物語ではあるが、わたしたち自身が荒涼とした人間世界への信頼を回復するための種子を与えてくれる作品であるように思う。

※1 Michel Foucault’s Politics, Philosophy, Culture: Interviews and Other Writings, 1977–1984, edited by Lawrence D. Kritzman (Routledge, 1990), pp. 323–330

ドミニク・チェン『コモンズとしての日本近代文学』
(イースト・プレス)

各章の構成(※印刷製本版)

1著者によるテキスト
著者による作品の解説、解題、批評。現代の視点から原著が持っていたさまざまな可能性を論じます。

2初版本の本文写真( 2頁分を見開きで構成 )
初版本の本文写真を掲載することでオリジナルの物としての本が、いったいどのような消息をもって読者に伝わっていたのかを示します。

3原著の抜粋( 作品によっては全文掲載 )
著者が解説した原著の該当部分を青空文庫から抜粋。QRコードから青空文庫の該当頁へ飛びます。そこで原著を最初から読むことができます。
本文中で言及された作品のうち、タイトルの脇に†マークのあるものは青空文庫で読むことができます。

日本近代文学は、いまや誰でも今ここでアクセスできる我々の共有財産(コモンズ)である。そこにはまだまだ底知れぬ宝が隠されている。日英仏の文化とITに精通する著者が、独自に編んだ一人文学全集から、今の時代に必要な「未来を作る言葉」を探し出し、読書することの本質をあらためて問う。もう重たい文学全集はいらない。

・編著者:ドミニク・チェン
・編集:穂原俊二・岩根彰子
・書容設計:羽良多平吉
・320ページ / ISBN:4781619983 / 2021年8月20日刊行

目次

寺田 寅彦『どんぐり』
・ドミニク・チェン:「織り込まれる時間」
・『どんぐり』初版本
・『どんぐり』青空文庫より
使用書体 はんなり明朝

夏目 漱石『夢十夜』
・ドミニク・チェン:「無意識を滋養する術」
・『夢十夜』初版本
・『夢十夜』抜粋 青空文庫より
使用書体 しっぽり明朝

柳田 國男『遠野物語』
・ドミニク・チェン:「死者たちと共に生きる」
・『遠野物語』初版本
・『遠野物語』抜粋 青空文庫より
使用書体 幻ノにじみ明朝

石川 啄木『一握の砂』
・ドミニク・チェン:「喜びの香り」
・『一握の砂』初版本
・『一握の砂』抜粋 青空文庫より
使用書体 しっぽり明朝

南方 熊楠『神社合祀に関する意見』
・ドミニク・チェン:「神々と生命のエコロジー」

・『神社合祀に関する意見』初版本
・『神社合祀に関する意見』抜粋 青空文庫より
使用書体 いろは角クラシック Light

泉 鏡花 『海神別荘』
・ドミニク・チェン:「異界の論理」

・『海神別荘』初版本
・『海神別荘』抜粋 青空文庫より
使用書体 A P-OTFきざはし金陵 StdN M

和辻 哲郎『古寺巡礼』
・ドミニク・チェン:「結晶する風土」

・『古寺巡礼』初版本
・『古寺巡礼』抜粋 青空文庫より
使用書体 源暎こぶり明朝 v6 Regular

小川未明『赤い蝋燭と人魚』
・ドミニク・チェン:「死者と生きる童話」

・『赤い蝋燭と人魚』初版本
・『赤い蝋燭と人魚』青空文庫より
使用書体 A-OTF 明石 Std L

宮沢 賢治『インドラの網』
・ドミニク・チェン:「縁起を生きるための文学」

・「インドラの網』初版本
・『インドラの網』青空文庫より
使用書体 幻ノにじみ明朝

内藤 湖南『大阪の町人学者富永仲基』
・ドミニク・チェン:「アップデートされる宗教」

・『大阪の町人学者富永仲基』初版本
・『大阪の町人学者富永仲基』抜粋 青空文庫より
使用書体 小塚明朝

三遊亭 円朝『落語の濫觴』
・ドミニク・チェン:「落語の未来」

・『落語の濫觴』初版本
・『落語の濫觴』青空文庫より
使用書体 游教科書体 Medium

梶井基次郎『桜の樹の下には』
・ドミニク・チェン:「ポスト・ヒューマンの死生観」

・『桜の樹の下には』初版本
・『桜の樹の下には』青空文庫より
使用書体 TB明朝

岡倉 天心『茶の本』
・ドミニク・チェン:「東西翻訳奇譚」

・『茶の本』初版本
・『茶の本』抜粋 青空文庫より
使用書体 I-OTF 明朝オールド Pro R

九鬼 周造『「いき」の構造』
・ドミニク・チェン:「永遠と無限の閾」

・『「いき」の構造』初版本
・『「いき」の構造』抜粋 青空文庫より
使用書体 クレー

林 芙美子『清貧の書』
・ドミニク・チェン:「世界への信頼を回復する」

・『清貧の書』初版本
・『清貧の書』抜粋 青空文庫より
使用書体 RF 本明朝 — MT新こがな

谷崎潤一郎『陰鬱礼賛』
・ドミニク・チェン:「陰影という名の自由」

・『陰影礼賛』初版本
・『陰影礼賛』抜粋 青空文庫より
使用書体 ZENオールド明朝

岡本 かの子『家霊』
・ドミニク・チェン:「呼応しあう「いのち」」

・『家霊』初版本
・『家霊』抜粋 青空文庫より
使用書体 筑紫明朝 Pro5 — RB

折口 信夫『死者の書』
・ドミニク・チェン:「死が媒介する生」

・『死者の書』初版本
・『死者の書』抜粋 青空文庫より
使用書体 XANO明朝

中谷 宇吉郎『『西遊記』の夢』
・ドミニク・チェン:「本当に驚くような心」

・『『西遊記』の夢』初版本
・『『西遊記』の夢』抜粋 青空文庫より
使用書体 F 篠 — M

柳 宗悦『雑器の美』
・ドミニク・チェン:「アノニマス・デザインを愛でる」

・『雑器の美』初版本
・『雑器の美』抜粋 青空文庫より
使用書体 A-OTF A1 明朝

山本周五郎『季節のない街』
・ドミニク・チェン:「全ての文学」

・『季節のない街』初版本
・『季節のない街』抜粋 青空文庫より
使用書体 平成明朝体 W3

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Dominick Chen
Modern Japanese Literature as a Commons

Researcher. Ph.d. (Information Studies). Profile photo by Rakutaro Ogiwara.