泉 鏡花『海神別荘』:異界の論理

Dominick Chen
Modern Japanese Literature as a Commons
10 min readAug 20, 2021
ドミニク・チェン『コモンズとしての日本近代文学』(イースト・プレス)書影

なんという混沌とした、それでいてエレガントなイメージの喚起力なのだろう。海の底の奇譚『海神別荘』、奥深い山中の怪談『高野聖』†、もしくは春の昼下がりに起こる夢の交差録『春昼』†を読む時、まるでジャン・ピエール・ジュネのファンタジー映画かミシェル・ゴンドリーのミュージック・ビデオを見るかのように、描き出される世界の細部までが肌理細かく幻視できるようである。虚構であることはわかっていても、はっきりと焦点が定まり、イメージが結像する─これは、まどろみながら寝入った瞬間に、夢がこれからはじまろうとするときに起こる体験と同質だ。

この作品は、海の底の宮殿の主である公子が、地上の美女を招き入れるという異類婚姻譚である。背景描写が執拗に続くわけでもなく、物語りのテンポは失速せずに一定の速度を保ちながら、読者にさまざまな「もの」を見せる。それも、海神や妖怪、そして死者といった、この世ならざる異形の存在の手触りや香りを、まるで本当に見てきたかのようにかたちづくってみせる。20世紀から現代にいたるまで、なぜ多くの演出家や映像作家が鏡花の作品を取り扱ってきたのかは、作品を一読すれば誰にでもすぐにわかるだろう。

『海神別荘』を読むなか、わたしの記憶の貯蔵からは、全くランダムにといっていいほど多くの映像が飛び出してきてしまい、しばらくそれらの轍が像を結ばずに漂っていた。たとえば、ベン・シャープスティーン監督のアニメーション映画『ファンタジア』(ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ、1940)の水中のシーン、天野喜孝のイラストが幻想的な世界観を彩る初期RPGの傑作『ファイナル・ファンタジー2』(スクウェア、1988)の冒頭で登場する黒騎士たち、陸と水中の異類間の邂逅というテーマを本作とも共有する宮崎駿『崖の上のポニョ』(スタジオジブリ、2008)の魔法使いの研究室、そしてビョークが出演し、瀬戸内海などでも撮影が行われた、マシュー・バーニーの映像作品『拘束のドローイング9』(2005)中の、浸水する船室のなかでの男女の結縁のシーン。当然ながらこれらはすべて『海神別荘』が書かれた以降の作品なので、そもそも鏡花に影響を受けている可能性はある。と同時に、やはり、優れた作品とは、何の違和感もなく、やすやすと、時系列を超えたイメージの連想を誘発するのだと思わせられる。

唯一、わたしの乱雑な記憶庫のなかから、『海神別荘』よりも遥かに古いテキストによって喚起されたイメージが起こった。それは、龍宮に持ち去られた「面向不背の珠」〔どこからみても正面に仏像が見える伝説の宝珠〕を巡る能『海人』(作者不詳、作年不明)のなかで、海女が宝珠を取り返そうと潜った海底で鰐や悪竜に襲われるシーンだ。死者を忌むという海底の掟を逆手に取り、みずからの乳房を刃で掻き切って、そこに宝珠を押し込めて地上に引き上げられるという壮絶な場面である。珠玉、刃物、女性の死、そして獰猛な海の生き物といったモチーフが『海神別荘』と共通しているが、鏡花は『海人』をインスピレーションのひとつにしたのだろうか。

このような連想を引き寄せているうちに、この戯曲は夢幻能の曲としても読めるのではないかと思えてきたのだった。シテ〔物語の主導線となる役〕は陸から沈められた美女、ワキ〔シテと対話する役〕は海底を統べる公子。ワキヅレ〔ワキの連れ役〕は公子の侍女、博士と沖の僧都は間狂言のアイ〔狂言方が能の中の登場人物として出る役〕だろうか(通常はアイは一人だが)。

細かい整合性はともかくとして、この作品を能としてみるとき、通常の夢幻能とはシテとワキの立場が逆転しているように思える。というのも、通常の場合は人間であるワキが超越的な存在であるシテと遭遇するのだが、ここでは海神である公子が、陸から人間である美女を呼び寄せている。そして、公子は彼の常識から、陸の人間たちの風習や美的価値に違和感を表明する。不義を行った男女への刑死は恵みであるという考え方を述べたり、悲しむ美女を殺そうとする場面を読むとき、読者はそれが非現実の世界から人間社会の常識に向けて放たれる、鋭い批評であることを知る。

だから、クライマックスのシーンで、自分を殺そうとする公子のためらいのなさに一瞬で感化される美女の姿を見ても、不思議と納得させられる。読者もいつのまにか海底の異世界の論理に身を浸しているのだ。同じ異世界を扱った柳田國男の『遠野物語』には、民俗資料に裏打ちされたリアリズムが根底に流れているが、本作や『高野聖』では、異形の存在の摂理が読者の人間世界の常識を突き破ってくる。そのとき、わたしたちは確かに、夢の世界の側から現実を眺め返している。

そういえば、わたしは未見だが、我が能楽の師匠である安田登師も『海神別荘』の能と狂言のヴァージョンを演出している。こちらはヒップホップダンス、電子音楽、浪曲、そして狂言回しとして鏡花本人に扮した役者も登場するという、異種混交を極めた内容となっている。名作がパブリック・ドメインとなり、作家の世界が社会で公有されることで、時代を超えて新たなかたちで転生し続けることの好例といえる。本作のヴァリエーションは、これからも無数に生み出されていくだろう。あなたが『海神別荘』を読む時、果たしてどのような映像が幻視されるのだろうか。

ドミニク・チェン『コモンズとしての日本近代文学』
(イースト・プレス)

各章の構成(※印刷製本版)

1著者によるテキスト
著者による作品の解説、解題、批評。現代の視点から原著が持っていたさまざまな可能性を論じます。

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3原著の抜粋( 作品によっては全文掲載 )
著者が解説した原著の該当部分を青空文庫から抜粋。QRコードから青空文庫の該当頁へ飛びます。そこで原著を最初から読むことができます。
本文中で言及された作品のうち、タイトルの脇に†マークのあるものは青空文庫で読むことができます。

日本近代文学は、いまや誰でも今ここでアクセスできる我々の共有財産(コモンズ)である。そこにはまだまだ底知れぬ宝が隠されている。日英仏の文化とITに精通する著者が、独自に編んだ一人文学全集から、今の時代に必要な「未来を作る言葉」を探し出し、読書することの本質をあらためて問う。もう重たい文学全集はいらない。

・編著者:ドミニク・チェン
・編集:穂原俊二・岩根彰子
・書容設計:羽良多平吉
・320ページ / ISBN:4781619983 / 2021年8月20日刊行

目次

寺田 寅彦『どんぐり』
・ドミニク・チェン:「織り込まれる時間」
・『どんぐり』初版本
・『どんぐり』青空文庫より
使用書体 はんなり明朝

夏目 漱石『夢十夜』
・ドミニク・チェン:「無意識を滋養する術」
・『夢十夜』初版本
・『夢十夜』抜粋 青空文庫より
使用書体 しっぽり明朝

柳田 國男『遠野物語』
・ドミニク・チェン:「死者たちと共に生きる」
・『遠野物語』初版本
・『遠野物語』抜粋 青空文庫より
使用書体 幻ノにじみ明朝

石川 啄木『一握の砂』
・ドミニク・チェン:「喜びの香り」
・『一握の砂』初版本
・『一握の砂』抜粋 青空文庫より
使用書体 しっぽり明朝

南方 熊楠『神社合祀に関する意見』
・ドミニク・チェン:「神々と生命のエコロジー」

・『神社合祀に関する意見』初版本
・『神社合祀に関する意見』抜粋 青空文庫より
使用書体 いろは角クラシック Light

泉 鏡花 『海神別荘』
・ドミニク・チェン:「異界の論理」

・『海神別荘』初版本
・『海神別荘』抜粋 青空文庫より
使用書体 A P-OTFきざはし金陵 StdN M

和辻 哲郎『古寺巡礼』
・ドミニク・チェン:「結晶する風土」

・『古寺巡礼』初版本
・『古寺巡礼』抜粋 青空文庫より
使用書体 源暎こぶり明朝 v6 Regular

小川未明『赤い蝋燭と人魚』
・ドミニク・チェン:「死者と生きる童話」

・『赤い蝋燭と人魚』初版本
・『赤い蝋燭と人魚』青空文庫より
使用書体 A-OTF 明石 Std L

宮沢 賢治『インドラの網』
・ドミニク・チェン:「縁起を生きるための文学」

・「インドラの網』初版本
・『インドラの網』青空文庫より
使用書体 幻ノにじみ明朝

内藤 湖南『大阪の町人学者富永仲基』
・ドミニク・チェン:「アップデートされる宗教」

・『大阪の町人学者富永仲基』初版本
・『大阪の町人学者富永仲基』抜粋 青空文庫より
使用書体 小塚明朝

三遊亭 円朝『落語の濫觴』
・ドミニク・チェン:「落語の未来」

・『落語の濫觴』初版本
・『落語の濫觴』青空文庫より
使用書体 游教科書体 Medium

梶井基次郎『桜の樹の下には』
・ドミニク・チェン:「ポスト・ヒューマンの死生観」

・『桜の樹の下には』初版本
・『桜の樹の下には』青空文庫より
使用書体 TB明朝

岡倉 天心『茶の本』
・ドミニク・チェン:「東西翻訳奇譚」

・『茶の本』初版本
・『茶の本』抜粋 青空文庫より
使用書体 I-OTF 明朝オールド Pro R

九鬼 周造『「いき」の構造』
・ドミニク・チェン:「永遠と無限の閾」

・『「いき」の構造』初版本
・『「いき」の構造』抜粋 青空文庫より
使用書体 クレー

林 芙美子『清貧の書』
・ドミニク・チェン:「世界への信頼を回復する」

・『清貧の書』初版本
・『清貧の書』抜粋 青空文庫より
使用書体 RF 本明朝 — MT新こがな

谷崎潤一郎『陰鬱礼賛』
・ドミニク・チェン:「陰影という名の自由」

・『陰影礼賛』初版本
・『陰影礼賛』抜粋 青空文庫より
使用書体 ZENオールド明朝

岡本 かの子『家霊』
・ドミニク・チェン:「呼応しあう「いのち」」

・『家霊』初版本
・『家霊』抜粋 青空文庫より
使用書体 筑紫明朝 Pro5 — RB

折口 信夫『死者の書』
・ドミニク・チェン:「死が媒介する生」

・『死者の書』初版本
・『死者の書』抜粋 青空文庫より
使用書体 XANO明朝

中谷 宇吉郎『『西遊記』の夢』
・ドミニク・チェン:「本当に驚くような心」

・『『西遊記』の夢』初版本
・『『西遊記』の夢』抜粋 青空文庫より
使用書体 F 篠 — M

柳 宗悦『雑器の美』
・ドミニク・チェン:「アノニマス・デザインを愛でる」

・『雑器の美』初版本
・『雑器の美』抜粋 青空文庫より
使用書体 A-OTF A1 明朝

山本周五郎『季節のない街』
・ドミニク・チェン:「全ての文学」

・『季節のない街』初版本
・『季節のない街』抜粋 青空文庫より
使用書体 平成明朝体 W3

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Dominick Chen
Modern Japanese Literature as a Commons

Researcher. Ph.d. (Information Studies). Profile photo by Rakutaro Ogiwara.