石川啄木『一握の砂』:喜びの香り

Dominick Chen
Modern Japanese Literature as a Commons
10 min readAug 20, 2021
ドミニク・チェン『コモンズとしての日本近代文学』(イースト・プレス)書影

わたしは数年前から発酵微生物と人間のコミュニケーションを研究している。その関係で先日、新潟の長岡市で「星六」という老舗の味噌作り店を訪ねる機会があった。その時、ご主人の星野さんから手渡された店のパンフレットに、啄木の歌が書かれているのに目を引かれた。

ある朝の かなしき夢の さめぎはに
鼻に入り来し
味噌を煮る香よ

この歌は、啄木の第一歌集である『一握の砂』に収められた一首だ。啄木が気管支肺炎でわずか26年の人生を閉じた、その2年前に刊行された本だが、茫漠としつつも確実に歩み寄る死の予感が全体を覆っている。そんな暗いイメージの歌集から、店の宣伝物のために歌を引用する星野さんのセンスにある種の凄みを感じた。しかしすぐに、そのように感じること自体が、一般通念的な、狭い了見に過ぎない、とすぐに反省した。

明治以降の文学史にその名を刻んだ少なくない作家たちが、若くして病死している。中原中也、梶井基次郎、正岡子規たちはみな、20代から30代の、これから表現を熟成させていこうとする矢先に倒れた。啄木にしても、『一握の砂』が刊行された2年後に死去し、その後まもなくして、妻の節子も肺結核で亡くなり、そして18年後には二人の娘がともに肺炎と結核にかかり、夭逝している。また、本書の前書きに記されている通り、『一握の砂』のゲラを手にした時に、まだ幼児であった長男が病死している。啄木の歌の背景に、新しく作った家族があえなく消えていった情景を投影すると、なんとも救われないような気持ちになる。

しかし、『一握の砂』の歌を読み進めていくと、それがただ単に、不幸な人生に対する呪詛ではないことに気付かされる。冒頭に挙げた「味噌の香」のように、暗色の世界にふと陽光が差す瞬間を啄木がしっかと捕らえる様子を見るとき、幸福とは絶対的な座標軸に固定されるものではないと思わされる。悲しみの暗い根もとにおいてこそ光り輝く高揚があって、それは当事者のみが主観的に味わえるものなのだ。

他にもいくつか、「香り」がこの歌集において、啄木を眼前の圧倒的な現実から刹那のあいだ引き離して、自由なイメージを喚起する役割を果たしている箇所が見受けられる。

ほのかなる 朽木の香り そがなかの
蕈の香りに
秋やや深し

汽車の旅 とある野中の 停車場の
夏草の香の
なつかしかりき

水のごと 身体をひたす かなしみに
葱の香などの
まじれる夕

若き詩人は、日々浮き沈みを繰り返す自身の心を赤裸々に、5・7・5・7・7という和歌の形式にはめ込み、教えてくれる。これらの歌のそれぞれにはだから、前後の時間の流れが織り込まれているのであって、その連鎖からひとつだけを取り出して標本化することには意味がない。病の苦しみの最中で抱く他者に対する昏い感情や、借金を繰り返してまで通った遊郭の回想といった、社会からは醜悪と断じられる言動に対する一切の責任を、詩人として引き受ける姿勢には圧倒される。

常人には想像し難い、この真摯な表現の決意は、和歌の持つ強い定型によって支えられている。いくらでも言葉を積み重ねられる散文や自由詩、私小説と異なり、限られた自由度の俳句や和歌のフォーマットは、日常的な継続と反復を可能にしている。そこに虚構が入り込む隙間は、他の文学形式よりも少ないのではないだろうか。

わたしは、情報技術が人間のに及ぼす影響の研究も行っている関係で、現代の世界各国で、人々がどのように幸福を捉えるかということを調べている。この研究分野の中でわかってきたのは、20世紀の心理学や社会科学は、近代医学と同じようにある種の機械論的な認識に基づいて人の心を扱ってきたが、現在はその見直しが迫られているということだ。

医学は体の現象を善悪に分けて、病因とされるネガティブなものを退け、病気を消滅させようとする、機械論的な認識に支えられてきた。心の把握についても同様の考えがこれまでは主流であり、なるべくポジティブな感情を増やし、ネガティブな感情を排すれば幸福に近づけると考えられてきた。しかし、近年の心理研究のなかでは、「感情多様性」こそが、長期的な心理的充足にとって大事であるという知見も出てきた。ただ肯定的な感情に身を浸そうとする人よりも、悲しみや退屈といったネガティブ感情を定期的に感得する人々のほうが、心理的な充足を得やすくなるという実験結果もある。

文学に親しむ者からしてみたら、このような心理的研究の動向を知ったところで、ようやく科学が幼年期から少年期に移ったくらいに思えるかも知れない。それでも、客観的なエビデンスに基づく科学が、文学のリアリティに近づいてきたということには、わたしは一抹の希望を感じる。それは啄木が壮絶な生活を送る中にも喜びの瞬間を能動的に捕らえようとしたことに、読者であるわたしたちが自らを重ね合わせ、学びを得られることと重なるからだ。

わたしの関わっているウェルビーイング研究の一環で、これまで1000人以上の人に参加してもらってきたワークショップがある。そこでは心理的充足の理論をただ教えるだけではなく、参加者自身に自分の心が充足するための因子を定義してもらい、語り合ってもらうということを行っている。その過程で、各自の喜びの要因と同時に、苦しみの要因についても書き出す作業を行うのだが、不思議なことに苦痛について語り合う時のほうが、より深い共感が交わされる傾向があると気づいた。そのような声を聞いているうちに、喜びと悲しみを二項対立的に分離することは、人を心の自然から遠ざけてしまうのではないかという思いが増してきた。

啄木のように、個人的な生活を表現活動に昇華することを、万人が標榜するのは難しいだろう。しかし、心のなかを去来する感情を書き出したり、話したりして、互いの声に耳を傾けるというささやかな行為が、文学の本質と接続していることも間違いない。わたしたちは、どれほど暗い朝を迎えた時でも、「味噌の香」を嗅いだ刹那、別の時空に遊ぶことができる。そして、その経験を表現するプロセスを通して、さらに他の新しい喜びの香りを見つけられるようになるのだろう。

ドミニク・チェン『コモンズとしての日本近代文学』
(イースト・プレス)

各章の構成(※印刷製本版)

1著者によるテキスト
著者による作品の解説、解題、批評。現代の視点から原著が持っていたさまざまな可能性を論じます。

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3原著の抜粋( 作品によっては全文掲載 )
著者が解説した原著の該当部分を青空文庫から抜粋。QRコードから青空文庫の該当頁へ飛びます。そこで原著を最初から読むことができます。
本文中で言及された作品のうち、タイトルの脇に†マークのあるものは青空文庫で読むことができます。

日本近代文学は、いまや誰でも今ここでアクセスできる我々の共有財産(コモンズ)である。そこにはまだまだ底知れぬ宝が隠されている。日英仏の文化とITに精通する著者が、独自に編んだ一人文学全集から、今の時代に必要な「未来を作る言葉」を探し出し、読書することの本質をあらためて問う。もう重たい文学全集はいらない。

・編著者:ドミニク・チェン
・編集:穂原俊二・岩根彰子
・書容設計:羽良多平吉
・320ページ / ISBN:4781619983 / 2021年8月20日刊行

目次

寺田 寅彦『どんぐり』
・ドミニク・チェン:「織り込まれる時間」
・『どんぐり』初版本
・『どんぐり』青空文庫より
使用書体 はんなり明朝

夏目 漱石『夢十夜』
・ドミニク・チェン:「無意識を滋養する術」
・『夢十夜』初版本
・『夢十夜』抜粋 青空文庫より
使用書体 しっぽり明朝

柳田 國男『遠野物語』
・ドミニク・チェン:「死者たちと共に生きる」
・『遠野物語』初版本
・『遠野物語』抜粋 青空文庫より
使用書体 幻ノにじみ明朝

石川 啄木『一握の砂』
・ドミニク・チェン:「喜びの香り」
・『一握の砂』初版本
・『一握の砂』抜粋 青空文庫より
使用書体 しっぽり明朝

南方 熊楠『神社合祀に関する意見』
・ドミニク・チェン:「神々と生命のエコロジー」

・『神社合祀に関する意見』初版本
・『神社合祀に関する意見』抜粋 青空文庫より
使用書体 いろは角クラシック Light

泉 鏡花 『海神別荘』
・ドミニク・チェン:「異界の論理」

・『海神別荘』初版本
・『海神別荘』抜粋 青空文庫より
使用書体 A P-OTFきざはし金陵 StdN M

和辻 哲郎『古寺巡礼』
・ドミニク・チェン:「結晶する風土」

・『古寺巡礼』初版本
・『古寺巡礼』抜粋 青空文庫より
使用書体 源暎こぶり明朝 v6 Regular

小川未明『赤い蝋燭と人魚』
・ドミニク・チェン:「死者と生きる童話」

・『赤い蝋燭と人魚』初版本
・『赤い蝋燭と人魚』青空文庫より
使用書体 A-OTF 明石 Std L

宮沢 賢治『インドラの網』
・ドミニク・チェン:「縁起を生きるための文学」

・「インドラの網』初版本
・『インドラの網』青空文庫より
使用書体 幻ノにじみ明朝

内藤 湖南『大阪の町人学者富永仲基』
・ドミニク・チェン:「アップデートされる宗教」

・『大阪の町人学者富永仲基』初版本
・『大阪の町人学者富永仲基』抜粋 青空文庫より
使用書体 小塚明朝

三遊亭 円朝『落語の濫觴』
・ドミニク・チェン:「落語の未来」

・『落語の濫觴』初版本
・『落語の濫觴』青空文庫より
使用書体 游教科書体 Medium

梶井基次郎『桜の樹の下には』
・ドミニク・チェン:「ポスト・ヒューマンの死生観」

・『桜の樹の下には』初版本
・『桜の樹の下には』青空文庫より
使用書体 TB明朝

岡倉 天心『茶の本』
・ドミニク・チェン:「東西翻訳奇譚」

・『茶の本』初版本
・『茶の本』抜粋 青空文庫より
使用書体 I-OTF 明朝オールド Pro R

九鬼 周造『「いき」の構造』
・ドミニク・チェン:「永遠と無限の閾」

・『「いき」の構造』初版本
・『「いき」の構造』抜粋 青空文庫より
使用書体 クレー

林 芙美子『清貧の書』
・ドミニク・チェン:「世界への信頼を回復する」

・『清貧の書』初版本
・『清貧の書』抜粋 青空文庫より
使用書体 RF 本明朝 — MT新こがな

谷崎潤一郎『陰鬱礼賛』
・ドミニク・チェン:「陰影という名の自由」

・『陰影礼賛』初版本
・『陰影礼賛』抜粋 青空文庫より
使用書体 ZENオールド明朝

岡本 かの子『家霊』
・ドミニク・チェン:「呼応しあう「いのち」」

・『家霊』初版本
・『家霊』抜粋 青空文庫より
使用書体 筑紫明朝 Pro5 — RB

折口 信夫『死者の書』
・ドミニク・チェン:「死が媒介する生」

・『死者の書』初版本
・『死者の書』抜粋 青空文庫より
使用書体 XANO明朝

中谷 宇吉郎『『西遊記』の夢』
・ドミニク・チェン:「本当に驚くような心」

・『『西遊記』の夢』初版本
・『『西遊記』の夢』抜粋 青空文庫より
使用書体 F 篠 — M

柳 宗悦『雑器の美』
・ドミニク・チェン:「アノニマス・デザインを愛でる」

・『雑器の美』初版本
・『雑器の美』抜粋 青空文庫より
使用書体 A-OTF A1 明朝

山本周五郎『季節のない街』
・ドミニク・チェン:「全ての文学」

・『季節のない街』初版本
・『季節のない街』抜粋 青空文庫より
使用書体 平成明朝体 W3

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Dominick Chen
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Researcher. Ph.d. (Information Studies). Profile photo by Rakutaro Ogiwara.