“食べていけてるの?”に対する違和感。
先日、久しぶりに会った友人に「食べていけてるの?」と聞かれました。どんな人でも、自分が知らないことは想像もできないので、その仕事を知らない、耳にしたことがない人から「食べていけてるの?」という質問があっても、驚きはしないのですが、改めて「違和感」を感じたので、綴っておこうと思います。
※後述しますが、ありがたく、そして幸運な事に今のところ金銭面で必要な量を十分に得ることができています
心配すべきは「収入」ではない
他人にしろ自分自身のことにしろ「収入」を心配する人は【人生の基準がお金の量】の人だと思っています。
そして、人生の基準がお金になった先にあるのは「心の貧困」だと思っています。
物理的に裕福になると、心が貧しくなりがちです。現在の日本など典型でしょう。今の日本からは「心の豊かさ」は感じません。それどころか「貧しい」「すさんでいる」と感じることが多いのではないでしょうか。
本当に心配すべきなのは「幸せであるかどうか」
本当に心配する、考えるべきなのは「幸せであるかどうか」ではないでしょうか。やりたいことができているのかどうか。毎日、笑って生きているかどうか。
それらのほうが「収入」よりも僕は大事だと思っています。
「やりたくないこと」をやり続けるという浪費。
人生とは有限で、僕らは限りがある時間を毎日、消費しています。
やりたいことを積極的にやっている人の多くは「1回の人生では足りない」と考えているのではないでしょうか?
地方から上京し、東京で就職している人が「都会で暮らすこと」へ不満をもらすことはよくあります。
僕は、そんな不満を聞くと「だったら自分の住みたいところへ行けばいいのに」と思っています。
そうは言っても色々なしがらみがあるのも分かります。僕も日本に居ることに不満をもっているけど、しがらみを断ち切れていないくちです。(今の生活で不満があるのは、居住地=日本だけです)
※結婚(家族を持つ)も法人設立も「しがらみ」の1つだと考えているので、やっていません。
でも、「やりたくないこと」をやって不満を持って生きるって人生を誰かのために浪費(あるいは搾取)しているだけではないでしょうか。
幸せは得ているお金の量ではない。
やりたくないことをやり続けて、心を壊し、身体を壊す人生を歩むのはなぜでしょうか。家族のため?それって結局はお金のためですよね?
本当に家族のためなら、身体も心も壊すべきではないですよね。
なにごとも「対価」が必要です。金銭的に裕福な人生を歩むためになにを対価にするのか。
必要な物を必要なときに必要な量を得る。
大きすぎる富は災いを呼びます。必要以上に余計に持っていて良いことはそうそうありません。
昔は山でも海でも、必要以上に獲物を取ることはなかったでしょう。必要な量だけ得ていたでしょう。
幸せの基準を他者との比較に置く不幸。
幸せの基準を他者との比較で決めることは、愚かだと僕は思っています。
「楽しい」「嬉しい」「ワクワクする」「ホッとする」など、自分の内にこそ、幸せの基準を置くべきだと思っています。
自分がやりたい!と思うことをやっている人を見ると、その人が持っているお金の量に関係なく、素晴らしいなと思います。
もちろん「やりたいこと」の内容は人それぞれ。千差万別です。家族と楽しく過ごしたい、バリバリ会社員として仕事をしたい、お金儲けをしたい、医療を受けられない人のために無料で医療を届けたい、どれも心からやりたいことで、やることで心が満たされるのなら、そのことに対して他人がどうこういうことではないでしょう。
人生は短い。
どんなにお金を稼いでも、人生は1度しかありません。時間も平等に過ぎていきます。この文章を読んでいる瞬間も確実に「死」が近づいています。
それほど高価で貴重な唯一無二の人生を他人のものさしで測るような、自分の人生の舵を他人に握らせるような、自分の人生を他人に搾取されるような人生ほど虚しいものはないでしょう。
もし、僕の友人が金銭的に貧しくても、毎日、楽しく笑って過ごしているのなら、そう「幸せ」なのなら、僕は何の心配もしません。
むしろ「幸せの基準がお金の量」である友人を心配するでしょう。今の日本のほぼ多くの人が該当してしまいますが。笑
僕がこのことに気づけたのは、タイで山岳民族の人たちと生活をともにした時でした。彼らへの感謝とともに、この文章を締めくくりたいと思います。
気づかせてくれて、本当にありがとう。