ゾンビは自分の事を「ゾンビ」とは言わない。
見に行くと「我々はまだ生きてます」なんて書いてあるんですが、「我々はまだ生きてます」と主張するプロジェクトが生きているわけがなく… ised 八田真行「オープンソースの構造と力」より
「人間には賞味期限がある」とは誰の言葉か忘れてしまったが、人間はともかく「文化的な物」や「ある特定の組織」、利用されている「道具」などは「寿命」がある、どんなに活発な物でもいずれ消えていく。これはしょうがない。まさか、今でも電話の代わりに電報を利用する人もいないだろうし、映画を見る時に活弁士がしゃべることもない。
現在でも、CDが消えつつあり、本も紙の本から「電子の本」に徐々に移行しつつあると思う。FAXは使う機会はずいぶん減ったし、ポケベルが消えたようにガラケーも消えていくのだろう。どんなに懐かしがっても、代替品によって衰退した物は復活するのは難しい。
これは、自分が属している組織や、自分が販売している商品にも、そういう「寿命」があるのだろう。どんなに愛着があっても、もう「死んでいるもの」は残念ながら違う物に移動するしかない。
問題は「寿命」が来ている「商品」「文化」はかなり遅い段階までいかないと、自分が死んでいたり、ゾンビであると認めないということだ。ホラー映画に出てくるゾンビが「自分はゾンビです」と言わないと同じように、既に死んでいる人たちも「死んでいます」とは言わない。その商品の当事者であればあるほど「ゾンビ」である事を認めないだろう。
私達の年代では、自分が利用していた商品や組織が「死んで」、新しい物に変わってくるのをいくつか見ていた。ただ、それは自分達より年上の人たちが作ってきたから、比較的受け入れてきた。
しかし、これからは自分達が作ってきたもの、長年使ってきたもの、当たり前だと思っていた習慣が次々と「ゾンビ」になっていく。その時、自分達は「ゾンビ」になっている物を「これはゾンビだ」と言えるかどうか、少し自信がない。