昨年、平成28年の11月、仙台歯科医師会で、海部陽介先生(国立科学博物館人類研究部 人類研究グループ長、東京大学大学院 理学系研究科 生物科学専攻 准教授)による、「人類における歯・歯列・咬合の進化と退化」の学術講演会が行われた。
非常に興味深いものであったので、紹介したい。
先史時代からの推移
日本民族の大きな流れは、先史時代から始まり、縄文人は歯のサイズが小さく、シャベル型の切歯の出現頻度が少なく、智歯の萌出率が比較的高い。これに対して、弥生時代の大陸から渡来してきたと考えられる弥生人は、歯が大きく、シャベル型切歯の出現頻度が高く、智歯の萌出率が少ない。
そして、これら2つの集団の混血で、その後営々と繋がれてきたのが現代日本人ということだ。すなわち、現代日本人は、その両方の形質が混ざり合っているが、平均的には弥生人的な形質を持つ人が多いとされる。
一方、混血が少なかった北海道アイヌ民族集団では、縄文人的特徴が受け継がれている。
変化は進化か?
現代日本人の特徴、例えば高身長化と顎骨の形態変化は数千年の間の進化ととらえるべきであろうか。
進化の定義から考えるに、進化とは、集団の遺伝子構成が変化すること。進化は必ずしも進歩を意味しない。退化は退行的な進化現象と捉えるべき。
そうであるなら、戦後の平均身長や視力の低下は、生活環境の変化に由来するもので、進化・退化ではない。
また、顎骨の形態変化に関しては、具体的には、顎の縮小化ではなく、咀嚼筋付着部位の下顎角部の縮小と、下顎骨の幅の狭小化の特徴があり、別な環境因子の存在が考えられる。
そして、これらの特徴は江戸時代に起こったことで、それ以後は戦前までは大きな変化は見られない。したがって、江戸時代において、摂取する食物の特性が大きく変わり、それ以後戦前までは、食の文化が継続されていたと考えられるだろう。
咀嚼回数
卑弥呼時代-4000回、江戸時代-1465回、戦前-1420回、現代-620回
食事時間
現代は、卑弥呼時時代の1/5、江戸時代の1/2と言われている
また、縄文人の歯列は驚くほど咬耗しているが、縄文人にとっては、この激しい咬耗は当たり前のことだった。
咬耗には、上下の歯あるいは隣接する歯同士が擦れ合って生じる磨耗(attrition)と外来性磨耗物質によってできる磨耗(abration)、及び酸性食物などによる化学的溶解(erosion)がある。
先史時代の磨耗の原因は、おそらく前者2つにあったろう。
すなわち先史時代の人々は木の実を磨り潰したり、石器類の磨耗片が混在した食物を食べていたと想像される。また調理にしても、現代とは異なり、野生の動物そのままあるいは簡単に調理されたものが具されたであろう。
つまり、文明の発達による食生活の変化によって、咬耗が生じにくい環境が生じたと言える。
咬耗量の減少化
咬耗量は縄文時代から現代にかけて劇的に変化する。
縄文時代には、臼・前歯ともに磨耗していたが、弥生時代には、前歯の磨耗が減少していた。
これは狩猟採集から農耕への移行と相関しており、前歯をあまり使わない食物が多くなったためと考えられる。
次に、鎌倉時代になると、臼歯の磨耗はわずか減少していたかどうかの程度だが、前歯の磨耗が極端に減少した。
これは、中国から伝わった箸を使う文化が日本各地に広まったためと想像できる。
すなわち食物を前歯でとらえ噛み切り、奥歯に運ぶ作業が、箸を利用して直接奥歯に運ぶことができるためであろう。
一方、奥歯の磨耗が極端に減少したのは、江戸時代であった。当時の江戸では、流通の発達によって各地の食材が手に入りやすくなり、様々な料理法が出現し、食事処が増加したりと、食文化に大きな変化があった。この状況は戦前までほとんど変わらなかった。
咬耗量の減少が招いたもの
歯が咬耗しなければ本来の咬頭の形態が保持されるため、機能的にも良いはずだが、そう簡単ではない。
咬耗には、虫歯や歯周病などの予防効果があり(咬耗そのものが予防をしていたわけではなく、咬耗に至らせた食習慣が予防?)、そのため咬耗しないとそれらの疾患の増加につながる。それともう1つは、不正咬合に関するものだ。不正咬合は審美的問題でなく、咀嚼機能・発語上の障害、虫歯や歯周病になりやすい、さらには肩こりや頭痛といった問題点を引き起こすことがある。
しかし、縄文時代には、このような問題は存在しなかった。
現代人と縄文人の歯列はどう違うのか
現代人の歯列では、上顎前歯が下顎前歯に覆いかぶさるような噛み合わせ(ハサミ状咬合)で、臼歯部では上顎第一大臼歯が下顎第一大臼歯のやや後方の位置で噛み合っており、歯科ではこの形が正常とされている。
一方、縄文人の歯列においては、上下の前歯が切端で咬み合っており(鉗子状咬合と呼ばれ、歯科では不正咬合とみなされる)、この噛み合わせは縄文人だけでなく世界各地の先史時代人に共通して見られるものであった。
これらの噛み合わせの変化の原因には、歯数の異常や巨舌症などの先天的因子の他に、重要な後天的因子が挙げられている。乳歯の虫歯による喪失、指しゃぶり、食生活などである。これらの中で、過去数百年スケールでの人類における不正咬合の増加を説明する最大の因子は、食生活であろう。
つまり軟食により、顎骨の発育不良が生じ、歯が萌出するスペースが不足したという考えである。つまりこれは、遺伝子の変化を伴わないので、退化現象ではない。
一方、不正咬合の主因ではないが、歯の咬耗量の変化である。
咬耗が進むと、歯と歯の間に隙間が生じることになるが、その隙間を埋めるように歯が移動し、補正するシステムが存在する。このような歯の生理的移動には3つのタイプに分類される。
① 連続的萌出;垂直的方向への移動
② 近心移動;臼歯の前方移動
③ 舌側傾斜;前歯の後方移動
これらの現象は歯科医学史でも著名なポッセルトも言及している。
咬耗に伴って以下の現象が起こる。
①歯髄の髄角の退縮、根管の狭小化
②隣接接触点の平面化
③歯間乳頭組織の圧迫を補償するため歯槽骨頂部および歯肉の後退
④歯槽骨皮質の緻密化、海綿骨部の小胞の減少
⑤歯牙の移動
摩滅咬耗を代表するような近隣諸組織の補償的変化によって、その機能は十分補われ、障害を残さない。咀嚼咬合により、加齢とともに咬合面と隣接面は摩耗し、次第に歯冠長は短く、歯間空隙は狭くなる。
すなわち、咀嚼をすれば歯が摩滅咬耗していくのは自然なことであり、生体がそれを補償する形で歯と歯周組織の形や質をリモデリングする。
これらの歯の生理的移動は、当然先史時代人にも起こっていた。
すなわち、すなわち子供時代は、現代人と同じようにハサミ状咬合を示すが、咬耗が進むにつれ、舌側傾斜が生じ、鉗子状咬合が形成される。
ところが、現代人においては、歯があまり咬耗しなくなったため、歯列形態の変化が惹起されず、小児期の咬合状態が温存される。
このように人類学的歴史を追ってみると、もともと人類は、長い歴史を、タフで力強い咀嚼を必要とし、かつ歯の激しい磨耗を引き起こすような食環境の下で過ごし進化してきた。そうした環境の中で、顎骨と歯列の発育は、顎骨への強い力学的刺激と歯の磨耗を前提としてプログラムされてきた可能性が高い。
不正咬合の増加は、こうした先史時代の前提が崩れたために生じたと理解できる。
だからと言って、歯を人為的に削ったり、軟らかい食事を排除するなどして、先史時代人の姿を取り戻すべきなのだろうか。
いな、形態が変化したからといって、必ずしも機能上の問題が起こるとは限らない。治療が必要か否かは理論ではなく、あくまでも臨床上の知見から判断すべきであろう、と結んでいる。
今回の講演会は、歯科界にとっても興味深い内容であったが、人類学に興味のある方にとっても、何千年にもまたがる壮大な研究で、さぞかしロマンが駆り立てられたであろう。
なお、海部陽介先生は書籍も多数出版しています。
「日本人はどこからきたのか」「人類がたどってきた道」「絵でわかる人類の進化」など
NPO 恒志会
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