天気と口は西から変わる

医科歯科連携への期待

Matsuda
koushikai
12 min readNov 27, 2017

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佐藤 弘/西日本新聞 編集委員

1月16目、私は仲間たちと、福岡県宗像市で「命の入りロセミナー」を開いた。口をテーマに、志を同じくする歯科医師や医師、教師、理学療法士らと手をつなぎ、実行委員会形式で開いた3回目のイベント。人口10万人弱の地方都市での開催、有料(1000円)、組織的動員も一切なかったが、会場は1500入の熱気であふれた(写真①)。

なぜこうしたセミナーを、私のような一般紙の新聞記者が展開しているのか。それは、この社会の閉塞状況に風穴を空け、世の中をより良き方向に動かすために新聞ができることは、良質な問題提起と実効性ある“半歩先の提案”だと思うからである。

私たちの主張は、単なる食の安全安心や、食の裏側の暴露でもないし、「○○してはいけない」といった攻撃的な話でもない。主題は「人と社会のありよう」であり、そのものさしを「食」に求めただけのこと。ともすれば、一過性の報道に陥りがちな新聞が、政治でも事件でもない暮らしの記事を家庭面や文化面ではなく1面でしつこく取り上げて続けていることには、多少なりとも意義があると思っている。

「天気と食は西から変わる」を旗印に掲げる私たちのシリーズ最新作が、噛むことの重要性と口腔をテーマにした第13部「命の入り口 心の出口」である(写真②)。

左 写真①1500人の聴衆が集まった第3回命の入り口セミナー/ 右 写真② 連載は1回終わるごとにブックレット化

日常の中に潜む危機

西日本新聞は2003年秋、朝刊1面で連載企画「食卓の向こう側」をスタートさせた。

第1部「こんな日常どう思いますか」のプロローグは、福岡市に住む3人家族の、ごくありふれた日常から始まる。「これのどこがニュースなのか」。社内には、そんな声もなくはなかったが、掲載と同時に読者から共感の声が続々と寄せられた。

抜け落ちていた「口」

「口」を取り上げようと思ったのは2006年。「地産地消とまちづくり」をテーマにしたシンポジウムに招かれたのがきっかけだった。シンポも終盤に入り、できるだけ地元の物を食べることが、家族の健康と地域の暮らしを守ることだとまとめる私に、パネリストの歯科医師が手を挙げた。

「佐藤さん。あなたはさっきから食材のことばかり言うけど、首から下のことは考えていますか。どんな食べ物も噛まないと意味がないんですよ」
「・・・」いやあ、参った。シンポジウムがきれいに終わらないとか、壇上で己の無知をさらしたとか、そんな次元の話ではない。食をテーマにしていた私の思考のなかで、「噛む」は全く抜け落ちていた部分だったからである。

食を考える際、多くの人は「食べる」ことでしかとらえていない。だが、人の健康度がわかるのは、何を食べたかよりも何を出したかの方だ。立派な便が出るときは、腸内細菌の状態もいい証拠。体の免疫機能も働いている。

「食べる」前には「作る・捕る」もある。いつ、どこで、だれが、どう作ったかで栄養価は変わるし、それを受け入れる私たちの体の状態も季節によってまた違う。さらに、「買い物する」「調理する」「土に返す」とともに、感謝やひもじさといった感情・感覚と組み合わせて食を語ってきた私に欠けていたのが、「食べる」と「出す」の間にある「噛む」だった。(左図:筆者が考えた食の循環図)

それから4年。少しずつ取材を進めた。歯科関係者にとっては当たり前の話でも、私にとって取材は驚きの連続だった。さらに、歯だけではなく、呼吸も考えねばならないこと。記者が感じた「ヘー」が読者に伝われば、「新聞を読んで得した」と思ってもらえる。このシリーズは当たると思った。反応は想像以上だった。

シンポジウムからセミナーヘ

2010年2月、恒例の連載終了後のシンポジウムを福岡市内で開催した。メンバーは、メーン講師に、岡山大小児歯科の岡崎好秀先生▽“不採算部門”として総合病院から歯科がなくなる傾向にあるなか、逆に高次医療の一つとして歯科を開設した済生会八幡総合病院(北九州市)の松股 孝院長▽歯科からの食育に奮闘する山口知世・歯科医師。満員の会場は、口の世界の奥深さに感嘆した聴衆の声であふれた。

そしていま、展開しているのが「命の入りロセミナー」。これは、社ではなく取材班が主催する、いわば“自主興業”で、予算は一切なし。会場費や講師陣へのギャラ等は、すべて入場料でまかなうのを原則としている。シンポとセミナーの違いに対する私の解釈はこうだ。シンポの場合、不特定多数が相手になるから話の内容は薄く広くになる。一方、セミナーの場合、参加者がある一定程度の基礎知識を持っていることを前提に話を進められるから、即、本論に入れる。有料ゆえに、本気度も高い。

問題はその組み立て方である。これまで記者として200回を超えるシンポジウムを見てきた私の結論は、業界の人が業界のことを大事だと叫んでも、なんの説得力もないということ。身内で盛り上がり、業界紙は特集を組んでくれても、一般紙なら、まあ30行。

歯科に置き換えれば、歯科関係者が「歯を大事にしよう」と叫ぶことと同じ。学会発表のように正しい話を正しく話しても、一般市民が正しく理解してくれるわけではない。

そこで私がとったのが、口呼吸の弊害を説く内科医の今井一彰先生(みらいクリニック、福岡市)をメーンにすえ、歯科医師ではない立場から口の大事さを語ってもらった上で、後半を歯科医師が締めるという構成である。

今井先生は現代人に多い口呼吸を鼻呼吸に変え、人体を支える足の形を矯正するなど、体の機能を正すことによって、関節リウマチやアトピー、アレルギーなどを治療している医師。「歯医者になりたかった」と言うくらい、歯科医師に対するリスペクトがあるから、歯科関係者にも受け入れられると考えた。

とはいえ、一般市民対象の健康イベントは無料が一般的。有料のイベントに集まるのか、多少の不安はあったが、ふたを開けてみると、2010年6月の第1回(福岡県歯科医師会館、400人)、同年9月の第2回(福岡市中央市民センター、500人)ともに入場をお断りする人気ぶりだった。

低すぎる歯科の評価

第13部を連載していて感じたことがある。それは、医科と歯科との間にある壁である。「今度、歯をテーマに取材しようと思うんですが、体と歯の関係は・・・」。何人も、親しい医師に相談したのだが、その多くは、「なんね、歯ね。まあ、歯が悪くなっても、死ぬわけじやないからね」「あんまり咬合とかで、全てが治るように書いたらいかんよ」。それが大半の反応だった。

不思議だった。おなかの中は毎目のぞけないが、口ならいつでも自分でチェックできる。歯茎から血が出たり、口臭がひどくなったりするときは、何かの異常のサインだし、舌でも健康状態はわかる。医学生が授業の最初で学ぶという「ペンフィールドの絵」を見れば、「生きる」ということにおいて、いかに手足と口が、脳と密接なつながりがあるかは、誰が見てもわかるだろうに。

静岡県の歯科医師、米山武義先生が明らかにした口腔ケアと肺炎の関係、静岡がんセンターの大田洋二郎先生らが取り組んでいる、がん患者への手術前の口腔ケアが予後を良好に保つことは、科学的にも証明されている。まさに口は健康のシグナルであり、全身の病とつながっているのに、医科と比べて歯科の評価は明らかに低すぎる。

私たちの体に境目はないのに、器官・機能を、医科と歯科という人の都合で区別していることが、おかしいのではないか。

私はここに現代社会の抱える闇を見たような気がした。

連携こそが道を開く

組織や学問は細分化することで発達してきた。だがそれは一方で、たこつぼのような関係を生んだ。野球でいえば、自分のポジションに来た球は捕るが、ちょっと外れると対象外として見向きもしないようなものだ。でも現実には正面に来る球などごくわずかだから、現実社会とずれていく。

それは、私が生業としている新聞でいえば、いまの時代、新聞がニュースの新しさを追い求め、批判するだけで満足していてよいのか、という疑問と同根である。

記事はあくまで手段であり、よりよき社会をつくるためにある。「新しい」「珍しい」「衝撃的」だけを追い求めて、問題は解決するのか。人々の行動変容が生まれなければ、「報道した」という自己満足で終わる。

それは医学もまた同じではないか。

「症状を聞き、薬を処方するんだけど、薬が効かなくなって」と、友人の漢方医が嘆いていた。長い歴史のある漢方だが、それはヒトの体温が36〜37度あり、よく噛み、歩くこと、そして口ではなく、鼻から息をすることを前提として体系だてられたもの。ヒトとしての前提条件が崩れたとしたら、同じ処方をしても、効果が薄いのは当然だ。 1939年、米国の歯科医師A・プライスが、マオリやイヌイットなど世界中の未開民族を訪ね歩き、伝統食を食べて健康な生活を送っていた民族が、近代文明に触れたとたんに、歯や口、顔の形だけではなく、精神の疾患まで引き起こしたことを克明に著した「食生活の身体の退化」(恒志会、農文協)」を読んでいた私にとって、俯に落ちる話だった。

根本は、私たち一般人はもちろん、プロの医療関係者も含めて、噛むことや食生活という、極めて日常的な行為を軽視していることにある。根っこを押さえなければ、問題は次々に形を変えて吹き出すだけ。もはや、一歩自らの枠を超えたところに踏み込まねば、真の解決策は見えてこないのは、いずこの世界も同じだろう。

「響育」に見る公教育の可能性

病気という現象だけを見つめ、誰も発見していない難病の原因を突き止める。あるいは奇跡のメスで教う?。それが研究者や、臨床家としての喜びであることはわかる。だが、私たちが目指すべきは、そんな医師たちだけが脚光を浴びる社会ではあるまい。

なにかことがあれば、すぐに駆けつけてくれる消防署にはお金をかけるべきだが、サイレンを鳴らした消防車が忙しく町中を走り回る状況を望む人はいないからだ。基本は習慣の積み重ねにある。そこに目を向けず、対症療法を行っても、また元に戻るだけ。根っこを正す方法が、最大のワクチンといわれる「教育」なのだと思う。なかでも、公教育の果たす役割は極めて大きい。

そこで第3回セミナーには、私たちの連載を活用した授業を展開している長崎県島原地区の口之津小学校、福田泰三教諭に登場してもらった。自ら学んだ知識を家族に語る授業を通じ、「自分が知ったことを伝えることで、家族を幸せにする」喜びを知った子どもたちの活動は、福田教諭のいう学校での学びを家庭から地域へと広げる、「教育」から一歩踏み込んだ「響育」の実践であり、公教育の持つ無限の可能性を示せたと思う(写真③)。

写真③ 班ごとに分かれて発表用の資料をつくる 口之津小学校の児童

技術、制度、価値観

「医は食に、食は農に、農は自然に学べ」。聴診器とともに鍬を持ち、有機農業を行いながら、いのちを見つめる医療を展開してきた公立菊池養生園(熊本県菊池市)の竹熊宜孝医師(現名誉園長)の言葉である。

医学がどんなに頑張っても、食が悪ければ病人は増えるだけ。だが食は、健全な農(一次産業)がなければ成り立たない。その健全な農もまた、清らかな自然(水や空気、土、光など)があってこそのもの。解決すべき問題は常に、いま見えている事象の向こう側にある。

健康なときは、だれも自分の体に注意を払わないが、いったん被害に遭って当事者になれば、言われる言葉は心にすっと入っていく。

そこで、国民病といわれるむし歯や歯周病になって歯科を訪れる患者に、「なぜむし歯になったのか」どんな食生活を送れば歯周病にならないのか」などの指導が行われるようになったらどうだろう。職場で行われる定期健診で血圧を計るように歯科検診が義務づけされたら、国民の意識付けが図られ、健康度はぐっと上がるはずだ。

だが現実には、削ったり、埋めたりしなければ、歯科の経営は成り立たないようにできている。それはまさに、目本の医療制度が解決すべき問題であろう。

ただそれは、「米国並みに国が医療費にかける割合をGDPの10%にまで引き上げる」などという方向ではない。医科歯科連携によって病気が減るのなら、診療報酬が上がって文句を言う人はいない。 2009年度の総医療費は34兆円だが、病気の治療に使った34兆円と、病気にならないために使った34兆円では、その意味は全く違う。国民が望むのは後者にほかならない。

技術、制度、価値観のいずれかに変化があったとき、世の中は変わるという。

口を命の入り口にするか、病の入り口にするか。たかだが80万部しかない九州のブロック紙でも、まっとうな価値観をつくるお手伝いぐらいはできる。 2011年度もまた、6月に東京国際フォーラムで開かれる歯科医師最大の学会である日本顎咬合学会に、今井医師や福田教諭と乗り込むことも決まり、セミナーも九州各地で次々に開かれる予定だ。

天気と口は西から変わる」。面白くなるのはこれからだ。

会報2012 vol.7 より

NPO 恒志会

学び合う医療 支えあう医療 ほんまもんの医療

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