遠藤周作、30年前の提言から

Matsuda
koushikai
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5 min readNov 18, 2017

「心あたたかな医療」運動のこと

加藤宗哉 Muneya Kato:作家 ・「三田文学」編集長

作家・遠藤周作が晩年に行なったキャンペーン「心あたたかな医療を考える」は、遠藤家で家事を手伝う女性の、突然とも言える死がきっかけとなってはじまった。

彼女は25歳という若さで骨髄癌に冒され、余命一ヶ月を宣告されていた。

それでもなお種々の検査が繰り返されるという状況を見かねた遠藤は、病院に対して検査回数の減少を申し入れた。

同時に、遠藤は人気作家になって以来初めて、自分から原稿を新聞社に持ち込んだ。

そのエッセイ「患者からのささやかな願い」は 1982(昭和57)年の4月4日から9日まで「読売新聞」夕刊に掲載され、それに共感した読者からの投書は300通を超えたと報告されている。

こうして、「心あたたかな医療を考える」運動は開始された。

遠藤は新聞・雑誌で精力的に医療関係者たちと対談をした。

あるいは病院や大学で 講演を行ない、医療奉仕のボランティア・グループも組織した。

しかしそのような提言や行動が、一部の医師や看護師からの反発を招いたのも事実だった。

彼等の多くは言った。― 医療には、小説家のような「医療の素人」にはわからぬ問題が数多くあるのだ。

これに対して遠藤はこう反論した。― 医師が病気の玄人だと言うのなら、私は患者の玄人です。

実際、この作家は若い日からじつによく病気をしていた。

学生時代の結核にはじまり、痔、肝臓病、糖尿病、そして結核の再発。

その後も高血圧、蓄膿症、腰痛、前立腺炎を体験し、さらに最後は腎臓を患っての人工透析と、その人生のほとんどを病気と向き合ってきた。だからこそ、「私は患者の玄人です」と言うのである。

しかし遠藤は新聞や雑誌で、医療制度批判や医学の倫理を説こうとしたのではなかった。

彼が提案したのは、病院で改善可能と思われる現実的な問題 ―たとえば、入院患者の夕食時間についてであった。

当時(1980年代)の病院の夕食時間は 4時半から5時というケースが多くみられたが、それについて遠藤はこう言った。

健康な人間でもそんな時刻に夕食は摂らない、まして病床にあって運動はもちろん動くこともままならない患者なら尚更ではないか。だから、「せめて夕食の時間は午後6時に」と提案したのである。

あるいはまた、尿検査の際、患者が若い女性であったとしても、病院側は「この紙コップに尿を採って、ここまで持って来てください」と言った。つまり、その若い女性患者はトイレで採った尿を入れた紙コップを手にして、多くの人びとがいる待合室の前を歩かねばならなかった。その無神経さに対して、改善を勧めたのである。

いま、夕食時間が4時半や5時という病院を見かけることはないし、また尿検査の紙コップもトイレに所定の容器入れが備えられているのを我々は知っている。

こうした遠藤周作の医療への提言に賛同した人びとは当時も多かったが、そのなかには当然ながら医学の専門家たちもいた。

前弘前大学学長の吉田豊氏もその一人で、彼には『医者がみた遠藤周作 ―わたしの医療軌跡から』(プレジデント社刊)という著書もある。

そのなかで、吉田氏は「わたしの記憶に深く残るひとりの生理学者」として久野寧の名を挙げ、久野の色紙の言葉「医の道は弱者への無限の道場である」についてこう記している。

「わたしはずっとその言葉こそ医療の本質だと思い、座右の銘としてきた。作家・遠藤周作と生理学者・久野寧の考え方は、この『無限の同情』、あるいは『哀しみへの連帯』という点で深く結びついている。だからこそわたしは遠藤周作という作家が行なった医療への提言に心惹かれるのだ」

吉田氏が書くように、遠藤文学は弱者や苦しむ者への共感と連帯感が主要なテーマになっていて、その意味では先の医療キャンペーンも発想の根本は同じである。

そして遠藤周作の場合、日常の生活においてもそれはまったく変ることはなかった。

思い出される光景がある。

まだ遠藤周作が60代の初め、にぎやかに飲んで騒いで笑った集りの、夜の帰り道、タクシーが信濃町駅前に差しかかろうとしたとき、遠藤が不意に、車をとめてくださいと言った。

そして舗道に降り立ち、車道の向こう側をじっと眺めはじめた。

私も車を降りて一歩離れて立ったが、遠藤周作の視線の先は慶應病院の入院病棟だった。

すでに午後9時を過ぎていて、病室の灯りは消えていた。

その黒い窓に向かい、いっとき、長身を伸ばすようにしていた。

30秒ほどだったろうか、「いや、すまない」と言うと、 もう車内にもどっていた。

私は、尋ねることがなぜかためらわれた。

そして一人で勝手に考えたのだが、たしかにそこは、かつて30代の終りの結核再発で3年の入院生活を余儀なくされた場所だった。

だがその個人的な思い出のためにさっき、夜の舗道に降り立ったのではないように思えた。

・・・その黒い窓のむこうには、いまも多くの入院患者たちがいて、病と向き合っている。

その人びとの辛さや苦しみに思いを合わせ、共感し、連帯しようとしたのだ、そうに違いない、と私は確信した。

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