Ken Takeshige
原稿用紙1枚の物語
3 min readJul 22, 2016

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入院後、帰宅するとなにかが違う……。でもなにが……?

『怪我をして変わったもの』

交通事故で医者に1週間の入院と診断されたが、辰雄は無理をして2日で退院した。

「誰か俺の部屋に入ったな!」

自宅に帰るなり怒鳴り声をあげた。家政婦を問い詰めると、自分がいない間に兄と弟がやってきたという。部屋に入れたわけではないが、自分の目を盗んで入った可能性は否めない、と。兄弟とは相続争いが続いており、お互い弱みを探し合っているのだ。

なんとなく部屋の様子が違う。しかしなにが違うのか分からない。

――俺の部屋になにか仕込んだな……。

弟に電話したが、しらばっくれる。

「兄貴は怪我のせいで勘ぐり深くなっているのさ。安静にしなよ」

兄も同じこと言った。口を合わせているに違いない。思えば家政婦の様子もおかしい気がする。兄と弟になにか仕込まれたのかもしれない。すぐに家政婦をクビにした。

なにもかもが疑わしかった。日記帳さえ信じられない。自分の筆跡のようにも、精巧な偽物にも見える。最後のページは事故の前日。『家を相続したい』と繰り返し書いてあるが、書いた記憶はない。誰かが書き足した可能性もある……。家を相続してはいけない――

「なぁ、家は譲ってくれよ」

兄が言った。「俺も」と答えた途端、「じゃぁ、譲るよ」と言われる気がした。なにかいわくがあるのではないか。相続した途端、大損するのではないか。罠にはめられてたまるか。

「ああ、譲ろう」
「そうか」

辰雄は相続はなにもかも放り出して家を出た。今まで持っていたものが全て疑わしかった。実際に変わったものは、家政婦が気を利かせて変えたカーテンだけだったのに……。

《No.143 お題:怪我》

あとがき――森側の人と人側の人

このブログ記事が腹にストーンと落ちました。

森への2つのアプローチ「森側の人と、人側の人」

自分の言葉で、このふたつの “人” について書いてみると、森側の人とは『自然を “Funtion” で捉え、木、葉っぱ、雑草、虫、動物が自然の中でどういう役割をしているかに興味がある人』です。

一方で、人側の人とは『自然を “Use” の視点で捉え、自然にある木、葉、雑草、虫、動物をどのように活用できるかに興味がある人』です。

自然そのものの機能に着目するか、その自然をどう使うかに着目するか、の違いです。

で、この「森側の人、人側の人」という定義をした上で、このブログではその先に何にも言及していません。どっちが優れているとか、どっちになるべき、ではなく “2つのアプローチ” として、どっちもありだし、実際には両方の性質を少しずつ兼ね備えているもの、とも書いています。

わたしもそれにすごく共感していますし、なるほど~、と思いました。

わたしは今のところ「人側の人」の着眼点が強いようです。しかし、「なにか足りない」と思っていました。それが森側の人の視点だった気がします。

こうして定義してみる事ってすごくいいですね。

自然とか、山とか、興味がある人にはお勧めの記事です。

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Ken Takeshige
原稿用紙1枚の物語

小説書いてます。『池内祥三文学奨励賞』受賞。世界旅を終え、作家活動中。 noteやMediumで小説を連載。ブログ『日刊ケネミック』→ http://kenemic.com | Amazon著者ページ→ http://amzn.to/1sh7d1f