腑抜けども悲しみの愛を見せろ(本谷有希子)

私は自分を、自己愛性パーソナリティ障害ではないかと疑っています。ただ他人を不当に利用するという図々しさはないし、誰に迷惑をかけるでもなく、自分を過大に評価したり妄想したりする分には全く問題ないと開き直っています。

先日、昔憧れていたKさんに会うことができました。Kさんは、噂によるとガタイがよく、酒癖が悪く、ケンカっぱやく、家もなく、知り合いの家を渡り歩いたり、道端で寝たり、空いてる倉庫に300本の酒の空瓶とともに寝泊りしてる人で、酩酊の合間にどこかで書いてインターネットにアップした文章がとても美しい人でした。でも文章を書く仕事を頼まれても、酒を飲んで忘れる、放置する、どこにいるか分からない、連絡がつかない、とにかくひどい有様でとても面倒くさい人としても有名でした。

もう死んでいるだろうなと思っていたけれど、沖縄の小さな離島の洞窟みたいなところで寝泊りして、毎日魚を取って食べてゆるく死を待っていた時に現在の奥様に拾われて、お子さんまでいらっしゃった。奥様は、当時の半年以上風呂に入らず、髪も髭もボサボサで、目がとても澄んでいて、洞窟で半透明になっていた妖精のようなKさんを、キラキラしていた、現在の姿をみて騙された、と愚痴ると言います。とてもいいエンディングだなと思いました。そんなKさんが、10年勤め上げた会社を辞め、古物商となり、私の前に姿をあらわしたのです。

「自分の魂をバチーンと叩いてみたら、嫌な音がしたから」
「天才じゃなくなっていくのがわかったから」

Kさんは堂々と、会社を辞めた理由を、そういいました。また、自分以外の文章には全く興味がないから読まない、今も小説や詩を書いて出版社に送ってるが、社内の当時のKさんを知ってる人からのアドバイスや励ましの電話に「うるさいんじゃボケ、こっちはサービス業で書いてるんとちゃうねん!」と叩き切るといいました。

私は、「私も天才なんです」と言おうとして、言えませんでした。それがものすごくショックで。

歳をとるにつれ、誇大で尊大な感情を持ち続けるためには、独りよがりであってはならぬと思ってしまったのか。
周りをきちんと把握して自分がどの位置に、どの順位にある「天才」なのかを見定めようと、数多の自分より秀でた他人に興味を持ちすぎてしまい、"謙遜"というものすごく邪魔な感情が育ってしまったんだと、「純度の高い」Kさんを前にして、はっきりと悟ってしまいました。

腑抜けども、悲しみの愛を見せろの澄伽の中に純度の高い私が見え、 清深の中に「天才であると疑わないこと」と引き換えに得た、私の他人への興味・探求心が見えました。私、私、私。

私は、今まで何をしてたんだっけ。他の天才の作り出したものに興味をもって、面白がって、嫉妬して、純度を低くしてしまった。それでいてなお、私、私、私。
私の魂もバチーンと叩いてみたら、鈍い音がした。