百人一首を暗唱していたらタイムリープして泣いた話
百人一首を暗唱する友人に触発されて、久しぶりに和歌をひもといた。
子どものころやったかるたの練習では、早口言葉のようにすらすら言うことしか目指していなかった。
今回は、具体的にはYouTube動画に合わせて、かるたクイーン戦の読み手・読手(どくしゅ)のように、ゆっくり朗誦することにした。
のばした声が自然とビブラートになるとなんとも気持ちがいい。
そんな感覚を楽しんでいた私は、小野小町、紫式部、清少納言リスペクトというわかりやすい主義で、伊勢大輔は全くのノーマークだった。
いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重に匂ひぬるかな
順番がきてこの和歌を声に出して読んだら、私は泣いてしまった。
伊勢大輔・いせのたいふは、祖父、父、自分、子どもまで、複数の三十六歌仙グループに挙げられる、歌人の名家の生まれだ。
難波潟~の歌で知られる伊勢も三十六歌仙だが、大輔より前の人である。
奈良から献上された八重桜を受け取る役目を、大輔は紫式部から直前に無茶ぶりされる。
さらに中宮彰子は、一首詠んでみよ、と大輔に命じた。
中宮や藤原道長の前で、若き女房が如何なく才を発揮し、道長からも称賛されるという逸話を持つ。
この歌は掛詞で有名だ。
けふで、今日と京をかけている。即興でちりばめた技巧で知られる歌だと。
奈良の七、八重桜の八、九重の九。数字も並びで埋め込まれている。
九重、ここのえは、きゅうちょうともいい、幾重もの門に囲まれた皇宮のことである。
私にとって掛詞だけがポイントではない。
伊勢大輔がその時どこまで意図したかはわからない。千年後に声に出して泣く人がいるなんて思わなかったかもしれない。
が、私が泣いたのは、厳密には下の句に入る”けふ(きょう)”という言葉だ。
「古都」「奈良」の桜の話をしていた上の句。私はまだ安心していた。
だが、下の句「けふ」を口にし、声で体が振動した途端、
一気に「今日」の「京」へ時空が移動して、目の前の光景が書き換わり、圧倒的な臨場感が訪れた。
この歌は、古き平城京の都から、今日の平安京の内裏まで、聞き手の意識を時空ごとワープさせ、桜が匂い立つ=咲き誇るという極上の寿ぎを味あわせてくれる。
理屈ではなく、泣けてしまったのだが、その体験を言葉で説明するとたぶんそういうことになる。
いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重に匂ひぬるかな
咲くと言って桜のビジュアルを直接見せる凡庸なことはしない。あくまで香りのみを描く心憎さ。
十分な臨場感があればもはや視覚的な説明は不要だと言わんばかりだ。
絵画も写真も映像も意味をなさない。
脱帽でしかない。
中宮彰子、道長、紫式部。役者がそろいすぎた場面で、和歌の傑作を即興で生み出した才人がいたことに震える。
圧倒的な若き女性アーティストがいたことにまた泣ける。
彼女たちが、タイムスリップやワープの概念を持っていたかはわからない。が、人間の意識が言葉によって時空を移動する感覚を知っていたことは間違いないだろう。
もう一度、ゆっくりと百人一首に出会い直すのもいいかもしれない。