吉田鉄郎の『日本の住宅』(1935)──馬場氏邸と桂離宮[前編](翻訳:江本弘)

国立近現代建築資料館(NAMA)講演、2020年1月25日

Manfred Speidel
建築討論
18 min readSep 6, 2022

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はじめに

本稿は、2019年冬に国立近現代建築資料(NAMA)で行われた「吉田鉄郎の近代 ──モダニズムと伝統の架け橋」展(会期:2019年11月1日~2020年2月11日)のギャラリートーク原稿を、マンフレート・シュパイデル氏の意向により訳出・公開するものである。本展は、この年、2,000枚に及ぶ吉田鉄郎関連図面資料がNAMAに寄贈されることとなったのを機に行われた大規模回顧展である。ここにはNTTファシリティーズ逓信建築アーカイブスの所蔵資料等も併せて展示され、吉田鉄郎(1894−1956)という巨星の建築家像が豊富な史料をもとに示された。また会期中には、ヴァスムート社所蔵の吉田鉄郎資料もNAMAに寄贈された。この一連の出来事は、これからの吉田研究の高まりを予感させるものだった。

シュパイデル氏のレクチャーは、これらを含めた国内外の膨大な史料群をもとに、吉田鉄郎の「ドイツ語3部作」の第1部となる、『日本の住宅』(原題:Das Japanische Wohnhaus, 1935)初版成立の周辺事情をひもとく。1枚目のスライド(Fig. 1)はその表紙である。レクチャー本文に入る前に、じっくり観察してほしい。(江本)

Fig.1 吉田鉄郎『日本の住宅』初版表紙

1.吉田鉄郎の『日本の住宅』(1935)★1

私はこの表紙に驚かされました。バランスのとれた写真と文字の構成も、タイポグラフィも、まるでバウハウスの巨匠がデザインしたかのようです。その京都の古屋敷の内装は、木造構造も存在せず、また、17世紀(吉田が言う14世紀ではないはずです)に遡る日本建築の伝統的な外形や装飾的グリッドも存在しない、1920年代のオランダの構成主義者の作品だと言っても通用しそうです。吉田鉄郎の『日本の住宅』の表紙は、まるでこう言っているかのようです。日本の伝統建築は、モダニズムが発明されるずっと以前からモダンだったのだと。

本書が出版された1935年夏、ドイツでは国家社会主義政権が3年目を迎えており、「近代建築」の抽象的な幾何学性に対してますます風当たりを強くしていました。また、インターナショナリズムのプロパガンダは共産主義やボリシェヴィストの文化プログラムとみなされ、すでに強い反発がありました。

当時政府が支援していたのは、地域主義的建築や伝統の再生を標榜する出版物です。「伝統住宅」の参照源はヴァイマルのゲーテのガーデンハウスであり、保守的なシュトゥットガルトの建築学校では、それらはヴァイセンホーフ・ジードルンク(1927)の住宅でル・コルビュジエがみせた、抽象幾何学に対抗するかたちで支持されていました★2。

ところが吉田の『日本の住宅』は、その抽象的な表紙にもかかわらずマスコミに歓迎されたのです。

『ドイツ建設新聞』の1935年6月5 日号に掲載された書評(Fig.2左)はこのように書いています。

Fig.2 『ドイツ建設新聞』による『日本の住宅』評(1935年6月5日)

待望の一冊である。これは、(モダニストによる)「国際建築」なる言葉が世界的に影響力を失いつつあるなかで、抑圧されていた国民的建築、伝統に強く根ざしたものなしには考えられない建築が、日本においてもかつての領地を取り戻しつつあることの証拠なのだ。……本書は、民族精神の芸術表現と現代の生活様式を融合させる方法を、日本の建築家がいかによく知っているかを教えてくれる。★3

吉田の本には、座れる家具のある部屋など、「現代の生活様式」の写真は掲載されていません。そこで書評者は、自分の論を裏付けるために、テーブルと椅子のある和室の例を6ページぶん追加しています(Fig.2右)。どこからとられた写真かは分かりませんが、それらのほとんどは一種の「アール・デコ」で、現代の私たちからみればほとんどの内装はキッチュです。

ドイツの類書では、吉田の本は、フランツ・バルツァーの『日本の家』(1903)★4以来32年ぶりの出版でした。この『日本の家』は、1898年から1903年まで日本政府の顧問として東京駅周辺の鉄道設計に携わったベルリンの鉄道技師バルツァーが、日本家屋の図面や技術的な詳細を集めてベルリンで出版したものです。エンジニアが書いたこの本は、写真も少なく、一般人にとっても建築家にとっても、あまり魅力的なものではなかったようです。1903年にベルリンの事務所で働いていたブルーノ・タウトも、この本の存在には気づいていません。

吉田の本は27cm×22.5cmという独特なプロポーションで、全193ページ中には133点の白黒写真(多くは半ページか1ページ)と70点の図版(平面図、詳細図、グラフ)が掲載されています。日本住宅建築の豪華本と呼んで差支えないでしょう。

1935年には、日本の住宅建築に関する知識はまだ断片的で、空っぽの空間、規格化された可動壁、ユカ座、庭とつながる開けた家など、数少ない決まり文句で理解されていました。

吉田は序章の最初の2枚の写真ですかさずこのイメージを取り上げました(Fig.3左)。ガラスの壁に囲まれた大きな空間の一部に、大型の障子によって屋内屋の半開放空間が作りだされている。木と紙でできてはいますが、そこには鉄とガラスの近代建築のような、簡素と精度の極致が表現されています。

室内から庭の風景を写した二番目の写真(Fig.3右)には、自然な構成をとる林と、景色を切りとる幾何学的フレーミングとのコントラストが表現されています。

Fig.3 『日本の住宅』初版冒頭の馬場氏牛込邸内観

どちらの写真も1928年に竣工した自作「馬場氏牛込邸」のものです。儚いとまでは言えないまでも、実用的で洗練された、きっと居心地のよい空間のように映ります。

そして日本の気候と歴史を手短に分析されたのち、桂離宮の写真が18点、修学院離宮の写真4点が、映画のスチル画像のように、解説のテキストもないまま続いていきます。49ページめからは、日本の住宅の平面図、それから室内や、床の間などの建築要素、ファサード等々の図解にあてられています。馬場邸の写真は28点。そして吉田は、桂離宮の作り付け家具と馬場邸のものとを比較し、あるいは両者の無装飾の壁面を比較していきます。また、馬場邸の犬走りと桂離宮が比較されています。

吉田の『日本の住宅』は、桂離宮と馬場邸の本だと言ってもよいくらいです。そこでは1928年の自作が、桂離宮に匹敵する芸術性をそなえたものとして紹介されています。庭園も含めた桂離宮の図版は当時出版されたばかりのプロの写真集からとられたものですが、このことも、ドイツ人読者がこの離宮を身近に感じるようになるのに一役買いました。桂はそれまで、ドイツでは知られていませんでした。

ブルーノ・タウトの落胆も想像に難くありません。なにせ、ドイツ人読者に桂離宮のメッセージを届けることができたのが、自分ではなく吉田だったのですから。

ドイツのナチス政権から逃れ、1933年5月から日本に移住したタウトは、1934年に『ヨーロッパ人の眼で見たニッポン』と題する初めての日本論を出版し、これが大ヒットとなりました★5。 ただし本書は、日本国外では出版されていません。タウトはここで一章すべてを桂離宮に費やし、優れた建築全般のためのテストベンチとしました。それがタウトの、日本建築を扱った他の作家と異なっていた点です。そうして彼は、最初の2枚の写真を使い、桂離宮を世界ランクにおいてギリシャのアテネにあるアクロポリスと並ぶものとまでみなし、桂は「建築における世界的奇跡」であると称したのでした。

タウトは1935年9月9日の日記のなかで、吉田の本の写真表現は事実上建築学的なものだと批判したのち、いささか怒った様子でこのように書きつけています。「ベルリンの人間が、この本からとったディテールで日本家屋を建てたいと思うだろうか?あるいは、日本建築の頂点である桂を模倣したいと思うだろうか?あるいは茶室を?模倣すれば必ずその美が失われてしまうのに?だが、表紙図版のような珍しいものは使われる」★6。なお、タウトは自著の『日本の家屋と人』のなかで、この図版について「主観的要素で作られた茶室。典型的なものでは全くない」★7と述べています(Fig.4)。

Fig.4 B.タウト『日本の家屋と人』(1937)図版

1935年9月29日、タウトは吉田に訊ねました。「なぜここまで日本を非現実的に、理想化させて見せるのか?」吉田は答えました。「誰も好き好んで自国を批判的には書かないよ」と。そしてタウトは意見します。「善良なる(達人たる)吉田よ、靴屋は靴型から離れるな」。★8

同じ1935年、タウト自身は「日本の家屋とその生活」をテーマとした本を書いていました。この本は写真集ではなく建築民族誌のはしりとでも呼べるものであり、そのなかでは入念な歴史分析と社会分析が行われています。桂離宮ももちろん登場しますが、ただし1936年2月に書かれた、「永遠なるもの」と題された最終章に現れるきりです。

その本の表紙にタウトが選んだのは、富士山のシルエットを背景にした農家のスケッチでした(Fig.5右)。裏表紙には伸びやかならせんが描かれていますが、北斎の木版画にも似たこのらせんは、もしかすると海波を象徴しているのかもしれません(Fig.5左)。この本は『日本の家屋と人』(Houses and People of Japan)として1937年に英語で出版されましたが、当時タウトはすでにトルコにいました。そうして、それが売られたのはアメリカとイギリスです。タウトには、それをドイツで出版する可能性はありませんでした。

原文のドイツ語でそれが出版されたのは、60年後の1997年のことです★9。

Fig.5 B.タウト『日本の家屋と人』(1937)カバー

2. ベルリンの吉田(1931–32)

吉田はなぜ、どのようにして、日本の伝統住宅建築に関する書籍を、ドイツで、そしてドイツ語で出版したのでしょうか。それは、東京中央郵便局の建設を終え、1931年7月から長期休暇をとって西洋建築を学びに行っていたときのことです。このとき、銀行家の馬場氏のために東京と那須に建てた、ともに1928年に竣工したふたつの住宅の写真集が刷りあがっていました。そのタイトルは『新日本住宅図集』★10、つまり「新しい日本の住宅の写真集」です。ここには編集者として「志摩徹郎」の筆名が使われました(Fig.6)。

Fig.6 志摩徹郎『新日本住宅』(1931)表紙

彼は東京郵便局や通信省の他の作品の写真は持っていかなかったようです。それがなぜかは分りません。とにかく、彼が持っていったのは、自作の住まいを扱った小さな本だったのです。それらの住宅は、彼がはじめて日本の伝統的なスタイルを用いた、完璧なディテールと、貴重な材料を使った建築でした。奇妙なことではないでしょうか。なお、この展覧会〔訳者注:「吉田鉄郎の近代 — モダニズムと伝統の架け橋」〕をご覧いただければ分かるとおり、吉田はこの『新日本住宅図集』をスイスのジークフリート・ギーディオンなどへのプレゼントに使っていたようです。この本の表紙には著者として、普段の「吉田鐵郎」の名前が書かれています。

吉田はこの本を、デッサウのバウハウスで行った講義にも使ったはずです。バウハウスの1932年3月16日の日記には、「講義 吉田(東京)日本の家」の記述があります★11。これはバウハウスが1932年秋に閉鎖される半年前のことで、毎日のようにトラブルが起きていた時期のことです。バウハウスではおよそ定期的に特別講義が行われていました。ところが1932年のバウハウス日記には、工学の講義のほかに、グラーフ・デュルケムによる心理学の連続講義が記されているのみです。吉田の講演は、建築に関するこの時期唯一のものだったのです。

バウハウスで都市計画の講師をしていたルートヴィヒ・ヒルベルザイマーが吉田に会ったのは、おそらくこの時だったでしょう。急進的な合理主義者であるヒルベルザイマーとブルーノ・タウトは、フーゴー・ヘーリンクを会長とするベルリンの進歩的建築家クラブ「リング」のメンバーでした。吉田が著書の序文で語っているとおり、いずれにせよヘーリンクとヒルベルザイマーは、日本の家に関する本を書いてほしいと依頼してきた張本人でした。ヒルベルザイマーは欧米以外の都市計画に興味を持っていたようですし、有機的建築を提唱していたフーゴー・ヘーリンクは、スケルトン構造や柔軟なフィルイン・システムに関するアジアの伝統の例を探していたようです。

ところが、この本がドイツで発売された1935年には、彼らのどちらの書評もありません。そうして、ヒルベルサイマーが吉田の新版の英語訳を求めて吉田とやりとりをするのは1950年代のことです★12。

シャルロッテ・ヨレスが略歴のなかで述べるところによれば、吉田はたしかに、1932年のベルリンですでに本を作ることを決めていたようです。吉田にはドイツ語の知識はありましたが、完璧ではありませんでした。ドイツ文学を専攻していたシャルロッテ・ヨレスは当時、ベルリンの学生機関の委託を受けてドイツ語を教えていました。吉田はおそらく、そうした機会にヨレスと出会ったのでしょう。ヨレスが日本文化に興味を持ち、日本を訪れたがっていたことを示す書簡も存在します。吉田がドイツ語で本を書けば、ヨレスがそれを添削できる。加えて、ヨレスの日本滞在申請に吉田が推薦をくれるかもしれない。ただ、これは実現しませんでした。

1939年1月、ヨレスはイギリスへの移住を余儀なくされました。ユダヤ人とのハーフだったからです。ロンドンのヨレスは、ドイツの作家テオドール・フォンターネの研究者として有名になりました。ベルリンの記念碑には、ヨレスの略歴が日付入りで刻まれています★13。

吉田は1932年6月の中ごろにドイツを発ち、ニューヨーク経由で日本に帰国しました。吉田の日記には、ニューヨーク市立図書館を訪れたことが記されています。彼はこの図書館でフランツ・バルツァーの『日本の家』(Fig.7)を請求し、書簡用のメモを残しています。これはおそらくヨレス宛のもので、バルツァーの本を捜して日本の自分宛てに送ってほしいという内容です(Fig.8)★14。

Fig.7 F.バルツァー『日本の家』(1903)表紙
Fig.8 NY滞在中(1932)の吉田鉄郎のメモ(NTTファシリティーズ蔵)

F.バルツァーの『日本の家』が面白い。私の仕事に絶対に必要です。もし同じものを送ってくれれば大変嬉しいのですが、手に入れるのは相当難しいでしょう。

吉田は帰国後すぐに本の制作に取り掛かったようです。馬場邸の写真は自分で持っていました。吉田は本の見本を作ってヨレスに送ったようです。ヨレスは1933年末からさまざまな出版社に問い合わせ、1934年8月にはベルリンのヴァスムート社から前向きな回答を得ました★15。そして1934年10月中旬には契約の権限を与えられ、吉田の文章の添削係にもなりました。吉田は本の表紙はヴァスムートの裁量に任せました。そして1935年7月には本はすでに完成していました。この本はヨレスの生活の助けにもなりました。[後編に続く]

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★1:Tetsuro Yoshida, Das japanische Wohnhaus, Wasmuth Berlin 1935
★2:Paul Schmitthenner, Baukunst im neuen Reich, München 1934 (Abb. 5, 12, 13)
★3:“Das japanische Wohnhaus, Tetsuro Yoshida” in: Deutsche Bauzeitung, 1935, 5. Juni, Heft 23, Kurzreview S.461 und 462
★4:Franz Baltzer, Das Japanische Haus, Berlin 1903
★5:ブルーノ・タウト著、平居均訳『ニッポン』、明治書房、1934。「ヨーロッパ人の眼で見た」(mit Europäischen Augen gesehen)が初めて邦訳タイトルに含まれたのは、1942年森儁郎訳版(明治書房)。ドイツ語原文は2009年出版。Bruno Taut, Nippon mit europäischen Augen gesehen, Berlin 2009
★6:タウト著、篠田英雄編訳『日本: タウトの日記 1935–36年(第3巻)』、岩波書店、1975年、p.268. M. Speidel (Hrsg.), Bruno Taut in Japan, Das Tagebuch, 3. Band. 1935–36, Berlin 2016, S.140. 本引用の翻訳は江本による。
★7:Bruno Taut. Houses and People of Japan, Tokyo 1937, p.212, Fig. 408.
★8:『日本: タウトの日記 1935–36年』、p.267 (ドイツ語版 p.144) 〔訳者注:「自分の仕事に集中しろ」「本分を忘れるな」の意。なお『日本の家屋と人』Houses and People of Japanは『日本の家屋と生活』と邦訳されるのが一般的。〕
★9:M. Speidel (Hrsg.), Bruno Taut, Das japanische Haus und sein Leben, Berlin 1997
★10:志摩徹郎『新日本住宅図集』、洪洋社、1931年
★11:Peter Hahn (Hrsg.), Bauhaus Berlin. Auflösung Dessau 1932, Weingarten 1985
★12:1951年8月31日吉田鉄郎宛L・ヒルベルザイマー書簡、NTTファシリティーズ蔵(#14145)。ヒルベルザイマーには『日本の住宅』を翻訳する意図があったが、吉田が英語で新しい本を準備していることを知らされた。Tetsuro Yoshida, The Japanese House and Garden, Pall Mall Edition 1969 and Praeger (USA)
★13:C・ヨレス、ポートレイトと履歴書、1937年(NTTファシリティーズ蔵(#14014);テオドール・フォンターネ協会「シャルロッテ・ヨレス―ベルリンの記念プレート」、2015年1月9日、
https://fontane-gesellschaft.de/2015/01/09/charlotte-jolles-gedenktafel-in-berlin/
★14:吉田鉄郎の旅行ノート(1931–32年)、NTTファシリティーズ蔵(#12015)、 P.61
★15:出版社選定に関するC・ヨレス書簡群、NTTファシリティーズ(#14001–14009)およびヴァスムート・アーカイブ(テュービンゲン)(1934年8月20日から10月22日まで)

著者略歴
マンフレート・シュパイデル(Manfred Speidel)
アーヘン大学名誉教授/博士(建築学)
1938年生まれ/シュトゥットガルト工科大学卒業/早稲田大学において吉阪隆正に師事(1966–1975年)/アーヘン大学教授(1975–2003年)/日本、ドイツ、トルコにおいてブルーノ・タウト研究に従事し、『タウトの日記』原語版や日本論を中心に、ブルーノ・タウト著作集(Gebr Mann、全13巻)の編纂に携わる/日本(1994年、2007年)およびドイツ(1995年)にてタウト展開催/共著に『ハインツ・ビーネフェルト』(W. König 1991)、『ドミニクス・ベーム 1880–1955』(Wasmuth 2005)、『ゴットフリード・ベーム』(Jovis 2007)、編著に『TEAM ZOO 1971–88』(Thames & Hudson 1991)/ほか近現代建築に関する著書・論文多数

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Manfred Speidel/アーヘン大学名誉教授。博士(建築学)。1938年生まれ。シュトゥットガルト工科大学卒業。早稲田大学において吉阪隆正に師事(1966–1975年)。アーヘン大学教授(1975–2003年)