祖母が亡くなった

yanbe
3 min readJul 20, 2016

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お通夜と葬儀、後片付けや後処理がすべて終わって帰宅した。孫として葬式に参加するのはこれで4回目で、定義からして今回で最後となる。1回目は2歳だったので覚えてない。2回目は中学生の時、3回目は大学生の時。そして4回目、33歳のいま。

社会人になってから葬式に参加するのは意外とこれが初めてで、祖父母のうち、唯一、同居していたことがことがあるのが今回の父方の祖母だった。葬式というのは主催者側(の家族)は何かと忙しくあわただしくなりやすいので、帰宅してようやく落ち着いて、同居していた期間や、その後のことをいろいろと思い出したりしていた。祖母が危篤になり亡くなってからのこの4日間、いろんな人をいろんな場所に運ぶために、だいぶ車の運転をしたと思う。車を持っててよかった案件である。

葬式では何度か会食の機会があって、親戚や近縁の者同士が昔話をすることになる。昔住んでた実家が建てられた経緯とか、そこに至るまでの過程とか、いろいろと自分が知らなかった(あるいは子供のころに聞かされていたけど、覚えていないか、理解していなかった)経緯や歴史を知ることができて、なるほどそうだったのかと唸ることが多い。

自分が子供のころは、実家は実家であり、祖母は祖母なので、なぜそこに存在するのか疑問に思ったりはしないし、考えないので聞く機会もない、よって説明される機会もない、ということになりがちだと思う。そういう伏線が20年以上の時を超えて回収されることがある。こういうのが葬式のいいところだと思う。

お寺の住職の方が念仏を唱えたあと、ありがたいお話+最近の葬式シーンのお話をしてくれるコーナーがあって、これも過去に何度か聞いてるはずなんだけど、大人になってからのほうがスッと理解できるところがあると思う。娑婆はつらいことばかりだけど生きてる間はやっていくしかない、天命をまっとうして、死んだあとは仏教にお任せください、みたいな(だいぶ雑な要約)。あと、今回気づいたことがあって、このコーナー、次~次の次あたりに喪主しそうな人に向けて話してる感がある。仏教業界からのある種の営業活動なのだと思う(とくに最近の葬式シーンのくだりとか)。

葬儀ともなると、それなりの数の親戚・縁者が会場に集まるわけだけど、それぞれ何かしら故人と直接的あるいは間接的に縁があった人なわけで、人は人と関わって生きている(いた)のだなあと実感できるのもよい。この辺は、普段生きててあまり意識しないというか、とくにリモートワークみたいなことしてるからそう思うのかもしれないけど。また、孫(つまりお互いにいとこ)同士で10年以上ぶりに再会したりするし、10年、15年も経ってるとお互いかなり状況が変わっていておもしろい。

というわけで葬式は、故人のソーシャルネットワークごしに人と人とのつながりを実感できるオフラインソーシャルイベントなのだった。喪主は大変そうだけどいずれやることになるんだろうなー。

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