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松岡正剛Lispを語る

ハッカー文化をノンハッカーが語ることはできるか?

Pineapple Blog
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43 min readJul 4, 2017

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ポール・グレアム「ハッカーと画家」

松岡正剛「千夜千冊」ポール・グレアム「ハッカーと画家」が取り上げられている.ポール・グレアムと言えば,今では Y Combinator で最も有名だが,名著 On Lisp の著者として知られるスーパーLispハッカーでもある.

本書「ハッカーと画家」は独立したエッセイの寄せ集めなのだが,千夜千冊の記事では本書の中の日本語版にだけ追加されたエッセイ “Made in USA” と前半の章を中心に取り上げているようだ.この「ハッカーと画家」だが,全体的には On Lisp ほど専門的ではないにしても,やはりハッカーとしてのセンスがないと内容はなかなか伝わらない気がする.

知の巨人ではあるが,ハッカーとして知られているわけではない松岡正剛が,どのようにエッセイ「ハッカーと画家」を取り上げているのか,Lispハッカー目線で見てみようと思う.

ちなみに僕は本書を随分昔に読んだのだが,この記事を書くにあたって原著 “Hackers & Painters: Big Ideas from the Computer Age” を改めて全部読み直した.読み直してみると他にも興味深いエッセイが入っているのだが,エッセイの半数以上がサクッと無視されてしまっている.一夜で一冊読まないといけないので,効率重視なのだろう.

さて,千夜千冊の冒頭部分を読んでみよう.

アメリカン・スラングでは機転がきく奴のことを「ハッカー」(hacker)という。かれらは石橋を叩きもしないし、ときには叩き割って渡っていく。コンピュータプログラマーたちは、こういう過剰に優秀なプログラマーのことを互いにリスペクトして「ミスター・ハッカー」と称んできた。この場合のハッカーはITオールマイティな能力の持ち主をさす。

もっとも、既存のルールを破れる能力のことが「ハックすること」(ハッキング)なのだから、ハッカーはむろんプログラマーだけではない。コンピュータ技能のすぐれ者ならみんなハッカーだし、過剰にクリエイティブな者だってハッカーなのである。

相変わらず読者の関心をつかむ書き出しだ.「ハッカーと画家」には一言も書かれていない内容だが,ちょっとした知識の披露というところだろう.

かれらは「ギーク」(geek)と呼ばれることもある。ギークは「度外れた知識の持ち主」のことをいう。もともとはサーカスや見世物小屋でヘビや昆虫や鉄めいたものを食べる芸当を見せる芸人のことだった。ギークは何でも食べるのだ。

日本では、相手のシステムに入って勝手な悪さをする連中がハッカーだと思われているふしがあるようだが、そうではない。実際にはそういう不当な連中のことは「クラッカー」(cracker)と言う。

僕も本当にみんなが hacker と cracker を区別して使うことを望んでいる.そうすれば僕は説明抜きに自分のことを hacker と呼べるからだ.松岡正剛のような影響力のある人が hacker と cracker の区別を明言してくれることはありがたい.この話は『ハッカー宣言』(1065夜)にも出てくる.

クラッカーにもいろいろがある。アクセス制御の強引突破に凝る奴はアタッカー(attacker)で、そのなかでも「あらし」(ヴァンダリズム)をしたがる連中はヴァンダル(vandal)という。そのほかにも、電話回線のいじくりにやたらに溺れているフリーカー(phreaker)、不正複製に長けているスクリプトキディ(script kiddy)、ハッキングについて知ったかぶりをしたがるワナビー(wannabe)、ワナビーになったばかりの素人のニュービー(newbee)などもいる。そのうちの改造派や暗号派はわざわざ“Kracker”と綴ったりもする。

世にハッカー集団と言われている連中は、年々どこからともなくフキノトウや啓蟄のごとく出現し、いつのまにか逮捕されたり消滅したりしている。なかで攻撃好きなのはクラッカーでも、とくにサイバーテロと呼ばれる。

ちょっと古いうえにずれているが,そこはご愛敬だろう.しかし,本書に書かれていないことを延々と書けるのは才能だなあ.

最近の有名どころでは「アノニマス」がある。先だっては(2013・11)、日本の政府機関や22のウェブサイトにサイバーテロを仕掛けると宣言した。この集団はもともとは匿名掲示板「4chan」に書きこむためのデフォルトのことだったのだが、しだいに別目的の集団攻撃のための隠れ蓑になってきた。

こうしたクラッカー集団には、ジュリアン・アサンジの「ウィキリークス」のような“正義”を標榜する者たちも紛れていて、その境い目の是非を問うのが難しくなっている。ぼくにはアサンジの『自伝』(学研パブリッシング)がかなり興味深かったが、元「ウィキリークス」ナンバー2で、ペンタゴンやスイス銀行に侵入していたダニエル・ドムシャイトーベルクの『ウィキリークスの内幕』(文芸春秋)を覗くと、けっこう内情は激越で、火の車だったようだ。ダニエルはアサンジの「かっこよさ」は群を抜いていたけれど、まったくの礼儀知らずだったと書いていた。

ハッカー&クラッカー集団はそういうものだろう。実態はよくわからないが、ラルズセック、ハックカナダ、カオス・コンピュータ・クラブ、ウィキリークス、ロシアン・ビジネスネットワーク、アンノウンズ、中国紅客連盟、タイタンレインなどなど、ウェブ上にもしょっちゅう「ハッカー・ベストランキング」が提示されている。

さりげなく固有名詞を列挙するマウンティングポーズは人文系知識人によく見られるが,ハッカー文化ではバカにされる.もちろん千夜千冊はハッカー向けではないから良いのだろう.

他方、昔からハッカーとクラッカーの区別を超えた連中もいた。ヴァチカンに侵入したアップル創業者のスティーブ・ウォズニアックを筆頭に、『伽藍とバザール』で有名になったエリック・レイモンド(677夜)、コンピュータウイルス Mellisaの送信者のデイビッド・スミス、ノキア・富士通・モトローラに侵入したケヴィン・ミトニックらが、そういう連中だ。

ほかにたとえば、ガイ・スティール、ジョエル・スポルスキ、マーク・アンドリーセン、リード・ギャレット・ホフマン、ジョン・ドレーパー、ロバート・モリス、ヘンリー・ウォーレン・ジュニア、ジュリアン・アサンジ、マイケル・カルス(通称マフィアボーイ)、ロイド・ブランケンシップ(LODメンバー)、エイドリアン・ラモ(通称ホームレスハッカー)などなど、陸続といる。

このあたりになるとハッカーとクラッカーの区別がつきにくい。トップクラッカーたちはかなりの腕前がないとできないので、結局はハッカーなのである。ちなみにぼくが最初に出会ったハッカーは、いまはMITのメディアラボの所長をしている伊藤穣一君だった。

ガイ・スティールに対してハッカーとクラッカーの区別がつきにくいと言い,伊藤穰一をハッカーと呼ぶのは,おそらくは筆が滑ったのだろう.ギャグとしたら面白くないし.

さて,ここまでが知識の披露で,ここからが著者紹介だ.

この本の著者のポール・グレアムも世界有数のハッカーだった。Lispのプログラマーにして、Arc言語の設計者。コーネル大学では哲学博士を、ハーバード大学ではコンピュータ・サイエンスの修士号を修め、ロードアイランド・デザインスクールでは美術史に埋没した。

1995年に名うてのハッカーだったロバート・モリスと組んで、ベンチャー企業Viawebを立ち上げ、エンドユーザーがオンラインストアを自分でつくるウェブベースアプリのソフトが書けるようにした。1998年に、これがそのままYahooに買収されてYahooStoreになった。

ポールは最近は“Y Combinator”という会社を起業して、投資活動もしているらしい。1964年生まれだから、まだ50歳になっていない。詳しくは paulgraham.com などを見られるといい。

ただし、このハッカーはけっこうエッセイがうまい。思慮もある。本書も21世紀に入ってブログに書いたエッセイをまとめたものだ。

うん,ポールはエッセイうまいよね.On Lisp を読んだりArcの設計をみていたりすると非常に思慮深い人なんだけれど,エッセイだけ読むと「思慮深い」という印象にはならないと思うよ.むしろ読者の反応を見るためにわざと荒っぽい話をしているようなところがある.ああ,そこまで込みで「思慮もある」と言っているのかな.

そして,ここからが内容紹介だ.

本書では冒頭に、ハッカーは「アメリカ的なるもの」の中でも最も極端なアメリカ性が突出したものだという“自己分析”がされている。

ポールの見方によれば、そもそもアメリカ人は映画やソフトを作るのはめっぽう得意なのだが、緻密な機械や道具や自動車や生活都市を手掛けるのはからっきしヘタッピーな人種なのだ(ボーイング788【原文ママ】の多発事故を見れば、それはそうだろう)。

ここは Made in USA

Americans are good at some things and bad at others. We’re good at making movies and software, and bad at making cars and cities.

という部分だろう.エッセイ Made in USA は本書の英語版原著には収録されていないが,著者のブログで読める.非常に興味深いので是非ご一読を勧める.

なぜならアメリカ人は何かにとりくむとき、「仕事を終える」ということだけを考えてしまうからだ。アメリカ人が好むのはスピードなのだ。質は二の次。問題があればモデルチェンジをするか、文句がつけば訴訟で勝てばいい。だからアメリカ人が好きな哲学はばかばかしいほど単純で、ナイキのコマーシャルの「とにかく、やる」(Just do it)に尽きている。

これに対して日本人は「いいもの」を作ろうとする。だから日本人が使う道具や日本車は、日本刀のようにすばらしい(と、ポールは書く)。そう、日本のエンジニアは数寄者なのだ。

引き続き Made in USA から.

For centuries the Japanese have made finer things than we have in the West. When you look at swords they made in 1200, you just can’t believe the date on the label is right. Presumably their cars fit together more precisely than ours for the same reason their joinery always has. They’re obsessed with making things well.

ポールは日本刀に見られる職人芸から,日本車も同じ職人芸によっていいものになっていると主張している.もちろんポールによる論理の飛躍だ.が,さすがは松岡正剛で,ちゃんと「(と,ポールは書く)」とカッコ書きを入れて暗に「僕は同意しないけれどね」と読者にメッセージを送っている.この読書速度を維持しつつちゃんと地雷原を回避するところは天才と言っていいと僕は思う.

もう少しアメリカと日本を比較すると(ポールはしばしば日米比較をたのしむクセがあるのだが)、アメリカ人がデザインについて鈍感なのは、アメリカのデザインが広告とメッセージの一種になってしまっているからだ。つまりアメリカのデザインは説教くさいか、そうでなければ脳天気ポップなのだ。対して日本のデザインは職人性と結び付いていて、いわば工芸性を誇っているわけだ。

だから日米をくらべると、アメリカ人が創造性においてダントツになれる余地は少ないのだが、ところがどっこい、こうした片寄ったアメリカ性がコンピュータのソフトと合体すると、異様なほどの成果を生んできた。

ここは原文を読むとちょっと印象が変わる.Made in USA から該当すると思われる部分を引用する.

We don’t especially prize design or craftsmanship here. What we like is speed, and we’re willing to do something in an ugly way to get it done fast. In some fields, like software or movies, this is a net win.

But it’s not just that software and movies are malleable mediums. In those businesses, the designers (though they’re not generally called that) have more power. Software companies, at least successful ones, tend to be run by programmers. And in the film industry, though producers may second-guess directors, the director controls most of what appears on the screen. And so American software and movies, and Japanese cars, all have this in common: the people in charge care about design — the former because the designers are in charge, and the latter because the whole culture cares about design.

この部分を読めばポールの主張点は明白である.結局デザインの重要性に関しては日米の差はない.米国のソフトウェア産業と映画産業ではデザイナ(プログラマや映画監督)が権限を持っているからいいプロダクトができるのであり,日本の自動車産業はデザインにこだわる文化が浸透しているからいいプロダクトが出来るのだ(と,ポールは書く).

ここからはポール・グレアムのITソフト・アメリカの自慢になっていく。一方で巨人IBMが生まれはするけれど(この無駄なデカさを必ずつくってしまうのがまたアメリカのおバカな宿命なのだが)、必ずや他方で動的ではしっこいアップルが生まれるのだ。一方がバカムダで、他方がスマートでクール。これがアメリカで独特のハッカービジネスが正当に誕生した理由なのである。

もっとも日本は、このおバカな巨大企業に憧れているぶん、アップルやグーグルやアマゾンのようなベンチャーがつくれない。ソフトバンクのようにひたすら買収して大きくなろうとするばかりだ。

このくだりは Made in USA には書かれていない.ひょっとしたら

Apple is an interesting counterexample to the general American trend. If you want to buy a nice CD player, you’ll probably buy a Japanese one. But if you want to buy an MP3 player, you’ll probably buy an iPod. What happened? Why doesn’t Sony dominate MP3 players? Because Apple is in the consumer electronics business now, and unlike other American companies, they’re obsessed with good design. Or more precisely, their CEO is.

の部分を拡大解釈したのかもしれないし,本書の他の部分に書いてあったのかもしれない.(一通り読んで見当たらなかったのだが,僕が見落としたかもしれない.)

こう、ポールは自慢するのだが、ただし、アメリカンクールな独特ハッカーベンチャーの誕生は、同時にぐちゃぐちゃのオタク(nerd)たちも誕生させたことには、なんだか弁解がましい。詳しくは、パウンテン&ロビンズの『クール・ルールズ』(1516夜)を読まれたい。

宣伝を混ぜるタイミングも天才的だが,ポールの名調子をここで打ち切っては仏作って魂入れずではないだろうか.ポールは米国の just-do-it 文化と日本の「注意深く作る」文化とを比較し「どちらかを選べと言われたら just-do-it をとろう.しかし本当にどちらかを選ばなくちゃいけないのかい?両方すればいいし,Appleを見ていれば,アメリカ人は両方出来ることもわかるよね」と言う.次のように.

If I had to choose between the just-do-it model and the careful model, I’d probably choose just-do-it. But do we have to choose? Could we have it both ways? Could Americans have nice places to live without undermining the impatient, individualistic spirit that makes us good at software? Could other countries introduce more individualism into their technology companies and research labs without having it metastasize as strip malls? I’m optimistic. It’s harder to say about other countries, but in the US, at least, I think we can have both.

Apple is an encouraging example. They’ve managed to preserve enough of the impatient, hackerly spirit you need to write software. And yet when you pick up a new Apple laptop, well, it doesn’t seem American. It’s too perfect. It seems as if it must have been made by a Swedish or a Japanese company.

そして,エッセイ Made in USA ではこうトドメをさす.

In many technologies, version 2 has higher resolution. Why not in design generally? I think we’ll gradually see national characters superseded by occupational characters: hackers in Japan will be allowed to behave with a willfulness that would now seem unJapanese, and products in America will be designed with an insistence on taste that would now seem unAmerican. Perhaps the most successful countries, in the future, will be those most willing to ignore what are now considered national characters, and do each kind of work in the way that works best. Race you.

ポールがすごくいいことを言っているのに,そこは無視するの?

ちなみに本書に含まれる Taste for Makers というエッセイも興味深いのだが,本記事ではスルーされている.あ,これは僕のために取っておいてくれたのね.ありがたや.

さて,ここからは英語版にもあるエッセイ Why Nerds Are Unpopular からの引用がメインになる.本エッセイの翻訳はネットで読める.

ところで、ポールはなぜかオタク(ナーズ)については辛辣だ。きっと自身の中のオタク性とどこかできっぱり決別したからではないかと思う。

こう、批判する。オタクはアメリカの全貌に埋没しすぎている。実質的な突出力がない。だから会社の中で変な服を着ていたり、無礼な発言をしてふてくさっている程度の抵抗しかできない。オタクが人気者になれないのも女の子にもてないのも、世の中がつくったヴァージョンの塗装性ばかりに詳しくなろうとして、その「次のもの」を作ろうとはしないからだ。オタクは「努力」と「注意」ということを軽視しすぎた。「原点になるもの」を学習しようとしない。

ナーズは子供時代に辛酸を嘗めるものだという話が Why Nerds Are Unpopular に延々と書かれている.もちろんこのナーズにはポール自身も含まれている.ナーズは埋没しすぎている.突出力も足りないのだろう.だがポールが,ナーズは「『次のもの』をつくろうとしない」と批判しているだろうか.ナーズが「『原点になるもの』を学習しようとしない」と批判しているだろうか.僕にはそう読めない.

おいおい、そんなにまともにオタクをやっつけてどうするのかと思うのだが、ポールはオタクたちが自分たちがどんな環境にいるかということに関心をもとうとしないのが気にいらないらしい。だから、オタクたちには「まず、まわりをよく見ろ」と言ってやりたいと書いている。君たちはまだ「はりぼての世界」ばかりに夢中になっていると言ってやりたいそうだ。

なんか話がずれてきた.ポールは10代のナーズたちに「居心地が悪いからと言って悲観するな,自分たちで改善しようよ,元ナーズは君たちの味方だ」と言っている.「君たちはまだ『はりぼての世界』ばかりに夢中になっていると言ってやりたい」とは言っていない.

なんでこんなずれが生じてしまったのだろう.オタクとはこんなものと決めつけて書いているわけじゃ,ないよね?

あとで出てくる「日本のオタク」とポールの言うナーズを混同してるのかな?

では、ハッカーとオタクはいったいどこが違うのかというと、オタクは『蝿の王』(410夜)の中にすっぽり入ってしまうのだが、ハッカーは『蝿の王』を書く側にまわるのだそうだ。

なるほど、この文脈なら、この言い草はわかる。けれども、このあたりは日本にはあてはまらないかもしれない。日本ではオタクもまた工芸的であるからだ。

ともかくもハッカーはそういうオタク的なるものではない(らしい)。一部はオタクと重なるところがあるだろうに(かなり重なっているはずだ)、そこから早々に脱出した者がハッカーなのである。

この部分は松岡正剛が何を言いたかったのか正確に読み取れなかったのだが,

  • ナーズ=小さなコミュニティに閉じこもっている
  • 日本のオタク=緩やかに開かれたコミュニティを形成している
  • ハッカー=開かれたコミュニティを形成している

という図式を言いたかったのだろうか.ナーズと日本のオタクを分けて考え,日本のオタクへの批判的眼差しをナーズに投げかけていたのだとしたら,前段の話のずれがなぜ起こったのかはわかる.

そういうハッカーは何をしたのか。アメリカン・ハッカーは自分たちの仕事を「コンシューマー・エレクトロニクス」のビジネスに集中させた。今日の世界の情報産業構造を変えたのはこのビジネス力なのだ、とポールは誇る。

ソフトウェアの世界では革新、つまりはイノベーションがなによりも重要で、しかも革新と異端は実質的には同意語なのである。そういう異質を革新にするため、ハッキング・テクノロジーとコンシューマー・エレクトロニクスが重なって、そこに独特のビジネスを作り出せた。アフィリエイトの発見しかり、ロングテールの発見しかり、ビッグデータ・サイエンスしかり、ネットオークションしかり。これらは「アメリカ的なるものの半分」の巧みな爆発だったというのだ。

エッセイ What You Can’t Say から「異端」という単語を引っ張ってきているのだが,そのエッセイの中身は後回しだ.ここらへんは松岡正剛の専門だと思うのだが,専門ゆえに中途半端に触れるぐらいなら無視するということかもしれない.

ま、ここまで言われるとそうだろうなと思うしかないし、日本のベンチャーたちがシリコンバレーにはかなわないと思うのも、こうした事情にもとづいていたのだろうとも思われる。

そうだとすると日本は二重に過ちを冒していたということになる。ひとつはシリコンバレーやアメリカのITを正真正銘の全部のアメリカだと思いすぎていたこと、もうひとつは日本にはアメリカ人も羨む工芸性があったのに、それにもとづいたハッカーが登場していないか、それをビジネスにいかしてこなかったということだ。

日本が犯した(かもしれない)二重の過ちとは,

  1. シリコンバレーやアメリカのITを正真正銘の全部のアメリカだと思いすぎていた
  2. 日本にはアメリカ人も羨む工芸製があったのに,それにもとづいたハッカーが登場していないか,それをビジネスにしてこなかった

のことだ.どちらも真であろう.過ち1と過ち2のつながりが読めないが,ありもしない「すごいアメリカ」を勝手に妄想し,自分たちの強みを忘れ,「すごいアメリカ」を追いかけようとしたことが「二重の過ち」ということになるのだろう.

ここらへんで次のエッセイ Hackers and Painters に話が進む.邦訳はこちらで無料で読める.

さて、本書の『ハッカーと画家』というタイトルは、ポール・グレアムがコンピュータ・サイエンスの大学院に行ったあと、絵画を学ぶために美術学校に通ったことにもとづいている。そこでポールはハッキングとペインティングにはたくさんの共通点があることに気がついたらしい。

ここは、よくわかる。アメリカン・ハッカーが納得いくソフトをつくれるのは「測定できない価値」に挑むからであるが、たしかに画家も同様のことをやっている。画家はスケッチから始めるが、仕上げは「測定できない価値」に達したかどうかなのである。しかもアクション・ペインティングなどの横着な乱暴を除けば、画家もハッカーも「徐々に詳細に向かっていく」というプロセスに夢中になれる。

ソフト屋は最初から完成品などめざしはしない。開発プロセスのなかの、どこで、いつ最適化がおこるのか、そこに最大の注意を凝らしつつ、つくりあげていく。

あれ?

エッセイ Hackers and Painters のコアとなるメッセージが無視されている.「美に対する熱狂的な没頭」はどこへ行ったんだろう.繰り返すが邦訳はこちらで無料で読めるので,是非読んでみてもらいたい.

そのほか、幾つものことが共通する。すぐれた画家もハッカーも若いうちにすぐれた絵やソースコードを真似ようとしていたということだ。

ポールがプログラミングを学んだ頃は、まだまだソースコードがオープンになっていなかったので、専門誌や書物に掲載されたサンプルに頼るか、Unixのソースコードに寄り添うしかなかったらしいのだが、それでもそこに徹底したという。

大人げない突っ込みをひとつ.「ソースコードがオープンになっていない」ならなぜUnixのソースコードが読めたのか.原文は

When I learned to program, we had to rely mostly on examles in books. The one big chunk of code available then was Unix, but even this was not open source.

なので,ソースコードはオープンにはなっていたがオープンソースにはなっていなかったのだ.ここを読み違えたから自信がなくて「Unixのソースコードに寄り添う」とぼかしたのか.しかし「オープン」とは「オープンソース」の意味だと強弁すれば意味は通る.このあたりのセンスは松岡正剛ならではで,本当に天才だと思う.マジリスペクトである.

いや、画家だけではない。すぐれたプロはどんな職能であれ、たいていソースコードや出来のいい先行作品を矯めつ眇めつするものだ。ベンジャミン・フランクリンはアディスンとスティールのエッセイを克明に追い、レイモンド・チャンドラー(26夜)は片っ端から探偵小説を模倣した。

どんなときもアナロジカルになれること、そして集中しながらメタファーで思考を表現できることも、共通する。そのことをするのがとても気持ちいいということも、共通する。

話が一般化していくが,真っ当な話だと思う.その後自分語りが始まる.

ちなみに以上のことは、ことごとく「エディティング」(編集)にもあてはまる。エディティングも本来のギークであって、柔らかいハッキング・テクノロジーの使い手なのである。もっと言うならエディティングは相互交通性を前提にしたリバース・エンジニアリングそのものだ。

だからエディターになるには新聞社や版元に入ってもいいけれど、それだけではなく、新聞・雑誌・書籍・映画・テレビ・ラジオ・写真・漫画・アニメ・博物館・広告・店舗といったメディアをよく観察することだ。それらにかかわる職能を選んでもいいだろう。どれもがリーバス・エンジニアリングなエディターシップを発揮できる場になっている。

念のために言っておくと、こうした編集のプロになるにはオタクからでも始められる。オタクも立派なスターターだ。なぜなら編集力は必ずや「言葉の組み合わせ」からABCが始まっていくのだが、そのソースコードはすでにありとあらゆる古今東西の「書物」の中に事例(ソースコード)をもっているので、どんなオタクでも書物やテレビや漫画になじめる力があるのなら(コンピュータになじめるように)、編集のプロになれる条件が備わっているはずなのだ。けれどもむろんのこと、エディターにも「努力」と「注意力」は必要だ。

さすがご自身の専門領域だけあって,言葉に重みがある.このパートがなければ「ハッカーと画家」の書評は非常に軽いものになってしまったかもしれない.自分語りを挟むことで文章に重みを出すという,そこらのオヤジの文章とは逆なのが素晴らしい.

このようにハッカーの“道”を説くポールが、なかで最も重視している素養は何かというに、それが意外にも「共感力」(共感能力)なのである。

共感力のくだりもエッセイ Hackers and Painters に出てくる.むしろこの千夜千冊のほうがわかりやすい.

共感能力には二つある。(A)自分が他人という存在や他人が作ったものに共感できる能力と、(B)自分がしているコトやモノを他人に共感してもらえる能力だ。後者の(B)の他人にはユーザーやコンシューマーも含まれる。

前者の(A)の共感能力は、子供の頃に絵本や人形に興味がもてたのなら、誰にも身についている。昆虫や機関車やフリフリブラウスに興味をもてるなら、その感心できる能力が共感力の基本になっている。そこには感受性の発露とともに、羨ましさや畏怖があった。

ただ注意しなくてはならないのは、その感心力が長ずるにしたがって孤立していくことだ。とくに他人や作品や製品に一応は感応しているのに、だんだん畏怖や敬意がもてなくなっていく。つまり他者に対する共感力を失っていく。そのうち自分だけ感じていればいい、自分だけがその価値がわかっていればいいというふうに、鼻持ちならない自負心や自慢に落ち込んでいく。これはハッキングでもエディティングでもない。

エディティングがいきなり出てくるので,千夜千冊だけ読んでいると,この部分だけセイゴオ節だと思うかもしれないが,このブロックの半分ぐらいは松岡正剛による解釈と解説である.

ポールはそうならないようにするため、自分が感心したコトやモノを他人に説明できるように努力したらしい。一番役に立ったのは1984年のオリジナル・マッキントッシュが発売されたとき、そのすばらしさを誰彼なくつねに他人に説明できるようにしたことだったらしい。

このパラグラフは筆が滑ったのだろうが,本筋とは関係ないので見なかったことにする.ただし,このパラグラフを境に,ポールの発言から松岡正剛の発言へとクロスフェードしていく.

それでも、ついつい自分の好みの増上慢が出るようなら、これを打ち消せるのが後者(B)の共感能力なのである。他人が自分や自分がつくったものに興味をもってくれることに、自分が共感できるようにする能力だ。

自分がしているコトやモノに他人が共感してくれるというだけなら、小さな頃から「敬子ちゃん、かわいいわねえ」「良雄はほんとに絵がうまいな」「ほう、強い手を指すねえ」などと褒められたあの体験があるので、それでいいかと思ってしまうにちがいない。

が、それでは不十分なのだ。そんな最初のうちの褒め言葉を蹴りなさい。むしろ、その後の10代後半の成長や20代の飛躍にともなったコトやモノに、周囲からの共感がやってこなければならない。それがまにあっていないなら、30代、40代でもかまわない。ここで世の中の評価を得たいなら、本気の共感力を発揮すべきなのである。そうでなければオタクにおわる。自己中心主義は共感を半減させるのだ。

ここまでくると原著の拡大解釈を通り越して,原著の言葉を借りて自分のメッセージを伝えていることになる.

とはいえ、自分の成果に他人が関心をもってくれないなんてことは、ザラにある。おそらくほとんどのクリエイターやアーティストがその辛酸をなめているだろう。その理由の多くは表現力とインターフェース力が乏しいことにあるのだろうけれど、もうひとつ、理由がある。

それは諸君がやっていることを、他人の誰かが「口にできないことをやってくれた」と思ってくれなかったからなのだ。これは諸君がこれまで他人を本気で褒めてこなかった報いなのだが、ポールはそういうときは、いったんタブーに挑戦してみるといいと勧める。そうすれば(B)の共感能力が再稼働する。

自分語りをしすぎたと反省したのか,無理な論理の飛躍を行なって,原著のエッセイ What You Can’t Say (和訳)の内容に強引に結びつけようとしている.結びついていないけど.

ぼくも似たようなことを勧めたい。自分でタブーにしてしまったり、リスクだと決め込んできたことをあえて覗いてみることだ。純文学をタブーにしてきたのなら純文学を覗き、ロックが食わず嫌いだったのならロックコンサートに行って、革ジャンを避けていたのならレザーパンツを穿いて、茶会や三味線を封印していたのならそういう場に足を運ぶことである。

あれれ?社会的・文化的タブーと個人的な食わず嫌いを混同してる?わざとだろうか.

ポールが書いているように、共感能力を失っているということは、知性の最もナイーブなものを身につけていないということなのだ。

では、これでいっぱしのハッカーやエディターになれるかというと、そんなことはない。とくに会社などのがっちりした組織にいると、これだけでは足りない。そこでポールは、自分の生産性が測れる地位に早く就きなさいと言う。

ハッカーとエディターを同列に書くのはこれで二度目である.何か裏のメッセージがあるのだろうかとふと思うが,読み進めることにする.

これは出世しなさいということでは、ない。諸君の能力が発現できるポジショニングを自分で発見しなさいということだ。

大企業は100人の漕ぎ手がいるガレー船のようなものだ。こんな人事体制のなかではハッカー気質の人間はろくな成果を発揮できない。潰されるか、はじかれるか、いいように利用されるか、どちらかだ。そこであえて「そこそこ小さなグループ」にいるようにする。そして、その小さめのグループにポジショニングを得たら、すぐさま思い切った創造力と共感力を発揮することだ。ここで半年や一年をたらたら、ずるずる、ぶつぶつしていたのでは、おジャンだ。技能をレバレッジ(梃子)にして一気に才能を発揮しなければいけない。

ポールはもう二つ、重要なことを加えた。ひとつは、自分の技能発揮をユーザーの目線と連動させていくこと、もうひとつは自分の周囲の評価をそのまま市場やメディアに達する評価にしようと思いこむことだ。この二つが、ハッカー気質とハッカー才能が人々に想像力を喚起しているものになっていく原理になるはずなのである。

ここら辺は御説御もっともということでいいのだろう.とにかく,この先からやっとプログラミングの話である.

というわけで,本記事もここからが本文で,これまでの突っ込みは前置きである.

本書は後半からプログラミング言語の本質を通して、ハッカーの独壇場とはどういうものかの解説に入っていく。だいぶん専門的な話になるので、今夜はごくかんたんに紹介しておくだけになるが、ここで主役になるのはLispというプログラミング言語のことなのである。

まるで読者がプログラミング言語を知らないから仕方なく簡単な話にするような口ぶりだが,本物のハッカーは読者がプログラミング言語を知らなくてもこのような言い回しはしないものだ.

前置き段階でさりげなくエディターとハッカーは同じという印象を植え付けるかのような記述が見られたが,この一文から松岡正剛がハッカーではないことがわかる.

コンピュータが発明されてしばらくのあいだ、すべてのプログラムは機械語の命令列で書かれていた。それがアセンブリ言語(機械語をプログラマーにわかりやすくしたもの)になり、そのアセンブリ言語をコンパイラがハードウェアのわかる言語に自動的に変換するようになった。コンパイラを使わないときは、インタプリタがプログラムを一行ずつ調べて対応するようになった。

コンパイラに与える高級言語で書かれたプログラムがソースコードである。それを変換してできた機械語はオブジェクトコードという。世の中で売っているソフトからはオブジェクトコードしか手に入らない。もっとも入手したオブジェクトコードは、企業秘密のためにたいていは暗号化されているので、容易には読み解けない。

そこに登場してきたのがオープンソースのソフトウェアだった。こちらはソースコードも手に入るし、変更することもできる。バグを見つけることもできる。おかげでLinuxやFreeBSDのOSは、世界中のユーザーがデバッキングをしてくれた。

え?

松岡正剛が?

知の巨人が?

こんな突っ込みどころ満載なことを書くのだろうか.

ハッカーならずとも情報系の学部生なら全ての突っ込みどころに適切な突っ込みを入れられるだろう.

ぱっと数えただけでも,こんな短い文章に8箇所も突っ込みどころがある.

あとデバッキングではなくデバッギングな.

いや,つい揚げ足を取ってしまった.大人気なかったと反省する.

高級言語(プログラミング言語)にはいろいろのものがある。Fortran、Basic、Lisp、C、Cobol、Pascal、Smalltalk、C++、Java、Perl、Python‥‥。まだまだあと100種類くらいある。

突っ込むと上げ足取りになるので自粛する.

これらの言語の特徴は大きくは、プログラマーの愚かな行為を防ぐような言語と、プログラマーがやりたいことを何でもできるようにする言語とに分かれる。Javaは前者に属し、ラリー・ウォールが開発したPerlは後者に属する。

Perlは前者だろう.後者の典型例を挙げるとすれば C/C++/Objective-C だし,本書の主題であるLispもそうだ.なぜ無視したのだろう.

この違いは「型」(type system)の使い方に関係する。前者はかなり静的な型付け(typing)をし、後者は型付けを動的にする。アメリカ国防省がJavaに肩入れするのは当然だ。

かなり静的ってものはない.静的か,動的かだ.あとなんで国防省がJava?

プログラミング言語においては、値や式はデータ型で分類してしまう。型を割り当てることで、ビットの集まりに初めて使い勝手をもたらすことができるからだ。そのデータ型は言語によって異なっていて、コンパイラでは値のメモリ効率や値に対する操作アルゴリズムの選定をいちいち最適化するために、ついつい静的な型付けになっていく。

日本語としては成立しているが,内容は無茶苦茶.

これに対して動的な型付けでは、型はソース上の表現ではなく、実行時の値に付与される。コードを実際に実行してみるまで型の違いが見えないため、デバッグがやや難しくなるのだが、そのぶんプログラマーの思考が自在に飛んでいく。Lisp、Python、Rubyなどがそうなっている。

動的型付けによって静的型付けよりも発見し難くなるエラーは型の不一致だけで,これをもって「デバッグがやや難しくなる」というのは言い過ぎだろう.

これらのなかで、ポール・グレアムは断然にLispが好きだと言う。抽象力が高くて、ハッカーを鍛える言語だとも言っている。

Lispはジョン・マッカーシーが1958年に着想した言語で、古くさいといえばこれほど古い言語はないのだが、①動的な型付けができる、②前置記法になっている、③コード自身をファーストオブジェクトの第一級性として扱える、が特徴になっている。これらが抽象力を保っているのだろう。

Lispが究極の言語である理由は,プログラムを生成するプログラムすなわちマクロを書ける点にある.これをLispハッカーはLispの抽象性と呼ぶ.抽象性は(抽象力でもいいが)Lispハッカー以外には再利用性程度の意味しか持たない.

というわけで(1)と(2)はどうでもよく,(3)が本質と言える.ただし「ファーストオブジェクト」ではなく「ファーストクラスオブジェクト」と言わないと全く意味が通らない.

ぼくが思うに、プログラミングで重要なことは、一方では誰もができるようになっている言語が用途別にできあがっていることだろうが、他方ではそのプログラムのどこに手を入れればしだいに高次に見えてくるプログラムになりうるかということなのだ。

えー.

意味不明だ.

内容どうこう以前に,日本語として読めない.

これ,松岡正剛の文章だよね?

「そのプログラムのどこに手を入れればしだいに高次に見えてくるプログラムになりうるか」てどう解釈したらいいの?プログラムを抽象化しやすいことって言いたいの?

プログラミングで重要なことって,次の二点のいずれかだと言いたいのかな?

(a) 誰もが使える(学習が容易な)言語が複数あって,それぞれ得意な用途がある

(b) 既存のソースコードのどこに手を入れたら,そのソースコードが高度に抽象化されたものになるか見えやすい

何を言いたいのかわからないのだが,典型的な「わかっていない人がわかっている風に言おうとして失敗している例」になっているのが残念だ.

というのもハッキングもエディティングにおいても、最も重要なことは、当該メッセージや当該オーダーや当該コンテキストが、どんなフィルタリングによってそうなっているかが“わかる”ことなのだ。この“わかる”があれば、どんな“かわる”も可能になっていく。

エディティングは松岡正剛の専門だから,メッセージやオーダー(命令のこと?)やコンテクスト,すなわちシグナルからから未知のシグナルフィルタを推定することがエディティングにおいて最も重要だという主張は信頼して良いだろう.ハッカーの言葉で言えば,手元に届いた信号をyとすると,そこには必ず元信号xとフィルタFがあり

y = Fx

の関係になっている.観測できるのはyだけだが,エディティングとは未知のFを推定することだ(ひいては未知の信号xを見つけることだ)ということだろう.念のために書いておくとFxは「Fかけるx」ではなく「Fによるxの写像(projection)」だ.

元信号xはそのままでフィルタFが変化するとき,すなわちyの他に

y' = F'x

のようなy'が手に入った時,このyy'からxを推定する行為こそが抽象化だと主張するならば,僕は否定しない.

そして,エディティングに関する記述は信用しよう.

だがハッキングにおいてもそうだと言い切るのはどうなのか.

優秀なハッカーはプログラムの抽象度を上げることを好む.ただしLispハッカーはマクロによって抽象度を上げようとするが,Haskellハッカーのように数学的抽象によって抽象度を上げようとするハッカーもいる.

前者の場合,単なる写像という概念で抽象化を捉えることはできないだろう.なにせマクロはプログラムを生成するプログラムなので,マクロ自身がチューリング完全だ.この場合,もはや信号とフィルタの区別は無意味だ.数学的な比喩を探すとすれば,圏と関手の関係に近いだろう.

後者の場合,圏と関手の関係を比喩ではなく実装している.

なおC++やJavaのクラステンプレートは概念的にはLispマクロの劣化コピーである.

おそらくLispは、そういう編集力が次々に突き刺さってくるような言語になっているのだろうと思われる。

Lispの特徴を一言で言おうとしているが「編集力」「次々に突き刺さる」というマジックワード(読者が自由に解釈できる言葉)で核心を避けている.

繰り返すがLispの特徴はマクロすなわちプログラムを生成するプログラムである.せっかくプログラムそのものがファーストクラスオブジェクトであることに言及していながらこの点を持ち出さないのは,Lispの核心を理解していないのであろう.

本書は最後に、次のように言う。ハッカーはポリティカル・コレクト(政治的な正しさ)にもソーシャル・ルールにも囚われていない。そのかわり新たなハッキング・テクノロジーによって新たなルールを必ず生んでいく。すばらしいハッカーはユーザーに「秘密の握手」の感覚をもたらすことを確信している。どんなハッカーも中途半端な仕事はしない。これらのことが、まるでモーセの十戒のように示されるのだ。

ぜんぜん本書の最後じゃない点を除けば的確なまとめだ.

いくぶん薔薇色すぎるところがあったが、ぼくはときどきこの手の本を読んで、世の中の「うさ」というものがどのように晴らされるのか、それはどんなエンジニアリングによっているのか、ちらちら眺めている。

松岡正剛という巨人に我々ハッカーの文化をちらちらと眺めてもらえたことは,僕自身は光栄に思う.

ただし,この千夜千冊の記事を読む限り,松岡正剛がハッカー文化を理解してこの文章を書いたとは思えなかった.

さらには小さいが決定的な間違いを随所でおかしており,それを読者が見逃してくれることを願うような態度は,本物のハッカーがいつも心がける誠実な態度からは程遠いように思えた.

ロジャー・ペンローズ「皇帝の新しい心」

僕は,松岡正剛が「自分が理解していないことを理解している風に書く」ことがあるのではないかと疑っている.それは本記事だけに見られる特徴ではない.例えば『皇帝の新しい心』(4夜)にはこんな記載がある.

これはここでぼくがかんたんに説明できる筋合いのものではなく、それこそホーキングとペンローズが死力を尽くして到達した仮説なので、ここはスキップすることにするが、それでペンローズが次にどうしたかというと、ここからが本書をつまらなくさせていく。

「ここでぼくがかんたんに説明できる筋合いのものではなく」と言って内容の紹介をスキップしてしまうが,この言い方では読者の理解力が足りないだろうと言いたげである.

他に『ゲーデル再考』(1058夜)では

それでもとりあえずは、ゲーデルが何をしたか、ざっとその手続きを以下に集約しておくが、これを読んだところでさっぱり見当がつかないだろうとおもう。まあ、試みておく。

「まあ,試みておく」である.その試みは是非リンク先で読んでいただきたいが,本当にただの試みである.

そもそも松岡正剛がコンピュータアルゴリズムについて理解しているかどうかさえ怪しい.『史上最大の発明:アルゴリズム』(1269夜)ではこんなことを書いている.

いまではすっかりジョーシキになったろうが、アルゴリズムの一番かんたんな定義は、「有限のステップによって有効な目的を完了させるまでのすべての手続き」ということである。

(中略)

しかしこれを機械言語というものに、すべて移行させることもできたわけだった。これがいわゆるプログラミング言語というものだ。いまはC言語という機械言語をつかっていることが多い。

機械語ではなく機械言語と書くところが地雷を避ける天才なのだが,いくらなんでもこんな理解でコンピュータアルゴリズムを語ると言うのはどうだろうか.

レヴィ=ストロース:「悲しき熱帯」

松岡正剛が千夜千冊で「ハッカーと画家」に対して行ったことは,彼自身が『悲しき熱帯』(317夜)で述べている「ブリコラージュ」に他ならないだろう.同記事から引用する.

レヴィ=ストロースが神話世界を通して発見した方法は「ブリコラージュ」といわれている。

ブリコラージュはもともとは「修繕」とか「寄せ集め」とか「細工もの」といった意味であるが、フランスではそのブリコラージュをする職人のことをブリコルールといって、あらかじめ全体の設計図がないのに(あるいは仮にあったとしても)、その計画が変容していったとき、きっと何かの役に立つとおもって集めておいた断片を、その計画の変容のときどきの目的に応じて組みこんでいける職人のことをさしている。

そのためブリコラージュにおいては、貯めていた断片だけをその場に並べてみても、相互に異様な異質性を発揮する。ところが、ところがだ、それが「構造」ができあがっていくうちに、しだいに嵌め絵のように収まっていく。本来、神話というものはそういうものではないか、構造が生まれるとはそういうことではないか、そこにはブリコラージュという方法が生きているのではないかと、レヴィ=ストロースは見たわけである。

これはぼくの言葉でいえば「編集」だ。編集というのも、だいたいこんなことをしている。

つねに「全体」と「部分」の関係を有機的に動かしていて、どこかで決着をつけていく。その決着のときに、あとから入ってきた部分がするする育って「超部分」となり、それが「全体」の様相をがらりと変えてしまうこともある。

レヴィ=ストロースはこのブリコラージュという方法に、もうひとつ新たなしくみがあることを発見する。それは、雑多に集めておいた材料や道具の「断片」や「部分」たちが、一応は想定していた「全体」とのあいだであれこれ”対話”を交わすのではないかと見たことだ。その対話では、その民族や部族に特有な理性的なものと感性的なものは切り離されずに、「断片と全体が対話した内容」のすべてが検討される。

そこを『野生の思考』では、「構造体をつくるのに他の構造体を用いない」と説明をした。

これが彼が「ハッカーと画家」にしたことのすべてではないだろうか.

僕は松岡正剛がハッカー文化を語ってくれることを非常に期待したのだが,千夜千冊のこの記事はハッカー文化の本質を理解することなく,歪曲し,脚色して語っている.彼は wannabie なのだ.

我々ハッカーは,ポール・グレアムがそうしているように,我々自身で声を上げねばならない.

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