科学は宗教の一種ですか?
日本の科学者たちが訴え続けなければならないこと
科学が国民全体になかなか受け入れられないのは,洋の東西を問わないらしい.ひとつには科学で使われる言葉,とりわけ数学を身につけるにはそれなりの時間 — とひょっとしたら少しの適性 — が必要なことがあるだろう.さらには,科学が従来の宗教と対立するのではないかという恐れもあるようだ.
英語版Quoraに
Is science just another religion?
(科学は宗教の一種ですか?)という質問がある.既に100以上の回答が集まっており,まとめも作成されている.
そのまとめから冒頭部分を引用する.
Science properly understood is a set of methods and a style of reasoning meant to explore and describe the processes of the material world, and thus is explicitly not a religion.
(拙訳)科学とは — それが正しく理解されたなら — 実世界を探査し記述する「手段」と「理由付けのスタイル」の組み合わせのことです.したがって宗教ではありません.
僕もこのまとめに100パーセントの同意をする.
とりわけ一神教が支配的な地域では多数の宗教が混在するということに想像が及びにくいかもしれない.それ故,もし科学が宗教だったなら,科学と宗教は対立するものになってしまうという悩みがあるのかもしれない.
ご存知の通り日本では主に神道,仏教,キリスト教が混在している.だから万が一科学が宗教であってもそれなりに共存していけるのかもしれない.個人的な見解を言えば,日本の仏教は科学的探求の精神と理由付けのスタイルを失っていないと思うので,科学的なものの見方と宗教的なものの見方が日本では対立しにくいのかもしれない.
ただし個人的観測の範囲では「科学を志すと情緒的な感性を失う」「科学的な物言いは冷たい」「科学的な正論を言われると(個人攻撃をされているようで)傷つく」と主張する人々が無視できない数いる.一言で言えば科学とは「非情緒的」ということであり,非情緒的であることは「人間の生き方として好ましくない」という意見なのだろう.
心理学者C.G.ユングは人の心理機能として思考,感情,感覚,直感の4機能を掲げた.そして,思考と感情,感覚と直感は互いに対立する機能であるとした.科学に必要な「理由付けのスタイル」が主に思考機能に頼っていることが,この「科学=非情緒的」認識の根源かもしれない.
科学者が,我が国で国民に科学的思考を受け入れてほしいと望むなら,科学的説明を繰り返すだけでは不足で,より感情に訴えかけるアプローチを取り入れるべきなのだろう.科学者が「私達はあなたのそばにいますよ」と言わなければならないのだろう.
それが,僕がQuoraやブログに書く理由でもある.