史上最も落ちぶれた人?

画家と冒険家と科学者の物語

Ichi Kanaya
Pineapple Blog
May 9, 2020

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ゴーギャン「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」

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Quoraに次のような質問が投げかけられた.

史上最も落ちぶれた方はどなたでしょうか?

僕の回答をもとに,もう少しばかり筆を進めてみたい.

人類への類まれなる貢献に比して,それにふさわしくない晩年を送った人を「落ちぶれた」と呼ぶとすると,僕には3人の人物,すなわち画家と,冒険家と,科学者が思い浮かぶ.

Paul Gauguin

一人目はポール・ゴーギャン.彼は株式仲介人(ブローカー)として,また半ば趣味であった絵画取引で経済的に成功した.本業は当時のフランス人の平均年収の5倍,趣味の方も同額ほど稼いでいたと言うから大成功だろう.しかし画家を本業にするようになってから生活が傾き始める.ゴーギャンはルノワール,セザンヌ,マネらの才能をいち早く見抜くなど確かな審美眼を持っていたが,彼自身の作品は同時代の人々からの評価が高かったとは言えず,売れなくとも絵を描き続けた彼は家族からも見放された.そして最後は南太平洋のヒバ・オア島で命を落とす.病による痛みを止めるためのアヘンチンキの過剰摂取が原因とも言われている.

ゴーギャンは若い頃,水先人見習いとして,またフランス海軍の軍人として世界を航海したようである.結婚後もフランスの海外県であるマルティニーク島で絵を描いている.ただどういうわけか,どこかでまだ見ぬ南太平洋の島,フランスの植民地でもあったタヒチに強烈な想いを持ったようである.

タヒチの位置

1891年にゴーギャンは念願のタヒチ上陸を叶える.その2年後一旦フランスへ戻るが画家として受け入れられたとは言えず,1895年に再びタヒチに帰る.そしてゴーギャンは後に傑作として評価される「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」を描く.この絵は最愛の娘を亡くした失意のどん底で描かれており,作品の完成後ゴーギャンは自殺を試みている.一命を取り止め絵を再開した彼は,タヒチから1,500km離れた最後の島へと旅立つ.

「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」は現在ボストン美術館に所蔵され,高く評価されている.

なお西洋人としてタヒチ島を初めて訪れたのはイギリス人サミュエル・ウォリスで,マゼラン海峡を超える世界一周の途中でタヒチ島に立ち寄っている.1767年のことである.

Ferdinand Magellan

二人目はフェルディナンド・マゼラン(フェルナンド・デ・マガリャネス).史上初の世界周航を達成した艦隊の隊長だが,途中のセブ島で現地の小競り合いに首を突っ込み命を落とす.マゼランは何度か部下に見捨てられており,このときもまた大半の部下が先に逃げてしまったため戦死したものと考えられる.余計なことをしたマゼランが悪いのだが,その名声にふさわしい死に方であったとは言えないだろう.

マゼラン艦隊が1520年に見つけた大西洋と太平洋をつなぐ海峡は,現在までマゼラン海峡(マガリャネス海峡)と呼ばれている.1914年にパナマ運河が開通するまでは,マゼラン海峡は大西洋と太平洋を行き来するための事実上唯一の通路だった.

僕はなぜマゼランがあと少しの南回りをしなかったのか,興味を持って伝記を読んでみたことがある.地図の上では,マゼラン海峡は南アメリカ大陸のほとんど先端で,実際あと150海里ほど遠回りをすればより広いドレイク海峡を回れたはずなのである.だがこれは後世の後知恵.当時は,南アメリカ大陸は無限に南へ続くと思われていたのだ.

マゼラン艦隊の航路(aKnutux, CC BY-SA 3.0)

南アメリカ大陸の向こう側にまた大洋があることは,パナマに上陸したスペイン人先駆者たち(後述)からの報告で知られていた.マゼランは,どこかに海峡があるはずだと南下しつつ探した.そしてついに見つけたのがマゼラン海峡だった.

さて,マゼランがなぜそれほどまでして地球を西に向かって一周したかったのか.それには大きな理由がある.

クローブ

ひとつめは,なんとしてでもスパイス諸島への道を見つけたかったこと.それも西廻りで.スパイス諸島とはインドネシアのモルッカ諸島のことで,種々のスパイスが採れることで有名だ.特産品の中でもとりわけクローブナツメグはインドの胡椒と並んで珍重されたに違いない.17世紀の高級料理に使われた調味料が塩,柑橘果汁,葡萄酒,酢,生姜,サフラン程度だったことを考えると,スパイスがどれほど重要だったかは想像できよう.

スペイン王の後援を受けたマゼランが西廻りを目指したのは,スペインのライバル国,そして皮肉なことにマゼランの生国であるポルトガルが東廻りの航路を抑えていたからである.マゼランよりも早くスペイン王の後援で西廻り航路を開拓したクリストーフォロ・コロンボ(クリストファー・コロンバス)は1492年にアメリカ大陸に到達している.1513年に,スペインの冒険家バスコ・ヌーニェス・デ・バルボアがパナマを横断して太平洋を発見している.そして,マゼランは海がどこかでこの大陸を超えて繋がっており,船で地球を一周できると信じた.スペイン王は自らの艦隊が西廻りでスパイス諸島に到達することを望んだ.

マゼランが西を目指したいまひとつの目的は,1494年にローマ教皇のもと,スペインとポルトガルの間で結ばれた条約(トルデシリャス条約)にあるだろう.この条約によると,新たに設けられた「教皇子午線」すなわち西経46度37分の東側がポルトガルの持ち物,西側がスペインの持ち物とされたのだ.この子午線は大西洋のアゾレス諸島およびカーボベルデの西100リーグで,簡単に言うと既知の世界をすべてポルトガルのものにするための条約と言える.そのため,スペインはポルトガル支配の及ばない西に富を求めたのだろう.なおこの教皇子午線は,後にブラジル(偶然にも教皇子午線の西側にある)を除く南北アメリカのスペインによる支配を正当化することになる.

先に述べたとおり,マゼランは航海の途中で立ち寄ったセブ島で余計なことをして命を落とす.1521年4月27日のことである.同じ年の11月8日にマゼランを欠いた艦隊はスパイス諸島に到達する.スパイスを満載した艦隊はその後,惨憺たる苦悩を重ねつつもスペインに帰港している.

写真上部にマゼラン雲が写っている (By ESO/C. Malin, CC BY 4.0)

マゼラン艦隊が北極星の見えない南半球を航行中に目印とした銀河は,現在ではマゼラン雲と呼ばれている.マゼラン雲(大小あるうちの大きい方)は地球からおよそ16万3,000光年先にある.

Galileo Galilei

3人目はガリレオ・ガリレイ.彼は近代科学を作り上げた,人類の至宝と呼ぶべき科学者である.特にガリレオによる木星の観測は,地動説を決定的なものにした.ガリレオはまた最先端の発見を自ら平易に書いた「天文対話」という書物を1630年に発行している.彼は,現在で言えばカール・セーガンのような科学コミュニケーターの先駆者でもあったのだ.

天文対話は科学史において画期的な書物だったのだが,内容を巡ってガリレオはローマ教皇庁検邪聖省から有罪の判決を受けてしまう.一説によると,天文対話の登場人物で天動説を信じるシンプリチオ(日本語に訳すと「バカボン」のような語感)のことをローマ教皇が「俺のことか!」と怒ったからと言われている.

天文対話は発禁になり(1822年に解除),ガリレオは禁固刑を言い渡される.人類最高の科学者としては悲しすぎる晩年だが,さらに禁固中に最愛の娘を亡くし,また太陽の観測がたたったのか失明もしてしまう.それでも彼は死の直前まで研究を続け,振り子時計の発明も行っている.

ガリレオは1642年に亡くなるが,葬儀は許されず,正式な葬儀は1737年まで待たねばならなかった.ローマ教皇が裁判の誤りを認めガリレオに謝罪したのは1992年だった.ガリレオの死から350年が経っていた.

1995年,ガリレオの名を冠した惑星探査機が木星に到達した.2005年,ガリレオの名を冠した衛星測位システムが稼働を始め,現在28機のガリレオ人工衛星が地球を周回し,航海の目印になっている.2008年,ローマ教皇ベネディクト16世がガリレオを讃え地動説を認める説教を公開した.

ガリレオによる月の満ち欠けの観測図(1616年) — ガリレオは月の表面を観測した初めての人類だった

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