ガリレオ・ガリレイが残したもの

ポッドキャストのエピソードから

Ichi Kanaya
Pineapple Blog
Nov 29, 2020

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最近になってポッドキャストを始めた.COVID-19の流行によって大学の講義がオンライン化されているのだが,特に録画で講義をする場合はどうにも雑談をはさみにくいという事情があって,そういったこぼれ話だけを集めてポッドキャストにしてみているのだ.いや実はポッドキャストの収録のついでにYouTubeチャンネルも始めている.

ポッドキャストはアップルのPodcastアプリSpotifyなどお好みのプラットフォームでも聞けるので,ご登録いただければ幸いだ.

さて,本記事執筆時点での最新エピソードであるエピソード19「ガリレオ・ガリレイが残したもの」をテキストにもしておこうと思う.

ガリレオ・ガリレイは1564年2月15日(ユリウス暦),ピサで生まれた.

バチカンのサンピエトロ広場(写真)が完成するのが1656年なので,ガリレオはサンピエトロ広場を見ていないだろう.しかし,23歳のときにローマを訪問したことのあるガリレオは,サンピエトロ広場の中央に据え付けられているオベリスクを見上げた可能性はある.このオベリスクは,第3代ローマ皇帝カリグラによって紀元40年にエジプトから運ばれたと言われている.そして,元々は古代エジプトのヘリオポリスに建てられていたものと考えられている.

オベリスクの作る影によって,我々は時刻を知ることが出来る.実際,日時計を最初に作ったのは古代エジプト人かもしれない.(古代バビロニアに遡るという説もある.)

このオベリスクよりも早くから,古代エジプト人たちは巨大な石造物を作り始めている.例えば,紀元前2500年ごろにはおなじみの大ピラミッドを建築している.

このピラミッドは,各面がそれぞれ正確に東西南北を向いている.当時は方位磁石が発明される前だから,太陽の運行から東西南北を割り出したはずだ.だが御存知の通り,太陽の昇る位置は季節によって変わる.

古代の人々が季節ごとに太陽の昇る位置が変わることを知っていた良い例がある.大ピラミッドとおよそ同じ時期に造られたと考えられている,イギリスのストーンヘンジだ.

オベリスクを時計とすれば,ストーンヘンジはカレンダーに相当する.なぜ古代の人々はカレンダーを欲したのだろうか.

その理由は農業である.

農作物が1年周期で実ることを考えると,いつ種を撒き,いつ収穫するかというスケジュール管理は重要である.とりわけエジプトでは1年に1度ナイル川が氾濫していたので,その前に収穫を終えなければならないという事情もあった.

古代エジプト人は,好むと好まざるとにかかわらず,1年の周期がおよそ365日であることを知っていた.これは60進数を好んだ古代エジプト人には苦痛であっただろう.なぜ1年が360日ではないのかと.それはともかく,カレンダーには1年の始まりの日が必要である.その日から数えて366日目に次の1年が始まるからである.

その1年の始まりの日はいつであるべきだろうか.我々の1月1日は偶然決まっているに過ぎない.その日に何らかの天文現象が発生するわけではない.一方で,日本には天文現象を国民の祝日にしている日がふたつある.春分と秋分である.どちらも,昼と夜の長さがおなじになる日である.

春分と秋分が祝日なのに,冬至と夏至が祝日でないのはどうも納得がいかないが,法律がそうなっているのだから仕方ない.冬至は1年の間で一番昼の時間が短い日,夏至は1年の間で一番昼の時間が長い日である.

この四つの区切りの日からひとつ基準点を選べと言われたら,冬至を選ぶのは自然な成り行きであろう.なにせその日から昼の長さが伸びていくのである.めでたいではないか.

余談になるが,筆者は秋分の日にストーンヘンジを訪ねたことがある.その日は宇宙人と交信しようとしている有志の方々が来ていた.

さて,このめでたい冬至であるが,冬至を祝う風習は現在にも受け継がれている.それが正月(1月1日)とクリスマス(西方教会では12月25日,東方教会の一部はユリウス暦を続けているため1月6日または1月7日)だ.どちらも土着の祭りが徐々に変化していったものだとされている.

話はガリレオに戻る.

ガリレオの時代,このような太陽の運行は地球の周りを太陽がめぐるため(天動説)だと考えられていた.

1542年,ポーランドでコペルニクスが亡くなった.彼は天文学者であり司祭であって,生前から,回っているのは太陽ではなく地球である(地動説)という信念の持ち主であった.狙っていたわけではなかったが,彼の死と同時に彼の著作が完成した.世界で初めて,地動説を唱えた書籍である.

コペルニクスが地動説を唱えた理由は,もし地球が宇宙の中心であるならば,惑星の動きが複雑すぎるという点である.惑星の動きに関しては古代エジプト人も非常に詳しく観測していたようである.興味のある方は次のリンクも見てもらいたい.

16世紀までの天文学は,この複雑な惑星の動きをいかに上手く天動説で説明するかに費やされてきたと言っても言い過ぎではないだろう.しかし,コペルニクスの説を採用すると,説明は簡単になった.

とはいえ,ガリレオが生まれた1564年はまだ天動説が広く信じられていた.むしろ常識中の常識,天動説を疑えばかえって正気を疑われるような時代だっただろう.(この事情は1905年に絶対空間と絶対時間を疑ったアルベルト・アインシュタインと似ている.)

ガリレオは時間というものを発明した.

これが何を意味するのかは,次の動画でお話ししてみた.(ポッドキャスト版はこちらにある.)

ガリレオはピサで,今は伝説になっている実験をする.1592年の「物体落下の実験」である.当時,天動説と並んで強く信じられていたことに,重い物体は軽い物体よりも速く落下するという説がある.我々の直感に合致するし,万学の祖と言われるアリストテレスがその説を強化したからでもある.

ガリレオはこの常識を疑い,重い球と軽い球を用意して,ピサで実験をした.もっとも,ガリレオは実際には物体を落下させたのではなく,斜面を転がして実験したと言われている.ここで重要なのは,ガリレオが実験し,かつ実験方法と実験結果を公表したということである.これによって,誰もが追実験をすることができるようになった.ガリレオが近代科学の父と呼ばれる理由はこの一点である.

物体落下の実験の結果は,当時の常識を覆すもので,重い物体も軽い物体も同じ速度で落下するというものであった.しかもガリレオは,落下する物体の位置を時刻の関数で表した.物理学が,いや彼以前に物理学は無いので天文学と呼ぶべきだろうが,はじめて幾何学から決別した瞬間である.(少なくとも1905年にアルベルトが幾何学に戻すまでは.)

なお実験の舞台となったピサは斜塔で有名だが,イタリアの塔はよく傾いている.というより,イタリア人は建物が傾いていてもそれほど気にならないらしい.日本と同じ地震大国なのだが,真逆の方向性なのが面白い.

そのピサにある大聖堂には,ガリレオが時間を測ることを可能にしたシャンデリアがある.ガリレオは揺れるシャンデリアを見上げて,その揺れ幅は変化するものの,揺れの周期は一定であることを発見した.これを振り子の等時性と言う.振り子の等時性を利用すると地球の重力を計測することも可能で,筆者も工学部の学生の頃実験をさせられた.

物体落下の実験からおよそ5年後となる1597年,ガリレオは地動説を公然と支持するようになる.

コペルニクスの時代と違って,ガリレオはそれを実証する手段を持っていたのだった.

1609年になるが,ガリレオは望遠鏡を自作している.望遠鏡の歴史ははっきりしない部分もあるが,1600年前後にヨーロッパのどこかで発明されたようである.ガリレオは噂を聞きつけ,自身で工夫し,ガリレオ式望遠鏡を自作した.

この絵は自作の望遠鏡をベネチアの公爵に披露しているところである.(動画やポッドキャストの中ではローマ教皇と言ってしまっている.お詫びして訂正する.)

望遠鏡を製作してすぐに,ガリレオは月を観る.

彼の驚きを想像できるだろうか.月に海と陸地があるように見えただろう.地球以外に地形があるなどと,当時の人はまるで信じていなかったのだから,その驚きときたら,円周率が割り切れないことに気づいてしまったアルキメデス以上だっただろう.ともかく,地球はこの宇宙で唯一無二の存在ではなくなったのだ.月の暗い部分は現在でも月の海と呼ばれている.

そして翌1610年,更にとんでもないものを発見してしまう.

ガリレオが驚きとともに残したスケッチが残されている.彼は望遠鏡を木星に向けて,見たのだ.

木星の周りをめぐる四つの月.後にガリレオ衛星と呼ばれ,それぞれイオ,エウロパ,ガニメデ,カリストと名付けられる木星の月である.

もはや地動説は決定的になったと言っていい.ガリレオ衛星が地球の周りを回っていると考えるのは不可能に近いし,それに不自然だった.

ガリレオは観測をやめなかった.1613年には,望遠鏡を太陽に向けた結果,太陽黒点を発見し発表している.

太陽は非常に眩しいので,肉眼で黒点を見ることは出来ない.また専用に設計された望遠鏡以外では絶対に見てはいけない.ガリレオの時代にはそのような知識が無かったというか,望遠鏡そのものがなかったので仕方ないのだが,これは後に悲劇のもとになる.

太陽黒点の最新の写真はこのようなものだ.驚くべき写真だが,ガリレオが太陽に黒点を発見したときも相当驚いたに違いない.なにせ完璧な光の球と考えられていた太陽にゴマ粒が乗っていたのである.太陽とは完璧な存在ではなかったのか.

ガリレオは1632年に「天文対話」を著す.この天文対話は画期的なことに,母国語であるイタリア語で書かれていた.イギリス人ニュートンがずっと後の1687年に書いた「プリンキピア」がラテン語であるように,当時,学問を扱った書籍といえばラテン語であった.いや,天文対話は学者だけではなく,一般読者も対象としたやさしい読み物として書かれた.

近代科学の金字塔(ピラミッド)と言うべき書籍が一般向けで,しかも現代に続くベストセラーというのは面白い.

が,面白すぎたようだ.読みようによっては,頭の固いローマ教皇をこき下ろしているようにも見える.

この年,ローマから出頭命令を受け取り,ローマへ出向く.バチカンのオベリスクを何度目かに見たかもしれない.

1633年,ガリレオは第2回異端審問所審査で,ローマ教皇庁検邪聖省から有罪の判決を受け,終身刑を言い渡される.後に軟禁に減刑されたようである.翌年,最愛の娘を失っている.

太陽を望遠鏡で見たことが祟ったのであろう,ガリレオは1637年に視力を失っている.それでも翌年,口述筆記で「新科学対話」を著している.なお筆記したのはかのトリチェリである.

新科学対話の発表と同じ1638年には,振り子時計の発明もしているようである.

失明したガリレオは図面しか残せなかったが,1657年頃にオランダのホイヘンスによって完成されている.なお(1990年代頃まで)太陽観測に欠かせなかったハイゲンス接眼鏡はホイヘンスによって発明された.

1642年1月8日,ガリレオは77年の生涯を閉じる.

トスカーナ公爵やバチカン内での嘆願があったにもかかわらず,ガリレオの葬儀は1737年まで行われなかった.このとき,ガリレオの右手中指がフィレンツェのガリレオ博物館に保存された.

1992年,ローマ教皇のヨハネ・パウロ2世はガリレオへの避難を撤回した.

1995年,ガリレオと名付けられた木星探査機が木星周回軌道に到達した.2003年に木星の大気へと落下するまで,ガリレオは木星の月であり続けた.

2005年からガリレオと名付けられた別の人工衛星が地球の周りを巡っており,我々も日々その恩恵を受けている.

2008年,ローマ教皇ベネディクト13世はガリレオの天文学への貢献をたたえた.

以上がガリレオの生きた時代の背景と,ガリレオ自身がもたらした革命の一部である.

ガリレオについて話すとつい長くなってしまう.ポッドキャストの方は次回からまた平常運転に戻そうと思う.

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