違った人間に会いたくて

omija / qeqeqe
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Published in
Nov 22, 2021
やかんになぜか金太郎が

Twitterでの友人のつぶやき、また進行中の企画について、あれこれ考えごとをしていたら、不思議とここに辿り着いた。

2年前まではMediumを更新していたようだ。“最底辺のブログ”という受け皿として日々の活動と、付随する感情や思考の置き場にしてたらしい。

そう、「ようだ」であり「らしい」なのである。

自分でも自分で書いたことすら忘れていたし、書いた内容すらピンとこなくて、他人の日記をのぞき込んでいる気分だからだ。経験上、1年経てば、自分の日記は他人の日記として読むことができる。おそらく、それは自分が書いたものに対する執着の問題なのかもしれない。

基本は、吐き出して書いて、パブリッシュした瞬間に、自分の中に在ったものが分離して、外へと抜け出し、解放されるような感覚だろうか。内に留めておくとムカムカするというか、イガイガするというか、そういった違和があって気持ち良くはない。

そいつが、身から切り離されるのだから、執着などあるわけなく、むしろ「やったー」の歓喜であり、記憶にはとどまらない(とどめるつもりもない)過ぎ去った文章としてなおざりになる、という結末のように思う。

まあ無理やり記憶に蓋をしたいわけでもなく、つい忘れてしまっているだけ、というのが正しい気もするが。必要なときに、ふとした瞬間に辿り着くことで、同じ身体なのに違った精神の人間に出会えるのが、ちびちびとでも記録を取り続けることの意味なんだろう。

てか、ひさびさだけど、Mediumむっちゃ書きやっすいな。

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omija / qeqeqe
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mobile bartender / owner of Nawa @ Tottori / ex-writer