生命の最低の要件は何か
ものごとを見つめる視座は単一であるよりも複数のほうが良い.そのほうが新たな発見があったり解釈を与えてくれたりするからだ.
生命を定義するときによく引き合いに出されることは「自己複製・自己修復」などの遺伝子に依拠するシステムを有しているか否かだけれども,果たしてほんとうにそうなのか.別の見つめ方・捉え方はないのか.
今回は,アンドロイド(Androidでなく.)の研究をしている石黒浩先生と,人工生命の研究をしている池上高志先生の共著,「人間と機械のあいだ 心はどこにあるのか」を読んだ.
(何故かサムネイルが1月号の美術手帖,ライゾマティクスの特集なのだけど・・・.ちなみに,こちらも面白かった)
相も変わらず石黒先生の本はすぐに買ってしまうし付箋をたくさんつけてしまう.それだけ,先生の問うている事柄にどうしようもなく惹きつけられてしまっているし,自分も近いうちにその問にぶつかりつつも明らかにしていきたいと真剣に思っているからだ.
話を戻すと,今回のテーマは「機械人間オルタ」を作った石黒氏と池上氏がオルタをつくる前と後で語った生命に対する規定や機械との境界線についての新しい見え方についてである.
そのなかでも興味深いトピックは,
「見た目によらない生命性」と「見た目としての生命性」
である.詳しくは書籍をあたられたいが少しだけメモがてらに書いておくと,
人間は見た目で人間らしさ,とか生命らしさを感じるのか?突っ込んで言うと,その動物の見た目だと思い込んでいるビジュアルが目の前に現れているときに人間らしさを感じるのか.
そういうアプローチで人間に極限まで模して作られるアンドロイドは人間「らしさ」を感じる.しかし視点をずらして考えると「人間らしさ」は観察者側にも持ち合わせているいわば「相互作用」と捉えることもできる.人間らしく感じるから,人間らしい,という循環論のような話だが,人間らしさとはなんなのか.
平野啓一郎の「分人主義」もそうだ.場や状況,他者と関わるdividual<分人>の集合体が「わたし」を規定しているという話.ようは相互作用的で捉える人間観である.
一方,ボトムアップ的に生命として必要な要件(例えば,分子の構成等)を積み上げていき,ある域をすぎると文字通り「生命を宿す」と考えるときに,どのラインがその「生命性を感じる」要素なのか.
見た目によらない生命性とは,例えば,複数の知覚が統合・シンクロされる感じや複雑で規則性のない感じなど.これらは,決して見た目が人間とは似ても似つかないものでも,ある種の生命性を感じるのではないか.
書き散らしてしまったけども,最後に石黒先生が言っていたことは,そのまま筑波大助教の落合先生が言っていることと近似していると思って,載せておく.
機械が「今の人間」とおなじになる必要はないということです.「人間」という概念は拡張されていて,いろいろなものが人間のカテゴリーに入ってくる(石黒)−P.193
人間vs機械という二項対立は圧倒的に時代遅れだし,人間の定義や生命の定義も現代を含む従来のものからはアップデートされてしかるべきと感じている.
なぜならば,人間が幸福でいられるには,「しっくりくる」人間観を持ち合わせていることが必要だと思うからだ.少なくとも人間が作り出している「不幸」や「悪」は,人間観のアップデートによって消滅するといえるだろう.