FIS TOKYO report #3 DEATH-LIFE Process_2050年、生死の境目はより曖昧になり、私たちはデジタルの遺骨を弔う。

ディスカッションはミッドタウン東京の地下通路というパブリックスペースで行われた。 photo:Tsukuru Ozaki

26日朝、イノベーターたちは東京ミッドタウン地下のディスカッション会場に集まった。丸1日を使ってディスカッションを行う「Intensive Discussion Day」が幕を開けた。Intensive Discussion Dayの約4時間のコアタイムでは、死を連想させる単語がのべ320回以上語られた。計算上、イノベーターたちは1分に1回以上、死という言葉を語る時間を過ごしたことになる。


東京における「死のデザイン」

東京における死の現状とはどんなものか。ディスカッションのテーブルには、社会問題化する孤独死、富士山の樹海や中央線の人身事故に象徴される自殺大国・日本の実像、そして自分の愛する人を失う悲しみといった私的な死への想いが上げられた。

エイミー:私たちにとって、ひとりぼっちで死ぬことはもっとも大きな不安のひとつです。死に際して、親しい誰かとの繋がりがあること、手を握ってくれる人が側にいてくれることがどれほどに心強いことでしょう。ソーシャルメディアのようなテクノロジーは人との繋がりは生み出せるかもしれない。しかし、親しい人、愛する人があなたの手を握ってくれること、これをテクノロジーで置き換えることは可能でしょうか?
福原:自殺志願者が互いに死ぬ人を募集する「自殺サイト」がありますよね。私は一度調査目的でその内容を見たことがあるのですが――もっともそれはとても精神的に堪える内容だったのですが――、彼ら彼女らは自分といっしょに死んでくれる人を、会ったこともなければ本名すら知らない人から選んでいるんです。
自殺サイトを見ていると、人がいかにひとりで死ぬのを怖れ、誰かと繋がりたがっているかがよくわかります。死への怖れはテクノロジーによって身体をとりかえることで解決するものではなく、私たちの感情の問題を解決する必要があります。誰かと繋がっているという感情だけが、死の怖れから私たちを幾分救ってくれるのだろうと思います。

ディスカッションを進めていく中で数多く語られたのが、死にまつわる「繋がり」と「苦しみ」だった。高齢化と孤立化が進行する東京において、多くの人々が社会的に少ない「繋がり」の中を生きていることは事実だ。そしてこの事実は、多くの死の「苦しみ」を生み出していると換言できるのかもしれない。

こうした社会において、私たちはどのように死を「デザイン」すべきだろうか? 考慮すべき示唆が提示された。

ジャズ:死をデザインする際の「ベースライン」とは何なのでしょう? つまり、私的な死という対象をデザインする場合の前提条件のようなものです。ひとつ言えるのは、誰もが自分の最期には、「自分の納得のいく方法で死にたい」と願うことかもしれません。しかし、高齢者は体力の衰えもあり、誰かのケアが必要になる中で孤独に苦しむこともあるかもしれません。そうしたときに誰を自分の死を看取る人とするべきか、死の自立性、独自性はどのように担保されるべきなのでしょうか?
ラリッサ:日本では孤独死した人を回収し、その場を掃除するという仕事が大きな産業になっているという現実の重さを認識する必要があります。また、病院でのケアは非常にお金がかかってしまうことから、自宅でできるだけ長く過ごすことのできるテクノロジー、そのための仕組みも重要になると考えられます。

2050年の東京、中心にいるのは機械か、人間か?

地下道の人の流れの中で行われている議論には、通りすがりの人々が足を止めることもあった。photo:Tsukuru Ozaki

続いては2050年頃の世界観をイメージしながら、東京における死の未来がどのようなものになってゆくのかがディスカッションされた。FIS TOKYOにおいては東京は国際都市のモデル都市でありメタファーとして捉える。つまり東京で考えられる死の未来が、世界中の大都市の“死のイマジネーション”になるのだ。

青木:私は2050年頃の社会では、機械中心の社会が到来していると感じます。AIが人間の死を含む多くの出来事を判断する決定権を持っているだろうということです。たとえば医療における判断などもAIによってなされることになるでしょう。

AIによる技術革新が起きるたび、ニュースのヘッドラインを飾る時代に私たちは生きている。AIによって最適化された社会システムの実現は、現在進行形の私たちの未来だ。それに対し、人間中心社会を模索することの重要性についてもさまざまなディスカッションが展開された。

バサント:私は未来において、人々が年齢や性差を超えて協調できるような仕組み・組織を構築してゆくことが必要だと考えます。おそらく20年先になればテクノロジーおよびそれがもたらす環境も大きく変わっていることでしょう。しかし、社会は人間が中心であるべきです。
ジャズ:その一方で、人間を中心に据えた社会では、この世界の持続可能性が難しくなるケースを私たちは歴史を通して体現してきました。この世界に生きる人間、動物、植物ほかすべての協調をいかに模索してゆくかが、持続可能性を考える上で重要です。そのためには人とテクノロジーのインタラクションを超えて物事を考える視点が重要になるでしょう。
ラリッサ:「持続可能性を考えたとき、人間そのものが大きな障壁となっている事実を認識すべきだ」とする、ヴィクトリア大学ウェリントンに所属するエスノグラファーのアンネ・ギャロウェイの指摘が参考になるかもしれません。とくにテクノロジーを開発する際、私たちは常に人間中心的に考えがちです。未来では、「人間以上」を考える必要性があると感じます。
エイミー:テクノロジーは産業革命の際、人間を助けるもの、人間の役に立つものとしてデザインされました。しかし現代を見てみると、人間はテクノロジーに隷属しつつある。この事実について、私たちは慎重に考える必要があります。

生死に境目はない

東京で、人々は多様な生き方をすると同時に、多様な死に方に直面する。生と死は、生物的には(実際のところ生物学における定義は曖昧なままだが)まったく異なる状態であることを私たちは知っている。しかし、私たちはこんなことも知っている。私たちのひとりの心は、生と死をきっぱり分けて捉えることはできない。なぜなら私たちの持つ死生観は、双方向ではないからだ。死から生を見た人間はこの世界に存在しない。私たちは生きながらしか、死を捉え、考えることができない。つまり生とは、宿命的に死を内包して存在しているのだ。

福原:死の反対は生きているということなのでしょうか? 何が死を死たらしめるのか。心臓が止まれば私は生物的に、ときに公的に、死ということになります。私の身体はエントロピーが上昇し、フィジカルな人間として存在しなくなります。しかし、この状態であっても“私ではない私が生きている”と言える可能性があることを議論してみることにヒントがあるかもしれません。
photo: Tsukuru Ozaki
エイミーの骨の機能美に焦点をあてた作品のひとつ「SPHENOIDS」。人間の頭骨内部にある蝶の形をした美しい骨「蝶形骨」を、実際の3Dスキャンデータから、3Dプリンターで出力することによって造形されている。蝶形骨は脳下垂体を収容し、静脈洞を保持する。 credit: Amy Karle amykarle.com
エイミー:たとえあなたがいなくなっても、Facebookページやインターネット上にあるあなたの写真をみたら、私はあなたとの会話を生き生きと思い出すだろう。そして、もしも誰もあなたが死んだことを私に教えてくれなかったら、私はあなたが生きているように感じ続けるでしょうね。
バサント:私の育ったエジプトの文化では、死は生から隔離されたものではありません。私たちは死後の世界を信じる宗教的価値観を持っています。そして死後の世界は良い世界であるということを信じています。死は失望やひどい状態を連想させるものではなく、永遠の楽園への旅立ちだと捉えます。

エクスポネンシャルな死と、デジタルな骨

現在、インフォメーションテクノロジー(IT)とバイオテクノロジー(BT)が驚くほどに進化する未来が予測されてきている。未来においては、人間の進化が、これまでの歴史の常識を塗り替え、予測のつかない変化をしてしまうかもしれない。こうした未来をエイミーは「エクスポネンシャル」と表現する。そんな未来、私たちがインターネット上に持つ膨大な量のデジタルデータがAIと融合することで、死後もデジタル世界で生き続ける、新たな“存在感”を生み出すかもしれない。

非常に奇妙だが、私的な想像をしてみてほしい。自分が愛する人を失ったときのことを――。世界の半分を失ったような気持ちでいる時、たとえそれがスマートフォンの中だけの存在だとしても、語りかけたくならないだろうか?

バサント:未来のある時点で、テクノロジー、つまりAIと人間が融合されたとき、死はどんなものになるのでしょうか? 人が死んだ時、機械のような生命をつくって人格だけを入れ替えたとしたら、一体いつが死なのでしょう? さらにデジタル世界におけるアイデンティを失った時、その人が死んだと感じられるようなことも起きるのではないでしょうか?
青木:個人の生がAIと融合する未来、それが人々にとってどんな意味を持つかを考えておく必要があると思っています。私は生命が社会と融合した生を送ることになるとすら考えます。

ディスカッション中には、福原氏がiPhoneのAIアシスタント、siriに「いつ死んだらいいですか?」と問いかける場面があった。siriの答は「わかりません、他にお手伝いできることはありますか?」という味気のないものだった。未来における答はきっと変わっているのだろう。

議論の中では日本の葬儀の習慣についても言及が行われた。私たち日本人は、葬儀の際、箸を用いて骨を集める。この習慣は、日本ではお馴染みだが、文化の異なる視点から見ると、非常に奇妙であり関心の対象となる。弔い方は生と死をつなぐ文化的な絆とも考えられる。

骨とは、多様な文化の中でも、死の象徴として捉えられることが多い。私たちはフィジカルな骨をこの世界に残し、旅立つ。しかし現代の私たちは「デジタルな骨」もこの世界に残してゆく時代に生きている。

エイミー:私は骨に関する作品を数多く制作してきました。骨は様々な文化において、死を象徴するものです。それでいて骨は、生命における身体の基礎的な構造を形成するものでもあります。私たちの持つ「デジタル・アイデンティティ」は、まるで骨のように、現在の私たちのアイデンティティの基礎的な構造を形成するものであるわけです。そしてそれらは私たちの死後もそこに残り続ける――。

ディスカッションはIntensive Discussion Dayにおいても収束することはなかった。しかしこの日、イノベーターのひとりからこんな提言がなされていた。

ジャズ:この時代において、私たちが思慮深く死を手づくりできるとすればどんなものになるだろう? それをテクノロジーや今の社会構造などから考えていくとすれば?
最終日はビデオの撮影と編集が急ピッチで進んだ。

人の手、人の温もり、思いやり――。AIによって何もかもが最適化される時代が訪れ、人が融合するような未来が到来したとしても、人の手で生と死を手づくりできるとすれば、それはどんなものになるのだろう。Intensive Discussion Dayの翌日、考えを精錬し、生まれたのがこのクリエイティブ・クエスチョンだった。

How can we care-fully co-craft death-life? (私たちは、どのようにして、お互いを思いやりながら、生と死を共創することができるのだろうか?)

TEXT BY AKIHICO MORI

森 旭彦

京都生まれ。主にサイエンス、テクノロジー、アート、その交差点にある世界・社会を捉え表現することに関心がある。様々な研究者やアーティストを取材し、WIRED、ForbesJAPANなど各種メディア、大学に関連したプロジェクトで執筆を行う。

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