2に関して、「しかし人は成功するかどうかはわからないことでもチャレンジしなければいけない」とよく叫ばれてはいます。
二〇一七年一月六日
佐々木正悟
31

たとえば、ふと目にした文章に、xとyからなる二次方程式が掲載されていたとする。すると私の脳は、「よし問題を解こう」といったモチベーションとはまったく関係なく、その式を解こうとする。項を移動したり、何かで掛けたり、何かで割ったりして、xとyの値を求めようとするのだ。

結果的に、その問題が難しく、まったくお手上げであることに気がつかされることも少なくない。

その意味で、私の脳は「成功するかどうかはわからないこと」にチャレンジしている。MPの無駄遣いだ。

でも、これはちょっと違った視点から見ることもできる。

同じようにふと目にした文章に、xとyだけでなく、zやらαやらβやらシグマなんかが並んでいる式が掲載されていたら、私の脳はそうそうにそれを無視する。漠然と捉えれば、この二つは「数式」という点では共通である。しかし、私の脳にとっては別ものなのだ。

片方は、MPの無駄遣いになりそうでも取り組もうとするし、もう片方はニューロンの片鱗ほども意欲は湧いてこない。

つまり、実際にそれが成功するかどうかではなく、成功しうる可能性があるかどうかがポイントであり、もっと言えば、提示されたものの構造・文脈を自分が理解しているのかがポイントになるのだろう。

xとyしか出てこない方程式であれば、それがいかに複雑であろうとも、私はその操作のための道具箱をいくつか持っている。さんざん高校生のときにたたき込まれた数学的手法だ。しかしそれが、奇妙な数学的記号が混ざり出すと、どう取り組んでよいのかがわからなくなる。それが持つ構造的な意味をかぎ取れなくなるのだ。そして、人の脳は、それらから遠ざかる。

「複雑なタスクは分解しましょう」という仕事術(あるいはライフハック)が功を奏するのは、こういう状況である。それは単に、工程を分離するだけではなく、シグマを含む式から、xとyからなる二次方程式に変換することを意味する。それによって、私の脳が反応できるようにするのだ。

ここが面白いところだ。私は自律的にタスクを分解する。なぜそうするかというと、最後の最後で実行する私はむしろ自律的に動けない(=反応的に動いてしまう)ことを理解しているからだ。

この二つの「自分」というパースペクティブ(あるいはパラダイム)はとても重要である。

Show your support

Clapping shows how much you appreciated 倉下 忠憲’s story.