トラックバックとMedium

少し懐かしい気分と、今とは違った未来

倉下 忠憲
Re:style
5 min readSep 12, 2016

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たとえば自分が何か記事を書いたとして。

しばらくしたら、トラックバックが送られてくることがある。
※少なくとも昔は結構あった。

自分の書いた記事を読んだ人が、何かしら関係あることを書いたのだ。そして、それを通知してきているのだ。

トラックバックにより、私はその記事の存在を知ることができる。自分の記事が言及されたり、インスパイア元になったことを知る。これはアウトプッターにとってはたいへん嬉しいことだ。単純に面白い記事を読める喜びもある。

さらに、そうした記事へのリンクが自動的に自分の記事に追加される(埋め込まれると言ってもいい)。自分の記事のコンテキストが豊かになったのだ。

とりあえずは、そう。良いことだらけである。スパムの標的になるまでは、ということだが。

同じレイヤーで語る

「自分の考えがあるならば、自分でブログを書いたらいいんじゃないですか」

と、ときどき思う。

この社会は個人が主張を持つことを禁じていないし、それをPublishするためのツールは無料で開放されている。誤解を生むような断片的なつぶやきではなく、ひとまとまりの文章を、自分の文責で展開すればいい。特に、他人のブログ記事に対して思うところがあるならば、余計にそうだ。

トラックバック経由でやってくる「反論」や「意見」は、もちろんどこかのブログからである。つまり構図はこうだ。

ブログ VS ブログ

極めてわかりやすい。対等ですらある。一つのブログがあり、それに言及する別のブログがある。両者はそれぞれ「自分のブログ」という領域において発言している。それをお互いが見ている。対話が可能な条件がそこにはある。

一方ソーシャルブックマークにおけるコメントはどうだろうか。

あるブログへのコメントは、そのソーシャルブックマークサービスのレイヤーに載っている。ソーシャルブックマークサービスは、コンテンツに対するメタコンテンツなので、いわばレイヤーが一つ上である。つまり、先ほどのような平面な構図にはならない。

ソーシャルブックマークサービス
ブログ

最悪、一方的に批判され、一方的に嘲笑され、一方的に誤解されて終わってしまう。反論とそれに対する反論が同じレイヤー上で展開することもない。

別にソーシャルブックマークサービスが悪いという話をしたいわけではない。単に、議論を行うためのツールではない、という役割分担を確認しただけだ。

そこでMediumは

Mediumには、ハイライト、コメント、ハート(recommend)、レスポンスがある。それぞれに機微があるのだが、その解説については今回は割愛する。

ともかくこれらのリアクションを行えるのはMediumユーザーである。つまりアカウントがあり、その人も(おそらくは)何かしらの発信をしている。だとすれば、自分の記事にハイライトをつけた人がどんな人なのかを私は確認しに行けるし、他の人が私の記事を読んだ場合でも同様だ。つまり、構図は常にこうなる。

Mediumユーザー VS Mediumユーザー

さらに今のところ、スパムが飛んでくることもない。その点は、すこぶる素晴らしい。

また、リアクションはすべて公開されているので、Facebook的な「仲間たちのたまり場」的雰囲気を帯びることも少ない。

総じて言えば、これは一つの理想的な形ではないだろうか、という気がしてくる。

さいごに

Googleのアドセンスとさまざまなアフィリエイトよって生まれた新しい「指標」が、ブログの未来という線路の切り替えスイッチを押してしまったことはもはや明白である。さらにソーシャルブックマークサービスによるアクセス数の増加に対する最適化が、そのアクセルを目一杯に踏み込んでしまった。パクりブログや、役に立たないキュレーションメディアの存在はそこから発生した枝葉のようなものである。根源はもっともっと深いところにあるのだ。

Mediumが目指しているのは、どうやらそれとは違った未来らしい。

だからそう、Mediumの価値は、これまでとは違う指標で評価する必要があるだろう。あるいはそれは、昔ながらの指標かもしれない。

▼こんな一冊も:

Originally published at rashita.net on September 12, 2016.

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倉下 忠憲
Re:style

物書きです。R-styleというブログを運営しています。ビジネス、経済、政治、投資、為替、麻雀、アニメ、ゲーム、ガンダム、iPhone、ライフハックなどに反応しやすい性質をもっています。