頂いたresponseに対して、さらに自分でresponseを返すこともできる。もちろん、そこにresponseが返ってくることもある。
話者がいて、聞き手がいて、それが次にスイッチし、さらにスイッチする。会話のキャッチボールよりも、少し重みのある何かがそのやりとりの中にはある。
お互いの人格が尊重されているような何かだ。私たちの社会から欠落しつつある何かでもある。
実際にそのようなresponseのやりとりを行っていると、「ああ、これは往復書簡のようなものなのだな」という気持ちがしてくる。実際に、往復書簡をやったことはないが、有名な著者たちが行ったそれを読むと、たぶんこんな感じではなかったのかと推測される。
そのような古き良き往復書簡との違いは、一つひとつの文章があらかじめ公開されていることだ。オールディーな往復書簡は有名な作家の没後に公開されることがあるが、現代では最初からそれが公開されている。
公開される対話。
公開される往復書簡。
それがもたらすものは一体なんだろうか。
将棋の一つのパフォーマンスとして、百面差しというのがある。一人の棋士が、100人を相手に同時に将棋を指すのだ。もちろん、鍛錬されたプロだからこそできる芸当ではあるが、もっと少ない人数であれば、それなりにはできるのではないかと思う。
公開された文章。特に、それがresponseを広く受け付ける形で公開された文章というのは、多面往復書簡を可能にしてくれる。
手紙はたった一人に送られる。よく知っている相手に向けて綴られる文章。しかしそれは、たった一人にしか送られない。だからこそ、出てくる言葉もあるが、可能性は限定される。
逆に、マスに向けて語られる言葉もある。新聞記事がそうだ。そこではできるかぎり個性の声(ヴォイス)はそぎ落とされ、「どこに出しても文句が出てこない」文章が提出される。
さて、その中間は存在しえないのだろうか。
100人くらいの、よく知った人に向けて送られた言葉。開かれたダイアローグを可能とする文章の提起。
そのような文章は、私たちに何をもたらすだろうか。
個人的には、それはよきものである予感がある。妙なインテリズムでも、危うい反知性主義でもない何かが、そこから生まれてくるように思う。
対話。時間をかけた対話。
そして、それを促すテクノロジー。
今の私たちに必要なものは、それだろう。