対話を促すテクノロジー

公開、往復書簡、百面差し

倉下 忠憲
Re:style
3 min readJan 3, 2017

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Mediumで記事を公開していると、ときどきresponseを頂ける。嬉しい限りだ。

いいね!でもないし、独白返しというのでもない。そこには、対話の手応えがしっかりとある。

頂いたresponseに対して、さらに自分でresponseを返すこともできる。もちろん、そこにresponseが返ってくることもある。

話者がいて、聞き手がいて、それが次にスイッチし、さらにスイッチする。会話のキャッチボールよりも、少し重みのある何かがそのやりとりの中にはある。

お互いの人格が尊重されているような何かだ。私たちの社会から欠落しつつある何かでもある。

実際にそのようなresponseのやりとりを行っていると、「ああ、これは往復書簡のようなものなのだな」という気持ちがしてくる。実際に、往復書簡をやったことはないが、有名な著者たちが行ったそれを読むと、たぶんこんな感じではなかったのかと推測される。

そのような古き良き往復書簡との違いは、一つひとつの文章があらかじめ公開されていることだ。オールディーな往復書簡は有名な作家の没後に公開されることがあるが、現代では最初からそれが公開されている。

公開される対話。
公開される往復書簡。

それがもたらすものは一体なんだろうか。

将棋の一つのパフォーマンスとして、百面差しというのがある。一人の棋士が、100人を相手に同時に将棋を指すのだ。もちろん、鍛錬されたプロだからこそできる芸当ではあるが、もっと少ない人数であれば、それなりにはできるのではないかと思う。

公開された文章。特に、それがresponseを広く受け付ける形で公開された文章というのは、多面往復書簡を可能にしてくれる。

手紙はたった一人に送られる。よく知っている相手に向けて綴られる文章。しかしそれは、たった一人にしか送られない。だからこそ、出てくる言葉もあるが、可能性は限定される。

逆に、マスに向けて語られる言葉もある。新聞記事がそうだ。そこではできるかぎり個性の声(ヴォイス)はそぎ落とされ、「どこに出しても文句が出てこない」文章が提出される。

さて、その中間は存在しえないのだろうか。

100人くらいの、よく知った人に向けて送られた言葉。開かれたダイアローグを可能とする文章の提起。

そのような文章は、私たちに何をもたらすだろうか。

個人的には、それはよきものである予感がある。妙なインテリズムでも、危うい反知性主義でもない何かが、そこから生まれてくるように思う。

対話。時間をかけた対話。

そして、それを促すテクノロジー。

今の私たちに必要なものは、それだろう。

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倉下 忠憲
Re:style

物書きです。R-styleというブログを運営しています。ビジネス、経済、政治、投資、為替、麻雀、アニメ、ゲーム、ガンダム、iPhone、ライフハックなどに反応しやすい性質をもっています。