映画『シン・ゴジラ』

脱帽した。

本作はさまざまな文脈を持っているに違いない。ゴジラシリーズ、庵野作品、最近の邦画、エトセトラ、エトセトラ。

でも、そうした文脈には私はあまり関心がないし、そもそも知識もない。それに、それらの文脈をすべて漂白しても、本作の面白さは揺るぎようがない。

以下は、かなり内容に触れているので、未視聴の人はご注意願いたい。

断片的に、断章的に書いてみる。

1.

まず、ぱっと思ったのがこれは『アベンジャーズ』ではないか、という感想だ。もちろん、内容はぜんぜん違う。意図も脚本も違う。ただ、「総集結」という点では同じだ。何が総集結しているのか。マニアだ。マニアックな対象だ。

ミリタリー要素一つとっても陸海空がそろい踏みだし、政治も、生物学も、テクノロジーも、鉄道も重機もちゃんと押さえられている。言うまでもなく、怪獣も出てくる。変身するヒーローだけは出てこないが、ある意味で象徴的なものは存在していた。

なんというか、マニア要素の『アベンジャーズ』ではないか。

そういうものが一つひとつ、観る人の心のツボを押していく。でも、それはあくまでおまけでしかない。容れ物でしかない。上記のようなものにまるで心が動かない人であっても、本作の構成やストーリーはちゃんと心に沁みるはずである。

2.

本作は、静と動の使い方が非常に上手い。

はっきりわかりやすいのはBGMだろう。背景音楽がまるでない時間がかなりある。しかし、物語が動き始めると、それに合わせて一気に音楽も盛り上がっていく。メリハリが利いている。

物語自体の展開もそうだ。神の視点を持つ観客から見て、序盤の展開は(特に日本政府の対応は)じりじりするほど動きが遅い。しかし、ひとたび危機が認識されれば、事態は一気に動き出す。その緩急が生み出すストーリーのリズムは非常に心地よい。

出撃したヘリが一度待ったを掛けられる演出も、その後の攻撃場面をうまく引き立てている。「とにかく派手に撃っておけばいい。その次はもっと派手に撃てばいい」みたいなマッチョな展開は非常に抑制されている。

ただし、静と動が対比されて終わる、言い換えれば動を引き立てるためだけに静が使われている、というわけでもない。それは後でもう一度書こう。

3.

本作には、敵はいるが、悪がいない。そこにあるのは、ただの利害の不一致である。それはまさに政治の領分だ。

この構図は、扱いが非常に難しい。

「ゴジラは悪だ。排除して当然」
 「アメリカが悪だ。敵対して当然」

みたいなシンプルなフレームはわかりやすいし、人間の感情に直接的に訴えかけやすい。しかし、それはあまりにも単純化した構造である。現実はもっと複雑なのだ。しかし、その複雑さを出そうとすると、途端に物語が捉えがたくなり、メッセージが伝わらなくなる。

本作では、それが絶妙にコントロールされていた。

いろいろな事象が多面的に描かれており、わかりやすい勧善懲悪には陥っていない。それでも、「いろいろあって、いろいろいい」みたいな玉虫色でもない。どこにも逃げずに、ぎりぎりのところで踏ん張っている。

善と悪には切り分けないにせよ、本作には「私たちにとっての利害」の主張がある。それは、「自分の好きを貫く」というメッセージと呼応している。主張は敵を作るかもしれない。しかし、敵とは交渉も調整もできる。悪は断罪するしかない。

4.

印象的だったのは、最後のシーンだ。

硬直して屹立するゴジラ。導入では這っていたゴジラが立ち上がって、東京のど真ん中に、東京の日常風景に入り込んでいる。

科学とゴジラのメタファー。
 危機のシンボルとしてのゴジラ。
 常にリスクと隣り合わせのゴジラ。

危機感を持ったときの、日本政府の対応は確固たるものだった。でも、それは時間と共に日常へと回帰してしまう。では、ゴジラがそこにあり続ける日本はどうなるのだろうか。リメンバー・ゴジラ。

結局、ゴジラは、疎外されなかった。疎外しようと思ってもできなかったと言えるし(私たちは科学を捨てられるのか)、あえてそれを引き受けたとも言える。

その意味で、ゴジラは静の状態にはあるが、動の可能性を内在している。そして、それが日本という国を静に留めておかない力を発揮している。二項対立は昇華され、新しい動的平衡が生まれたわけだ。そして、これは一つの希望でもある。

5.

本作でははっきりと、ほとんど説明的すぎるくらいに「ゴジラは生物だ。天災ではない」と打ち出されている。だから人類はそれに対処することができる、と。

ゴジラを科学技術(とそれが持つリスク)のメタファーだと受け取るならば、これは一つの希望のメッセージだろう。そして、逃げてはいけない、という意志の提示でもある。

慢心を持たず、むしろいっそ敬虔な気持ちを持って__なにせゴジラは神なのだ__それに対処すれば、私たちはそれと共存することができる。もちろん、簡単なことではない。リスクもある。しかし、人類はそれと共に歩んでいくことができる。

これは希望と言ってよいだろう。そして、その希望に日本という国の希望が重ねられる。

それは、「日本もまだまだ捨てたものじゃない」というような安易な希望ではない。また、強いリーダーシップに対する幻想でもない(それが一番危険である)。人が生き、それぞれの領分をまっとうしていくこと。何かを託し、何かをつなげることで生まれるもの。そうしたものの先にある希望だ。実利はそこにはないかもしれない。目には見えないかもしれない(目に見えるのはゴジラと壊れた街だ)。でも、それを信じることで人は前を向いて生きていくことができる。それは希望でもあり、祈りでもある。

『巨神兵東京に現る』は、どうしようもないくらいの絶望に彩られていた。そこでは希望はむしろスイカにかける塩ぐらいの意味しかなかった。エヴァンゲリオンシリーズでは、外の世界に絶望したら、自分の内側に希望を見出せばいい、という悲惨なまでに閉じた世界だった(新しい劇場版がどうなるかはわからない)。

本作は、きちんと外に向けた希望が提示されている。それだけでも、2016年に本作が公開された意味がある。そう言っていいと私は思う。

6.

というわけで、本作はなかなか複雑であり、ここ最近の作品の類例には入らないので、本作のことを話そうとすれば、どうしたって自分なりの言葉が必要となるだろう。既存の言葉を使ってしまうと、どこか違うという違和感が残るはずである。

とにかく、すごい作品だった。あと石原さとみはやっぱりかわいい。


Originally published at honkure.net on August 2, 2016.

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