満たされない承認欲求をめぐる話

個性と社会的評価のギャップ

欲求は、落差から生まれる。差異があるからこそ、それを埋めたくなるのだ。承認欲求もおそらくはそうだろう。

社会的動物である人間が、承認欲求を持つことはそれほどおかしいことではない。ただし、それが強すぎると社会的齟齬を発生させてしまう。生きづらさを生むのだ。

強すぎる承認欲求は、言い換えれば満たされない承認欲求と言えるだろう。それはいかにして生まれえるのか。単純に、二つの方向が考えられる。

一つは、欲求の強度が強いこと。落差があまりにも大きすぎる場合、どうしたってそれは埋められない。

もう一つは、満たし方が誤っている場合。喉が渇いているときに海水をグビグビのむようなことをすると、余計に喉が渇いてしまう。それと同じで承認欲求の誤った満たし方は、コミュニケーション不全を引き起こし、それがさらなる承認欲求を強めてしまうことがありうる。卑近な例をあげれば、自慢話がしたくてしょうがない人は、皆から疎まれて誰からも話を聞いてもらえなくなる、というようなことだ。

ダブルバインド的社会状況

個を尊重する価値観はたしかにある。しかし、一方では画一的な教育システムもある。これはギャップだ。

「あなたらしさ」を認める声もある。しかし、一方では均一さに準じる振る舞いが評価されるシステムもある(出ない杭は打たれない)。これもギャップだ。

片方では個性をはやし立てながら、もう片方ではその抑圧が厳然としてある。その間にはさまれた人は、苦しむことになるだろう。

奇妙なピアプレッシャー

「あなたらしく」生きましょう、と誰かが言う。たしかにそれは大切なことなのかもしれない。

しかし、それが「あなたは、あなたらしく生きなければならない」というピアプレッシャーであったらどうだろうか。

周りの人々から暗黙に強制される生き方。それは「あなたらしさ」なのだろうか。

ここにも奇妙にねじ曲がった構造がある。

総クリエーター社会論のウソ

インターネット時代の到来で、クリエーターが大量に増え、それを評価する人の数がぜんぜんおいつかなくなった、という言説がある。私はそれをウソだと思っている。

私は一人のクリエーターであるが、良い作品は良いとできるだけ発信するようにしている。だいたいにして、クリエーターであるからこそ、作品を評価できるのではないだろうか。

多くのろくでもない批評家は、批判しているばかりで、生産的な声援とはほとんど無縁である。

むしろ、実際にクリエーションする人の方が、そこにある苦労を知り、価値を浮かび上がらせる力を持つ(もちろんろくでもなくない批評家は別である)。

問題はクリエーターが大量に増えたことではない。別の根源がある。

評価する難しさ

自分で何かに評価を与えるのは難しい。「これは良いですよ」と口にするのは、自分の価値観を明示するのとイコールだからだ。それは意見の表明とほとんどかわりない。

もしそれが周りから「バカな意見」だと思われれば、自分の評価にも直接つながってくる。だから人は、すでに周りに認められたものを「これは良いですよ」と言いたくなる。自尊心を金庫の奥にしまっておけるからだ。

自分独自で何かに評価を与えるためには、確固たる__とまではいかなくても、ある程度確立された自己強度が必要である。そういう人は他者に承認を与えられるのだ。

おそらくここにループの構造があるのだろう。承認が自己強度を上昇させ、それが別の価値の評価を生み、それがまた別の承認へとつながっていく。

最初の値が小さければ、閾値を超えず、ループは回らない。そういうことなのではないだろうか。

では、どうすればいいのか

考えられるのは、良いというものについて良いと言うこと。少なくとも、それを言える人は言っておくようにすること。それが肝要な気がする。

ただし、ループ的なものに対峙するには、時間をかける覚悟が必要だ。一気に針を進めようとすると、予想外の結果が返ってくる。

逆にじわじわ進んでいるように見えても、閾値を超えれば急激に状況が変わることがありえる。そのような見方で接していくことが大切だろう。今の見える状況が、そのまま線形に未来につながっていくとは限らないのだ。