「所有」することの虚しさ

〜沖縄・久高島で感じたコト〜

年末年始は沖縄に行っていた。正直、年末年始に旅行に行くというのは、ぼくの行動パターンにはなかった出来事だった。

義父に連れられて一家総出で出かけた沖縄。そうでもしないとぼくは旅に出かけない。

理由は一つ、移動時間がもったいない。

そんなことよりは近場の公園、野山、そんな日常の場所で子供たちと濃く遊んでいたい。自分と子供が「わくわく」を感じられる時間にしていたい。

そうは言っても…連れってっていただけるというのなら、ついていきますとも!

神の島へ

その旅の初日、神の島といわれている「久高島」を訪れた。

安座真港からフェリーで約20分で久高島に到着

島内では現地のツアーガイドに道案内をお願いし、聖地と呼ばれている場所や絶景のビュースポットなどを回っていった。

さらに言えば、そもそも島全体が「聖域」。その中でも「聖地」とされている区域、ポイントは次元が違う空間に来てしまった雰囲気すら感じる。

その一つをご紹介しておくと、こちらの写真は実際に「祈りの場」として長年使われてきた場所。今も現地の方々が祈りを捧げにやってくる場所。

火を焚いた跡が見てとれる。

イシキ浜と呼ばれる浜辺のほど近くに忽然と現れる「祈りの場」。正直、浜辺の脇にある草むらにポツンとスペースがあるだけなのだ。だが、実際にその場に立ってみると確かに感じるものがある。

現地ガイドの話によると、「感じ方は色々あるけれど、こんなことをおっしゃる人が多いよ。」

帰ってきた感じがする。
風が吹き抜けているのを感じる。
なぜか涙が止まらない。

帰ってきた感じというのは僕も強く感じていた。初めての場所なのに違和感がまったくない。それ以上に、懐かしさを覚えるくらいなんだ。


聖地以外に人々が暮らしている

島全体が「聖域」であり、ところどころに立ち入りが制限されるほどの「聖地」が点在し、人々はその合間に暮らしているような印象を抱く。

実際には、道中に民家も存在するのだが、極端に少ない。

島の南部に位置する港の周辺部にのみ民家は存在し、北へ上ると畑や森が広がる。至るところに聖域が存在するため、むやみに開墾もされていない。

そんな畑を見ていると不思議な光景を目にすることになる。

畑内に石が並べてある。

等間隔で並んでいるようにも見えるが、そうでもない。石そのものの大きさもまばらだ。子供がふざけて遊んだ後のような感じだ。

ガイドにそれについて話を聞いてみた。

「あのジグザグに並んでる石。あれって何ですか?」
「久高島には私有地というのがないんです。」
「全てですか?」
「あぁ、なので島全体が島民のもの、みんなのものという考え方だ。」
「畑の石は?」
「一応の境界線だ。ここまでは俺が作ってる。ここからはあなたが作っている。ただ、それだけだな。」

誰かが石を動かせば変わってしまう境界線。それがここでの日常。

所有することを放棄している

僕は思う。

みんなのものであるということは、誰のものでもないということと同義ではないだろうか?

人は何かを所有すると守りたくなる。そして、主張する。これは俺のものだ。ここからは俺のものだ。

また、持つものが存在すると、持たざるものはそれを所有したいと欲するようになる。

争いとはそんなことの繰り返しじゃないだろうか?いま現在存在する争いも基本的には同様であろう。

全ては所有することから始まっている。

ミニマリスト的になるが、僕はミニマリストでもない。ただ、「所有」するということに対して非常に虚しさを感じる出来事だった。


この記事は以前にnoteで公開した記事を一部修正・加筆したものです。

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