「ツイート」って何だっけ

心潤すコミュニケーション

たこ
Salad
7 min readJun 2, 2020

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ツイートは呟き

ツイッターはその名の通りツイートする場所です(当たり前すぎる)。

tweet | twiːt |〈小鳥が〉チッチッと鳴く, さえずる.

— ウィズダム英和辞典

本来 ”tweet” は小鳥のさえずりのことであり、またそれ故Twitterのロゴは鳥をあしらったものであるわけですが、最近Twitterが「さえずり」を聴く場所からあまりにかけ離れていると感じるようになりました。

それは単にTwitter上で怒号が飛び交うようになったとか、プロレスが起きてるとかそういうことではなく(それもそれで問題なのですが)、ツイートするという行為自体がもはや「つぶやく」という概念を完全に逸脱していると思うのです。

つぶやくとは、要はボソボソなんか言ってるみたいな状態なわけです。「腹がへった」とか、「面白い形の雲があるなぁ」とか、「暑い」とか。

ツイッター始めたての頃にすごい面白い商品をお店で見つけて「うぉーめっちゃおもろいなあ」と1人で喚起していたんですが、その時「あ、こういうどうでもいいけどちょっと感動したり嬉しかったりしたことをTwitterならつぶやけるのか!」と感動した記憶があります。

Twitterとは要は「ねえねえ、あれよくない?」みたいに隣にいた友達とか家族とかにちょっと声をかけるようなどうでもいいことをつぶやく場所であり、それこそがまさにつぶやきなんじゃないかなあと思うわけです。

でも昨今、というか割と早い時期から(?)、自分も含めてですがそういう使い方がされてないような気がするんですよね。

みなさんつぶやくのではなく、どこか様々なことを「宣言」や「発言」をしているような、そんな感じ。

私は今こんなことをしています!こんな考えです!私はこれが嫌いでこう変えていきます!

みたいな、語尾に「!」がつきそうな文章が「つぶやき」として交わされている…。だから、誰かが称賛されてると妬ましく思ったり、自分の言葉が受け入れられたら歓喜したり、不満を言われたらひどく落ち込んだりするんじゃないでしょうか。

果たしてこれらはつぶやきなんでしょうか。「つぶやき」は、誰かと一緒にいるときにちょこちょこかわすみたいな、至極どうでもいい、存在感はなくともゆるいコミュニケーションを形成し私たちの心を潤してくれるような言葉のことを指すんじゃないでしょうか。Twitterがつぶやきを通したコミュニケーションを図るツールとしてその機能を果たし続けていれば、やはり同じように心を潤してくれていたかもしれません。というのも、実際に会って話しているような友達同士との鍵垢でのTwitterを介したコミュニケーションは全く不快ではないですし。みんな本当に「つぶやいてる」だけですから。

この「つぶやき」の「発言」化が、それを我々が意識するしないにかかわらず、TwitterだけでなくSNSの空気感に大きな影響を与えているのは確かでしょうし、やはり今後インターネットを居心地の良い場所にするには発信される情報に対するその根本的な無意識下の印象を変えるような、システム自体の仕組みの改変が必要ではないか思いもします。

それは単にTwitterのアルゴリズムやUIを変えるだけで済む話ではないのかもしれません。

活字のみで交わす会話

自分のツイートの引用で恐縮です。特に日本語だと活字から相手の表情を汲み取れない傾向が強い気がします。やはり言葉は文語と口語では受け取れるものや受け取る印象が大きく異なりますし、またこれはどの言語も同じでよく言われることですが、間や抑揚、相手の表情やその場の空気感によって言葉のそれぞれの単語や文章の重みって大きく変わってきますよね。

今のこの上の段落自体(「自分の」〜「よね。」)もまさしくそうですが、これを例えばプレゼンで話したとすると割と普通に聞けると思うんですが、文章としてこのように書き起こすと、どことどこがつながっているか少しわかりづらい(例えば句読点で文が分けられているとして、二つ目と三つ目、四つ目と五つ目がそれぞれ繋がっているとか)しあまり読みやすくないですよね。なのでこの段落のようにカッコで括って補足するような形にして表現するわけです。文として書き上げるにはこのように修正を加えてなんとか言いたいことに近づけなければならない場合が多々あります。

さらに、面と向かって会話をするときはある程度言葉の使い方が間違っていたり足りなかったりしても、身振り手振りなどの他の情報によってそれらが補完できますが、文章だとその言葉以外の情報が何もないですから「?」となったらもうそこで終了なわけです。短文だと特に。

このようにそもそもテキストによるコミュニケーションには人間が自分の繊細な意思を的確に表現し、伝達するには限界があり、それにコミュニケーションの根本を頼っている今のSNSはやはり設計自体に大きな欠陥があるのではないでしょうか。

国語の現代文の文章のように、段落分けがされていたり、「|」みたいな記号があってそこに気持ちを込めれらたりするわけではないですから、僕たちがそこでできることといえばせいぜい「www」で草を生やしてみたり顔文字( ・∇・)を使ったりする程度。外国にもそう言った文化はありますが日本は特にこのような短絡された文字のみでのコミュニケーションにおける表現方法の開発が抜きん出ているように感じます。しかしそれでもやはりうまく行っていないわけです。

そう言う点で考えていくと、例えばTwitterでいろいろ問題が起きるたびに話題にあげられるマストドンなんかも結局はTwitterの根本的な問題解決ににはなり得ないのかもしれません。Twitterとの違いはサーバーが分散型と言うことくらいで、トゥート(Twitterで言うツイート)やいいねやブースト(Twitterで言うRT)などどれもTwitterを基に作られているので。

呟ける場所が欲しい

単につぶやくと言うことにフォーカスを当てたもっとゆるい場所が絶対に今のインターネットには必要だと思い、そんなサービスが出てこないものかなと期待しています。ですが、そのコミュニティの空気感とその維持を一生懸命やらないとコミュニティを荒らしたり自分勝手に利用してくる人が絶対に出てくるでしょうから、結構難しいのかもしれません(それが無意識な一般人によって行われることも多いからさらに厄介)。

それに、Twitterは今や本来の「つぶやく」と言う概念とは関係ないところに価値が創造されています。ニュース等の情報源として、コンテンツとして、(芸能人や有名人等の)ブランディングや芸能営業の場として、など「つぶやき」とはかけ離れた活動が盛んに行われています。初期に掲げていた概念とかけ離れてしまうと言うのはこのMediumでも起こっているような気がしますし(果たしてMediumの文章のことをstoryと呼んでいる人がどれほどいるのか)、それは創設者の性格な気もするので(TwitterとMediumは創設者が同じですからね)仕方ないと思います。それにTwitterがそのように様々な情報が行き交う、いわば幹線道路のような役割を果たすことは重要であり、今やそれがインフラと化しつつあります。

しかしTwitterがそうなったのなら余計に、逆にちょっと入り組んだ、子供がキャッチボールでもして遊べるような裏路地も欲しいよねとやっぱり思っちゃうんですよね。

Twitterが担うべきであったかもしれない緩やかで心潤す「コミュニケーション」として「つぶやき」をみんなで楽しくできる空間が欲しいなあと強く思うのです。

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