展望記憶

駅前の郵便ポストに、後でハガキを出しておいて、といわれた。

これを引き受けたときは、未来にやることを覚えておく必要があるから、思い出すのは未来であるにもかかわらず、必要なのは記憶力である。

これを、心理学では展望記憶、または未来記憶という。

そもそも展望記憶という記憶力を発揮するということは、かなり大きな無駄なのではないかと、最近考えるようになった。

私のように、1日の中のやるべきことをかなり詳細にタイムラインで用意してあるものにとって、展望記憶を発揮する機会というのは、ほとんどまったくない。

たとえば、今日、昼過ぎにはテニスにいってきた。その後おやつを食べた。そして今、これを書いている。これが書き終わったら、カーテンを閉める。

この一連の行動は、すべて現在考え得る限りの要素や要望が考慮に入って決まったものである。動かすこともできるが、非常に動かしがたいものである。

たとえばこの後にやることになっている「カーテンを閉める」というのを、覚えておいて未来に思い出して遂行する、などという流れになることはあり得ない。ここでカーテンを閉めるべきであり、タスクのタイムラインにもそう書かれている。これは水が低いところへ流れ込むように、必然的で当然の行動なのである。

展望記憶を発揮するということには、何か無理な力を自分にかけるという印象がある。意志力を発揮するとか、セルフコントロールするといった言葉にも、実は私には同様の、なんだか変な力を加えているという感じがつきまとう。

そういうことをしなければならないこともあるだろう。しかし、やはり極力避けるべきなのだ。展望記憶の発揮や、セルフコントロールというのは「伝家の宝刀」であり、そんな刀をめったに抜くものではない。

やや理想的な話になるが、ちょうど眠いときに床に入り、ちょうど起きたくなったら目を覚まし、ちょうどよいときに水を飲む。そういうふうに仕事も進められれば、やらねばならないときに、モチベーションを高めて、自分をコントロールしたりしなくてもよくなる。

しかも、ちょうどやりよいようにやっていく自然な一連の行動が、振り返ってみると、あたかも予言書のごとく、タスク管理のタイムラインに記されている。そういうのが理想だ。

One clap, two clap, three clap, forty?

By clapping more or less, you can signal to us which stories really stand out.