ロシアの最果て

Akihiko Satoda
Far Off
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9 min readDec 27, 2016
フォート・ロスは、サンフランシスコから西海岸を2時間ほど北上したところにある(Google Maps)

カリフォルニアのソノマ郡にあるフォート・ロス(Fort Ross)は、ロシア帝国のアメリカ進出の最南端拠点、つまり最前線となった要塞の遺構である。1867年にアメリカが購入する前のアラスカがロシア支配下にあったことは日本でもよく知られるが、ロシアのアメリカ植民拠点がカリフォルニアにもあったことはおそらくあまり意識されていない。この地が入居地として賑わい機能したのは1812年から1841年までの30年弱という束の間であった。

1812年といえばチャイコフスキーの序曲にもある通り、ナポレオンのモスクワ遠征が失敗し、欧州におけるロシアの覇権が破竹の勢いを見せた年である。そしてロシアがカリフォルニアに拠点を置いた時期は、カリフォルニアがちょうど2つの戦争に挟まれた混乱期と重なる。即ち、スペイン領からメキシコ領となるメキシコ独立戦争から、アメリカへ組み込まれる米墨戦争までである。

ロシアの東進

シベリア鉄道の北海道への延伸計画が先日話題を呼んだが、18–19世紀のロシアの北太平洋進出の主眼は毛皮取引である。ロシアのアメリカ進出を推し進めたのは、日本史でも出島来航で馴染み深いニコライ・レザノフだ。

レザノフはロシアの北米進出事業を1799年に露米会社(Russian-American Company)として会社化する。1804年にアラスカのシトカに拠点を立てるが、あまりうまくいかなかった。アラスカはまずサンクトペテルブルクから遠く、さらに当時は天然資源に恵まれなかった(アラスカの重要性がエネルギー・地政上見直されるのは第二次世界大戦後である)うえ、毛皮取引に重要なラッコが過当捕獲で激減していた。

レザノフの日本来航も、要は露米会社の経営難打開の一環の狙いであった。日本との交渉に失敗した後はバハカリフォルニアへの狩猟航海が計画される。1806年にレザノフはスペイン領サンフランシスコの砦(プレシディオ)を訪れて何とかアラスカへの緊急物資を調達し、カリフォルニアの豊かな資源に感銘を受けるが、通商をとりつけるには至らなかった。

近くのジェナーを流れる「ロシア川」の河口

フォート・ロスの興り

1811年までにはアラスカのシトカの管轄だったイヴァン・クスコフが名勝ボデガ湾へ至り、サンフランシスコ湾のラッコ猟の拠点とする。1812年に露米会社は入江と森に挟まれたこの地に旗を掲げ、シベリアやアラスカに建ててきたものと同様の砦を築く。入居者は100人強で、25人がロシア人、残りはアリューシャンを故郷とするアレウト人毛皮猟師だった。

これが現在フォート・ロスと呼ばれるものであるが、フォート・ロスの名前は意外に遅く、1840年にカリフォルニアを訪れたフランス人によって記される。Rossはもちろんロシアを意味するが、言語学者ウィリアム・ブライトによればロシア人にとっていささか情緒的な響きをもつという。

開放されているフォート・ロスの遺構

1817年に露米会社は先住民と通商を始める。先住民への見返りは、「ロシアの盟友」のメダルと、スペイン人からの保護である。これはヨーロッパ人とカリフォルニア先住民との間に交わされた初めての条約となった。

展示されているキャノン

フォート・ロスの斜陽

フォート・ロスは長続きしなかったが、これは欧州の激変もあり、ロシア中央の支援を仰ぐことが難しかったことも大きな理由といえる。1801年にモスクワで戴冠した気鋭のアレクサンドル1世の治世は、欧米で芽生え始めた自由主義革命の影響を受けたが、1812年に宿敵のフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトを破ってからは、反動政治へと逆行する。1825年の帝の崩御後、中央では自由主義を延命せんとデカブリスト(12月党員)の乱が起こる。これを鎮めた新帝ニコライ1世はウィーン体制に同調した保守反動体制を敷く。

欧州各国が風雲急を告げるというときに、ロシア人が多大なコストをかけて遥かアラスカやカリフォルニアというフロンティアに残ることに、夢想以外の説得力はない。現場の熱意と裏腹に、1830年代にはロシア政府にアメリカ大陸への野望と呼べるものはなくなっていく。

ロシアのカリフォルニア到達は逆に、西進する新興アメリカが1823年のモンロー教書で欧州との相互不干渉を主張する背景の一つとなる。

メキシコとの決裂

1836年に露米会社は、フォート・ロスを既成事実とし撤退を避けるための最後の取り組みとして、スペインに代わりカリフォルニアの覇権を握ったメキシコとの交渉を始める。メキシコは、フォート・ロスをロシアの正式な領土と認める代わりにメキシコ自身の独立を認めるようロシアに求めるが、ニコライ1世はこれを拒む。

1838年にフォート・ロスの最後の監督となったアレクサンダー・ロチェフは旅慣れた、極めてヨーロッパ的な人物であった。蔵書、ピアノ、モーツァルトの楽譜をフォート・ロスへ持ち込み、家族と住んだ家の遺構が今なお残る。カリフォルニアの自然にたいそう惚れ込んだロチェフは個人的には反対であったものの、結局はフォート・ロス売却のための込み入った交渉を進める。露米会社はメキシコへの売却を進めようとするが、メキシコはこれを受け入れなかった。

ロチェフの家族が使ったであろう部屋

ゴールドラッシュ、現代へ

フォート・ロスは1841年に、スイス系移民のジョン・サター(サンフランシスコのサターストリートに名を残す)へ3万ドルで売却される。一方アラスカも南北戦争後の1867年にアメリカへ売却され、ロシアはアメリカ大陸から撤退する。

1848年頃、カリフォルニアの支配は拡大したアメリカへ移る。1849年にゴールドラッシュが起こるものの、サターは残念ながら成功者に名を連ねることはなかった。その後にフォート・ロスを買い取ったアメリカ人のオーナーたちは建物や農地を資産としてしっかり維持したため、フォート・ロスは廃墟化を免れ、1906年に州立歴史公園となって今に至る。

RAC(露米会社)のロゴと、先住民によるこの地の呼称(MAY-TEE-NEE)

カリフォルニア史におけるフォート・ロス

ロシアの国策的には成功とはいえなかったフォート・ロスだが、カリフォルニアの歴史においてフォート・ロスを起源としてもよさそうなものをみてみる。

  • 風車:フォート・ロスはアラスカへ輸送される農畜産物の生産拠点であり、カリフォルニア初の風車が造られた。1841年時点でフォート・ロスには風車が2つあったが、ホリネズミによる獣害と、気候の不適合により農業そのものはうまくいかなかった。
風車のレプリカ
  • ヨーロッパ式のイノベーション:ガラス窓、ストーブ、木製家具などのヨーロッパのライフスタイルが積極的に持ち込まれる。
  • 学術調査:カリフォルニア先住民の民俗や自然を最初に記述したのはフォート・ロスに滞在したロシア人科学者たちとされる。
  • 造船:1816–1824年の間に4隻の船が建造され、カリフォルニア初の造船となる。しかし木材の用法が悪く、航海に耐えたのは長くても6年だった。
  • ワクチン:フォート・ロスもまた、はしかなどの舶来の疫病によってアメリカ先住民の人口に打撃を与える震源となるが、1821年に、カリフォルニア初のワクチン投与が、露米会社の船員によってモントレーで行われる。
  • ロシア正教:1820年代にカリフォルニア初の正教会チャペルが作られたが、正教の司祭はいなかった。1836年にここを訪れたイオアン・ヴェニアミノフ・ヴェニアミノフが宗教的な一切を執り行った。ヴェニアミノフはアラスカ先住民への布教に尽力した人で、アレウト語にも長け、アラスカ主教のちにモスクワ府主教となった。
チャペルの鐘にはサンクトペテルブルクの商人の名前が刻まれる。

環境破壊

先述のように、フォート・ロスはその始まりからして、ロシアを含む欧米諸国によるラッコ乱獲という歴史と切り離せない。1805年頃からロシア人は次第に捕獲制限を設け始めるが、こうした努力はアメリカのアラスカ購入後、なし崩しに消滅する。1911年に国際保護が始まり、徐々にラッコの数は回復を見せるようになる。

現在のフォート・ロス

フォート・ロスに現在残されているものは、残念ながらほとんどが再建されたものである。ロチェフ邸だけがわずかに原形の一部を残している。

ロチェフ邸の前でhistory talkに耳を傾ける来訪者

細々と営まれた露米会社とフォート・ロスの一幕は、カリフォルニアが我々の知るカリフォルニアとなろうとする前の歴史の僅かなゆらぎを垣間見せる。イギリスが大西洋を越えてアメリカを維持することがなかったのと同様、ロシアが太平洋を越えてアメリカに権益を維持することもなかった。当然ながら200年前、リモートであるということはそうたやすいことではなかったのだ。

参考情報

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