狂気の時代のカンボジアを生き抜き、未来への希望の種をまきつづける人

Kenji Nakamura
SD-LAB
Published in
9 min readJul 30, 2016

カンボジアの狂気の時代

1975年4月17日。
カンボジア。

ポルポト派ひきいるクメールルージュが首都プノンペンに攻め入り政権をとりました。汚職だらけで市民生活を困難にしていたロンノル政権を追い出してくれたと、当時のプノンペン市民は喜んでいました。

当時のカンボジアでは、権力者は腐敗にまみれ、大国に常に存在を脅かされ、市民の生活は大変なものでした。それでも都市部はまだましで、農村部の生活は困窮を極めていました。

だからこそ、
「農業中心の豊かな社会を作ろう」
というスローガンをかかげ、 国民を苦しめて続けたアメリカや権力者を
追い出そうとするクメールルージュの凱旋は多くの市民に喜ばれたのです。

しかし、それはつかの間の喜びでした。

カンボジアの国民を待っていたのは、歴史上類を見ないほどの恐怖政治でした。職業はもちろんのこと、信仰や表現、結婚など、すべての自由が奪われました。特に、政治家、軍人、官僚、教師などの知識人への弾圧は激しく、多くの人が殺されました。

字の読み書きが出来る、
眼鏡をかけている、
外国に行ったことがある、
など、あまりにも極端で単純な理由で多くの人が拷問され、殺されました。

クメールルージュが政権を追われるまでの期間に命を落とした人の数は
100万人とも300万人とも言われています。

奇跡の人 コン・ボーンさん

当時、プノンペンで日本の新聞社のアシスタントをしていたコン・ボーンさんもこの狂気に翻弄された一人です。

都市部からの強制移住の後、新聞社のアシスタント、つまり、知識人であることがばれ、家族から離されて処刑場に連行されます。

「良い仕事を与えるから」と言われて連れてこられたのが処刑場。彼の目の前で9人の仲間が 殺されていきます。次は彼の番です。

「どうせ殺されるなら・・・」

昔、親戚に教わった護身術を思い出した彼は意を決して兵士を倒し、森に駆け込み、必死で逃げ、運が彼を味方し、一命をとりとめました。その後、食べ物も着る物もない状態から故郷プレイベンを目指します。

途中、クメールルージュに銃撃されて大怪我をしますが、知恵と勇気をふりしぼり、なんとか生き延びました。多くの人を助け、多くの人に助けられました。何度も奇跡が命を救ってくれました。

そして、クメールルージュが権力の座を追われるまでの2年半におよぶ
強制労働と集団生活をなんとか生き延び、難民キャンプへとたどり着くことができました。その後、彼が勤めていた日本の新聞社の協力もあって、1981年、難民として夫婦で来日。

慣れない日本での生活や仕事の中でもいつも気になるのは故郷カンボジアのことでした。

教育支援の開始

多くの人が殺されたことで、当時のカンボジアでは社会のあらゆる場面で
人材が不足していました。さらに、貨幣、市場システム、行政システム、学術、伝統文化、仏教の信仰など、すべてが否定・破壊されていたため、復興の道を歩むことは困難でした。

そんな故郷を想い、時を経た1990年の夏。

コン・ボーンさんは、10年間、夫婦で少しずつためたお金で母国カンボジアの土を踏みました。故郷プレイベンに戻って彼が見たのは、壁もなくなった小学校の教室で地面に座って勉強をする子どもたちでした。

校舎だけではありません。ノートも鉛筆も、教師も、教育に必要なあらゆるものが不足していました。

「カンボジアがあのような歴史をたどったのは教育が行き届いていなかったからではないのか?」

その想いに突き動かされた彼は、日本に帰国後、NGOを設立。多くの支援者の協力を得て、1993年、この地に学校を建てるに至りました。阪神大震災後、ボランティアや支援活動が 活発になるよりも前の話です。

それから23年の月日が流れました。

コン・ボーンさんが始めた活動は、国内外の多くの支援により、カンボジア日本友好学園として継続・発展してきました。学校を建設したり、必要な物資を援助したりすることから始まった活動も 支援の幅を広めています。

例えば、カンボジアでは学校の教師の給料がとても安く、副業をしなければ生活するのも困難です。その結果としてよくあるケースとして、教師が学校の近くで私塾を開くというものです。カンボジアでは小学校でも進級試験があるのですが、この私塾に通うことができる生徒は進級できるが、
通えない子どもはなかなか進級できない、というケースがたくさんあります。または他の副業をするため、教師が学校に来ないことも多々あります。残念ながら、私がカンボジアに関わり始めた18年前から現在に至ってもこうしたケースをよく耳にします。

こうした状況に陥らないよう、同校では、国から支払われるのとは別に教師に追加の給料を渡しています。これによって適正な給料をもらうことができた教師の多くがきちんと学校に来るようになったとのことです。シンプルですが、こうした取り組みまできちんとなされている教育支援は多くないように思います。

支援によって多くの学校が建設されたものの、こうした課題に継続的かつ効果的に取り組むのは至難の業なのかもしれません。他にも、教育支援には取り組まないといけない課題がたくさんあります。

教師の給料を多く払うには?
援助が人々の依存心を助長しないようにするには?
自分たちで持続的に学校を運営して行くには?
基礎教育だけでなく就職の際に役立つスキルを教えるには?
子どもたちの自主性や創造性を養うには?
子どもたちが将来自分たちで誇りある仕事によって自立するには?

他にも、 衛生環境の向上や、雇用の創出、地域コミュニティの復興など、
地域のその他の課題も教育の継続には密接に関係してきます。

支援の先にあるもの 希望に満ちた取り組み

このように複雑に絡み合った課題に対する友好学園取り組みは、大きな希望を感じさせてくれます。その1つが、友好学園の生徒と日本の徳島称号高校の生徒たちによる共同商品開発開発プロジェクトです。

両国の食文化、考え方などを理解しながら、 カンボジアにある素晴らしい食材も活用して、商品を開発・販売する。しかもそれを高校生同士が行い、教師や専門家など、大人はそれをサポートする。

商品の価値をきちんと消費者に届けて適正な収益を得る。その収益を学校の運営費にあてる、というものです。助ける、助けられるという関係を越えて、 未来を担う若者たちが1つの物事にともに挑戦する素晴らしい活動です。僕もカンボジア名物、クイティオの商品開発でサポートさせていただいています。

当然、圧倒的に異なる環境で生きてきた人が何かをともにするのには困難がつきまといます。失敗もたくさんあるでしょう。でも、そんな困難を仲間とともに乗り越える経験が彼ら・彼女らの財産となります。自分たちで乗り越える力が身に付きます。

この活動には、支援活動のみならず、カンボジアをはじめとした発展途上国で事業を行うときのヒントがたくさんあると実感しています。

こうした一連の取り組みが認められ、コン・ボーンさんは日本政府より旭日賞を受賞しました。

筆舌に尽くしがたい苦難を乗り越え、人々のために奔走しつづけるコン・ボーンさんは少し会うだけで、その優しさや強さを感じることができます。こうした偉大な人とのご縁をいただき、その活動に関わらせてもらえることがとても幸せだと思います。

コンボーンさんが思い続けてきた未来への希望の種まきを一つでも多く成し遂げていきたいと思います。

私が企画するソーシャルラーニングツアーの話をしたところ、とても共感をしてくれ、コンボーンさん自らがお話をしてくれることになりました。また、友好学園への訪問や同校での授業づくりにもご協力をいただけることになりました。

現在のカンボジアを理解するには、カンボジアが歩んで来た道を知ることが必要です。その点で、激動のカンボジア現代史を生き抜き、未来への希望の種を植え続けるコン・ボーンさんのお話をうかがえるのはとても貴重な機会です。一人でも多くの方に、直接コンボーンさんのお話を聞いて欲しいと思います。

ご都合が合えばぜひご参加ください。(友好学園に訪問できるのは、プノンペンでのツアーに限ります)

すべての変化は自らの内面の変化から起こる
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