固有名詞はなぜ匂い立つ

Takeshi Nishiyama
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6 min readAug 27, 2018

名詞には奥行きがある。

「彼はコーヒーが好きだった。」

この一文からわかることは、書いた人の知人である「彼」が「コーヒー好きだった」だということだけ。それ以上でも、それ以下でもない。

「彼は缶コーヒーが好きだった。」

コーヒーを缶コーヒーに変えてみる。それだけの違いでも「なんで缶のコーヒーが好きなんだろう?」と、想像の余白が生まれる。彼はスタバでマックブックを開く、サードウェーブ系男子ではなさそうだな、とか。いや、偏見に塗れた憶測だけれども。ただ、「コーヒー」よりもグッと奥行きが生まれたことは確かだろう。

「彼はマックスコーヒーが好きだった。」

さらに缶コーヒーを、固有名詞にしてみる。マックスコーヒーを知らない人は、「知らん商品名が出てきた」「けれど、特定のコレが好きってことは、なんか理由があるんやろな」と考える。

知っている人は、途端に想像が膨らむだろう。「彼はチバラキの出身かもしれない」とか、「あのコーヒー入り練乳かよww」とか。それぞれの記憶の中にある「マックスコーヒー」が浮かび上がって、言葉が機械的に示す以上の意味を掬い取る。

この文章は、たとえばこんな感じで続くのかもしれない。

「彼はマックスコーヒーが好きだった。彼と知り合ったばかりだったあの頃は、この毒々しい黄色い缶に入った、脳がしびれるように甘ったるい飲み物の美味しさがまったく理解できなかったなあと、それほど昔のことでもないのに、懐かしく思える。」

マックスコーヒーを知らない人でも、なんとなく、この文章を書いてる人にとって「マックスコーヒー」に特別な思い入れがあることが感じ取れる。

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固有名詞は、他でもない“それ”を指す存在だ。だから、固有名詞を使うと、自然と「他でもない“それ”」が出てきた理由への想像を、読み手に喚起させる。

「私は女優にはなれない」と言うより、「私はアンジェリーナ・ジョリーにはなれない」と言った方が、発言者のアイデンティティが伝わる。なぜ、たくさんいる女優の中から、彼女を引き合いに出したのか。同じ女優でも「私は樹木希林にはなれない」「私は芦田愛菜にはなれない」と言うのとは、えらい違いだ。

一般名詞は持たず、固有名詞が持っているもの、それは時間。固有だからこそ、それがこの世界に存在してきた時間を、言葉に纏う。

固有名詞が持つ時間には、2つの種類がある。1つは、それ自体が経てきた「歴史」としての時間。もう一つは、それと読み手の間で育まれた「関係値」としての時間だ。これらは読み手に対して別々に働くものではなく、相乗的に効果を発揮する。

表現として効果を期待する上では、前者は読み手の「知識」に依存し、後者は読み手の「思い出」に依存する。それ故に、前者はある程度のコントロールが可能であり、後者は読み切れない。だけど、時に表現として圧倒的な強度を持つのが、きっと後者だ。だって思い出こそ強烈に“個有”だもの。

「新宿は豪雨」――たとえばこの五文字で、貴方の胸の内に、どれほどの感傷が沸き立つだろうか。それは「貴方」と「新宿」の関係値に左右される。人によっては「池袋」だったり、「溜池山王」だったり、はたまた「九十九里浜」だったりした方が、より深く刺さるのだろう。

ものを書く私たちは、固有名詞が持つ時間を有難く拝借して、書き出す文に厚みを持たせようとする。

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言語学には、「デノテーション」と「コノテーション」という概念がある。学者によって定義のニュアンスが異なるので、ここでは詳細には踏み込まないが、覚書としても少し整理しておきたい。

デノテーション(denotation)…外示。言語記号の顕在的で最大公約数的な意味。

コノテーション(connotation)… 内包。共示。潜在的意味。

ごく簡単にかみ砕けば、デノテーションは言葉が持つ“辞書的な意味”。すなわち「コーヒー」のデノテーションは、「コーヒーの木の実をいって粉にしたもの。また、それを熱湯で浸出した飲物」。これ以上でも以下でもない。

一方、コノテーションは言葉が持つ“イメージから連想する意味”だ。「コーヒー」だったら、「ちょっと大人っぽい」とか「こじゃれてる」とか、そんな感じだろうか。

コーヒーだと少しわかりにくいが、たとえば…

・彼はバラの花束を抱えてやって来た。
・彼は菊の花束を抱えてやって来た。

上記の2つ文では、忠実にデノテーションだけを受け取れば「彼は花束を持ってきた」という描写で、大差はない。けれども、私たちは「バラ」や「菊」に、辞書的な意味以上の何かを想起する。想起せざるを得ない、と言った方が正確かもしれない。読み手は反射的に思いを馳せてしまう。「バラの花束」を抱えた彼の背景にある物語、「菊の花束」を抱えた彼の行き先と胸の内を。

コノテーションは時代や文化、時にはその瞬間の心理状態の影響を強く受けて、姿かたちを変える。だから、注意が必要だ。自分が特定のコノテーションを意識して使った言葉が、相手に意図通り届くとは限らない。「ガラケー」や「MD」という言葉に懐かしさを感じられるのは、それを使っていた人間だけだ。

また、自分が何の意識もせず使った言葉が、相手の中でこちらが意図していない意味を持ち、傷つけてしまうことだってある。言葉選びは難しい。

「意図した通りに受け取ってもらおう」と拘りすぎることは、ただの書き手側のエゴなのかもしれない。文章は書き手の身体から離れた瞬間、もう読者のものだ。

それでも、使う言葉がどんな跳ね方をするのか、できるだけ予想はしておきたい。ラグビーボールのようにバウンドが読めないものではあるのだけれど、丁寧に投げればいくらかは、相手も取りやすくなるだろうから。

逆に、受け取るときは、精いっぱい追いかけたい。取れるわけないだろうってボールも。相手が取れなくてもいいよなんて言っていたとしても、投げられている以上は、書かれて読まれる場所にある以上は、何か伝えようとしていることがある。

言葉は運動する。意味は揺れ動く。固有名詞ともっと仲良くなるには、言葉の運動について、想像力を働かせ続ける必要がありそうだ。それはもう、人付き合いとほとんど同じようなものなのかもしれない。底抜けに面倒で、面倒で、面倒で、本当に面倒くさくて、愛せる営みだ。

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Takeshi Nishiyama
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旅は道連れ世は情け、恩は掛け捨て倍返し、残す仕事に身を削る、湯とり世代の創食系。ばっかじゃなかめぐろ、なにゆうてんじ