今を的確に言葉で表現できるのは、たぶん今だけじゃない。
中学生の頃の生活記録なんかを読み返したりすると、「よくもまあ、こんなこっ恥ずかしいことを…」と、過去の筆致に恥じらいを覚えたりする。でも、そればかりじゃなくて、拙いなりに言葉が生き生きしていて、ちょっと嫉妬してしまったりもする。
人間は忘れる生き物だ。「エビングハウスの忘却曲線」によれば、人は一度記憶(学習)したことを、20分後には42%忘れ、1時間後には56%、1日後には67%、そして1カ月後には79%忘れるそうだ。
そして、これはおそらく「記憶しようとしたこと」に限った話である。もっと些細な、日常から受け取った機微、その都度わき上がる喜怒哀楽などは、99%以上忘れ去られていく。
それは、致し方のないことだ。全部覚えていては、きっと脳が苦しいだろう。忘れるという機能がなければ、きっと人は生きづらいだろう。
だから物を書いて生きる人間にとって、今感じたことを、今書いておくことは、とても意味のあることなのだと思う。
15歳の時にしか、受験生の時にしか、仲直りした時にしか、プロポーズを受けた時にしか、こうして今日というこの日この夜にしか、書き留められない気持ちがある。それは、紛れもない事実だ。心はどんどん成長するし、移り変わる。
…と、ここまでは一般論のおはなし。
大学の時、そんな“感覚的な当たり前”を、覆してくれた人がいる。詩人の谷川俊太郎さんだ。僕は谷川さんの「春」という詩が大好きだった。
講義のゲストで来ていた谷川さんに、僕はドキドキしながら質問をした。
「どうして大人になった今でも、思春期の子どもたちの胸の内を的確に表現するような、瑞々しい言葉を書き出せるのですか?」
谷川さんは、こう答えてくれた。
「紆余曲折を経た今だからこそ、あの頃の気持ちを的確に描写できる…という場合もありますよ。その時感じた気持ちがリアルに言葉にできるのは、その瞬間だけ、とは限りませんから」
(※もう数年前のことなので、一言一句正確なわけではないが、ニュアンスは間違いない)
この言葉を聞いて、なんだかよくわからないけれども、少し楽になった。今、今、今と急がなくていいのだと。もちろん、すぐに書いて伝えた方が、周りの人には面白がってもらえるかもしれない。でも、必ずしもそうするべきものばかりではないと知れたことは、筆が遅く自己表現が不得手な自分にとって、いくばくかの救いだ。
うまく言葉にできない、けれどもなんとか言葉にしたい――そう思ったことは、いつか上手に表現できるようになる日を楽しみに、ちゃんと取っておこう。今すぐ書けなくても、いつか思うように書ける日がくると信じて。
そんな気持ちを忘れないでいたいし、こんな言葉を残してみたい。
【追記】
よかったら、こういう文章とか、書くこととかについて、とりとめもなくお話しましょう。