何気ない日常をコラムにする手順

Takeshi Nishiyama
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11 min readApr 8, 2017

「書きたいけれど、書くべきことが思いつかない」

そんな相談をよく受ける。

大丈夫、そんなことはない。絶対に。

日々の何気ない行動ひとつ取っても、丁寧に掘り下げれば、必ず「読ませる」内容に、つまりはコラム・エッセイ的な文章になる、はず。

行動の決定には、必ずその人しか持っていない“価値観”が影響する。

「朝はパン? それともごはん?」

「コーヒーが好き? それとも紅茶?」

「きのこの山派? それとも、たけのこの里派?」

「今日はなんでその服選んだの?」

「ねえ、それはどうして?」

その人らしいものの見方や考え方が、生活の一つひとつの決定に、隠れている。それを言葉にしてあげると、事実は少しずつ、物語に近づいていく。

「じゃあ、どうすればいいの?」

ここからは、事実をコラム的な文章にしていく具体的な流れを、順を追って書いてみようと思う。

あくまで、私なりのやり方だけれども。参考になったら嬉しい。

「今日、私はハンバーガー屋さんに行きました。」

例えば、この「ハンバーガー屋に行った」という事実だけを述べた一文を、コラム的な文章に落とし込んでいきたい。

事実のコラム化の手順①:自分に自分でインタビューする

事実をコラム的にするには、「言葉の肉付け」が必要だ。事実だけ並べては、小学生の絵日記のような文章になってしまう。

肉付けのために、まず必要なのは、自分と対話。

自分にインタビューするつもりで、問いを投げ、それに答えて、また問いを投げる。それを繰り返して、「考えていること」を言語化していく。

実際にやってみよう。

~~~~~

―どんな気分で、ハンバーガー屋さんに行きたいと思った?

「今日、私はジャンクなものが食べたくて、ハンバーガー屋さんに行きました」

―なんで?

「久しぶりに、身体に悪いものを食べたくなった」

―どうして?

「ストレスを発散するために」

―なんでストレス感じてるの?

「雨だから」

―今日は雨なんだ、なんで雨が嫌なの?

「休みの日なのに雨だから」

―休みの日なんだ、晴れてた方がよかった?

「久しぶりの休みだし、どこか遠出をしたかった。昨日まで晴れてたのに」

―昨日までは晴れてたんだね、ずっと会社にいたの?

「そう、だから晴れとか雨とか関係なかった。昨日までが雨ならよかったのに」

―それは残念だね。どんなハンバーガー屋さん行ったの?

「モスバーガー」

―なんでモス?

「え、だって美味しいし」

―あんまりジャンクじゃなくない?

「そうだね(笑)」

~~~~~

はい、こんな感じに。ここまで出てきた要素を盛り込んで、できるだけシンプルな文章に落とし込む。いきなり情緒的に書こうとしないで、まずは並べてみる。

“今日、私はハンバーガー屋さんに行きました。”

“今日は、久しぶりの休みなのに、雨が降っている。晴れていたら、どこか遠出をしようと思っていたのに。
昨日までは晴れていたけど、ずっと会社にいたから意味がない。なんで今日に限って、雨が降るのか。
このストレスを発散するために、身体に悪い、ジャンクなものが食べたくなった。
だから、私はハンバーガーを食べに行こうと思って、家を出た。
結局、入ったのはモスバーガーだったけど。”

単純な事実を述べただけより、“目線”や“考えていること”が共有される文章に近づいた感じ、しませんか?

前後関係を明確にするだけ、そんなに難しいことはしてない。

ここまででやったことは…

・自分との対話
・事実の肉付け
・動機の掘り下げ

事実を述べた自分に、自分自身でインタビューしていくと、行動の背景が明確になる。行動の背景が明確になると、「なんでそれをしたのか」という思考のトレースができる。思考のトレース≒追体験だ。

事実のコラム化の手順②:ロジックの飛躍≒ヒューマンエラーを、丁寧に掘り下げる

ここから、もっと深める。まだまだイケる。
さっきの文章中、ちょっとロジックが飛躍している部分がある。

・「ストレスを発散するために」→「身体に悪い、ジャンクなものが食べたくなった」
・「ジャンクなものを食べようとして」→「結局、あんまりジャンクじゃないモスバーガーに入った」

前者は、感覚的には理解できる人は多いかもしれないけど、論理的に直接結びつかない部分。
後者は、そもそも説明不足な部分。

この飛躍が「ダメ」というわけではなくて。
むしろ文章に、固有の“身体性”を宿すための、ポイントになる部分。

ロジックの飛躍、常識とのズレ、ヒューマンエラーを敏感に察知して、そこをさらに、丁寧に掘り下げていく。

~~~~~
―なんで、身体に悪いジャンクなものを食べるとストレス発散になるの?

「なんでだろ…」

―別に、正解じゃなくていいから、つか正解とかないから、思ったことを言ってみよう。

「多分、普段やらない行為だから」

―普段やらないことをやると、ストレス発散になるの?

「うーん、なんか違う気もする…」

―主観的でいいから、本音出してみよう。

「身体に悪いことをするって、背徳感があって」

―うん。

「ちょっと、悪いことだと分かっていることをやると、スッとする」

―うんうん。

「しがらみから逃れられる気がして」

―そっか。

「変かな?」

―ううん、いいと思う。

「そうかな」

―多分、似たようなことを考えている人、いると思うし。

「悪いことしてるよ?」

―でも、他人に迷惑はかけてない。

「うん」

―そういう人たちが読んだら、あ、自分だけじゃないんだって、ちょっと楽になるんじゃないかな。

「なるほど」

―でも、結局モス入っちゃったんだね。

「うん、身体は正直というか、自然に食べたいなって思ったから(笑)」

―なんでだろ?

「…最近、野菜不足してたから?」

―確かに(笑)

~~~~~

上記の会話を盛り込んで、文章をさらに肉付けしていく。

“今日は、久しぶりの休みなのに、雨が降っている。晴れていたら、どこか遠出をしようと思っていたのに。
昨日までは晴れていたけど、ずっと会社にいたから意味がない。なんで今日に限って、雨が降るのか。
このストレスを発散するために、身体に悪い、ジャンクなものが食べたくなった。
だから、私はハンバーガーを食べに行こうと思って、家を出た。
結局、入ったのはモスバーガーだったけど。”

“今日は、久しぶりの休みなのに、雨が降っている。晴れていたら、どこか遠出をしようと思っていたのに。
昨日までは晴れていたけど、ずっと会社にいたから意味がない。なんで今日に限って、雨が降るのか。
このストレスを発散するために、身体に悪い、ジャンクなものが食べたくなった。
悪い、と分かっていることをする――それは私にとって、決められたルール、しがらみから逃れられる行為だ。
だから、私はハンバーガーを食べに行こうと思って、家を出た。
でも結局、入ったのは全然ジャンクさのない、モスバーガーだった。
そう言えば、最近あんまり野菜を食べてなかった。身体は正直だ。”

「?」と思う部分が、読んでいくうちに「!」となる過程――そこに、人は共感したり、しなかったりする。

「共感できない」でもいいんだ。

読んだ相手に、考えるきっかけを与えられることが、多分、コラム的な文章においては、大事なこと。

事実のコラム化の手順③:言葉一つひとつに、理由と意志を宿す

最初に比べると、だいぶ文章っぽくなってきた。

ここから、もうひと踏ん張り。

少し語順を変えたり、体裁を整えていく。順番に、読者が書き手の体験や、感情を追っていけるように。

そして、事実を“感覚”として共有できるように、言葉を入れ替えていく。

・どのくらい久しぶりの休みだった?
・晴れてたら出かけたかった…雨じゃダメだった理由ある?
・「しがらみから逃れられる」って、もう少し詳しく言語化できる?
・親近感を持たせるために、柔らかい雰囲気にしたいな。
・最後、優しい読後感にできないかな?

言葉選び、語順、語感、語尾に、意志のある選択を。

細部に「こう読まれてほしい」という思いを、埋め込んでいく。

その結果、最終的にこうなりました。

“今日、私はハンバーガー屋さんに行きました。”

“久しぶりの休みなのに、朝からずっと雨が降っている。
せっかく、おろしたてのスニーカーを履いて、どこか遠くへ行こうと思っていたのに。
昨日まで続いていた快晴が恨めしい。ずっと会社に泊まり込んでいたから、意味がなかった。今日と空だけ交換したい。
我慢ならぬ……私は決めた、「思いっきり身体に悪そうな、ジャンクなものを食べに行こう」と。
悪い、と分かっていることを、分かっていながら遂行する――これは私にとって、しがらみから逃れられる行為だ。
誰にも迷惑をかけない“背徳感”が、会社の正義に殉じている私を、自由にしてくれる。
そんなことを考えているうちに、気づいたら、モスバーガーに入っていた。
そう言えば、最近コンビニ弁当ばかりで、野菜を食べていなかったな。
ジャンクになりきれない、身体に正直な自分を、私は少し愛おしく思えた。
今日はこの後、マッサージにでも行こう。うん、雨のおかげだ。”

最初の一文に比べたら、少しは“言葉の身体性”を感じられる形に、なったのではないかな…と思います。

“身体性のある言葉”は、コラムや小説じゃなくても必要

ちょっと、抽象的な話をさせてください。

「言葉の身体性」

これ、ここ数年、書く上でずっとテーマにしていることです。

ちょっと難しい響きですが、私の中の定義では、以下のような言葉のことを指しています。

・目線が共有される、感情移入できる、心が動く言葉
・読んで動きたくなる、行動を促される言葉

つまり、“人の心と身体を動かす言葉”に、身体性を感じるのかなと。

ここで語ったやり方は、僕なりの“言葉の身体性の獲得の方法”です。

きっと、やり方はもっと他にもたくさんあります。そして、自分が「上手に言葉の身体性を獲得できている」なんて、思ってはいません。

もっと、より早く、より深く、自分に潜って、身体性のある言葉を見つける方法があるはず。ずっと探しています。

上記は身近な出来事、事実を掘り下げたので、コラムっぽい仕上がりになりました。

けれども、この“身体性のある言葉”を突き詰めていくことは、いわゆるライターの仕事でも、必要になる場面があります。

とくに、人に話を聞いて、それを記事にする時に。

インタビューでは時折、話し手がものすごく尊いことを語ってくれます。ただ、それをテキストの世界で生かせるか、殺してしまうかは、ライターの手腕次第。

そんな時に役に立つのが、この“言葉に身体性を持たせる”という視点だと、私は思っています。どれだけ躍動的に、生きた言葉として、読者に文章を届けられるか。口から発せられた瞬間の、鮮度と色彩をそのままに。

ただ、インタビュー仕事においては、聞いた話を勝手に書き加えて、改変してしまってはいけない。なら、どうすればいいか――答えは明確です。

インタビュー中に、どれだけ相手の言葉を、掘り下げられるか。身体性が宿りそうなポイントに目を付けて、深く深く、その人の個性が光るまで、問いかけを繰り返していくことが重要なんだよなあ、と。日々、痛烈に感じながら、ライターという仕事に向き合っています。

求めて、深めていきましょう、言葉の身体性。

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上記の記事はわりと直近で、特に“言葉の身体性”を意識しながらライティングしたものです。“言葉の身体性”とは何か、皆さんが考える上で、参考になれば幸いです。

(これから、ここに上げた項目、一つずつ掘り下げていこうと思います。これが初めの一歩)

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Takeshi Nishiyama
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旅は道連れ世は情け、恩は掛け捨て倍返し、残す仕事に身を削る、湯とり世代の創食系。ばっかじゃなかめぐろ、なにゆうてんじ