何気ない日常をコラムにする手順
「書きたいけれど、書くべきことが思いつかない」
そんな相談をよく受ける。
大丈夫、そんなことはない。絶対に。
日々の何気ない行動ひとつ取っても、丁寧に掘り下げれば、必ず「読ませる」内容に、つまりはコラム・エッセイ的な文章になる、はず。
行動の決定には、必ずその人しか持っていない“価値観”が影響する。
「朝はパン? それともごはん?」
「コーヒーが好き? それとも紅茶?」
「きのこの山派? それとも、たけのこの里派?」
「今日はなんでその服選んだの?」
「ねえ、それはどうして?」
その人らしいものの見方や考え方が、生活の一つひとつの決定に、隠れている。それを言葉にしてあげると、事実は少しずつ、物語に近づいていく。
「じゃあ、どうすればいいの?」
ここからは、事実をコラム的な文章にしていく具体的な流れを、順を追って書いてみようと思う。
あくまで、私なりのやり方だけれども。参考になったら嬉しい。
「今日、私はハンバーガー屋さんに行きました。」
例えば、この「ハンバーガー屋に行った」という事実だけを述べた一文を、コラム的な文章に落とし込んでいきたい。
事実のコラム化の手順①:自分に自分でインタビューする
事実をコラム的にするには、「言葉の肉付け」が必要だ。事実だけ並べては、小学生の絵日記のような文章になってしまう。
肉付けのために、まず必要なのは、自分と対話。
自分にインタビューするつもりで、問いを投げ、それに答えて、また問いを投げる。それを繰り返して、「考えていること」を言語化していく。
実際にやってみよう。
~~~~~
―どんな気分で、ハンバーガー屋さんに行きたいと思った?
「今日、私はジャンクなものが食べたくて、ハンバーガー屋さんに行きました」
―なんで?
「久しぶりに、身体に悪いものを食べたくなった」
―どうして?
「ストレスを発散するために」
―なんでストレス感じてるの?
「雨だから」
―今日は雨なんだ、なんで雨が嫌なの?
「休みの日なのに雨だから」
―休みの日なんだ、晴れてた方がよかった?
「久しぶりの休みだし、どこか遠出をしたかった。昨日まで晴れてたのに」
―昨日までは晴れてたんだね、ずっと会社にいたの?
「そう、だから晴れとか雨とか関係なかった。昨日までが雨ならよかったのに」
―それは残念だね。どんなハンバーガー屋さん行ったの?
「モスバーガー」
―なんでモス?
「え、だって美味しいし」
―あんまりジャンクじゃなくない?
「そうだね(笑)」
~~~~~
はい、こんな感じに。ここまで出てきた要素を盛り込んで、できるだけシンプルな文章に落とし込む。いきなり情緒的に書こうとしないで、まずは並べてみる。
“今日、私はハンバーガー屋さんに行きました。”
↓
“今日は、久しぶりの休みなのに、雨が降っている。晴れていたら、どこか遠出をしようと思っていたのに。
昨日までは晴れていたけど、ずっと会社にいたから意味がない。なんで今日に限って、雨が降るのか。
このストレスを発散するために、身体に悪い、ジャンクなものが食べたくなった。
だから、私はハンバーガーを食べに行こうと思って、家を出た。
結局、入ったのはモスバーガーだったけど。”
単純な事実を述べただけより、“目線”や“考えていること”が共有される文章に近づいた感じ、しませんか?
前後関係を明確にするだけ、そんなに難しいことはしてない。
ここまででやったことは…
・自分との対話
・事実の肉付け
・動機の掘り下げ
事実を述べた自分に、自分自身でインタビューしていくと、行動の背景が明確になる。行動の背景が明確になると、「なんでそれをしたのか」という思考のトレースができる。思考のトレース≒追体験だ。
事実のコラム化の手順②:ロジックの飛躍≒ヒューマンエラーを、丁寧に掘り下げる
ここから、もっと深める。まだまだイケる。
さっきの文章中、ちょっとロジックが飛躍している部分がある。
・「ストレスを発散するために」→「身体に悪い、ジャンクなものが食べたくなった」
・「ジャンクなものを食べようとして」→「結局、あんまりジャンクじゃないモスバーガーに入った」
前者は、感覚的には理解できる人は多いかもしれないけど、論理的に直接結びつかない部分。
後者は、そもそも説明不足な部分。
この飛躍が「ダメ」というわけではなくて。
むしろ文章に、固有の“身体性”を宿すための、ポイントになる部分。
ロジックの飛躍、常識とのズレ、ヒューマンエラーを敏感に察知して、そこをさらに、丁寧に掘り下げていく。
~~~~~
―なんで、身体に悪いジャンクなものを食べるとストレス発散になるの?
「なんでだろ…」
―別に、正解じゃなくていいから、つか正解とかないから、思ったことを言ってみよう。
「多分、普段やらない行為だから」
―普段やらないことをやると、ストレス発散になるの?
「うーん、なんか違う気もする…」
―主観的でいいから、本音出してみよう。
「身体に悪いことをするって、背徳感があって」
―うん。
「ちょっと、悪いことだと分かっていることをやると、スッとする」
―うんうん。
「しがらみから逃れられる気がして」
―そっか。
「変かな?」
―ううん、いいと思う。
「そうかな」
―多分、似たようなことを考えている人、いると思うし。
「悪いことしてるよ?」
―でも、他人に迷惑はかけてない。
「うん」
―そういう人たちが読んだら、あ、自分だけじゃないんだって、ちょっと楽になるんじゃないかな。
「なるほど」
―でも、結局モス入っちゃったんだね。
「うん、身体は正直というか、自然に食べたいなって思ったから(笑)」
―なんでだろ?
「…最近、野菜不足してたから?」
―確かに(笑)
~~~~~
上記の会話を盛り込んで、文章をさらに肉付けしていく。
“今日は、久しぶりの休みなのに、雨が降っている。晴れていたら、どこか遠出をしようと思っていたのに。
昨日までは晴れていたけど、ずっと会社にいたから意味がない。なんで今日に限って、雨が降るのか。
このストレスを発散するために、身体に悪い、ジャンクなものが食べたくなった。
だから、私はハンバーガーを食べに行こうと思って、家を出た。
結局、入ったのはモスバーガーだったけど。”
↓
“今日は、久しぶりの休みなのに、雨が降っている。晴れていたら、どこか遠出をしようと思っていたのに。
昨日までは晴れていたけど、ずっと会社にいたから意味がない。なんで今日に限って、雨が降るのか。
このストレスを発散するために、身体に悪い、ジャンクなものが食べたくなった。
悪い、と分かっていることをする――それは私にとって、決められたルール、しがらみから逃れられる行為だ。
だから、私はハンバーガーを食べに行こうと思って、家を出た。
でも結局、入ったのは全然ジャンクさのない、モスバーガーだった。
そう言えば、最近あんまり野菜を食べてなかった。身体は正直だ。”
「?」と思う部分が、読んでいくうちに「!」となる過程――そこに、人は共感したり、しなかったりする。
「共感できない」でもいいんだ。
読んだ相手に、考えるきっかけを与えられることが、多分、コラム的な文章においては、大事なこと。
事実のコラム化の手順③:言葉一つひとつに、理由と意志を宿す
最初に比べると、だいぶ文章っぽくなってきた。
ここから、もうひと踏ん張り。
少し語順を変えたり、体裁を整えていく。順番に、読者が書き手の体験や、感情を追っていけるように。
そして、事実を“感覚”として共有できるように、言葉を入れ替えていく。
・どのくらい久しぶりの休みだった?
・晴れてたら出かけたかった…雨じゃダメだった理由ある?
・「しがらみから逃れられる」って、もう少し詳しく言語化できる?
・親近感を持たせるために、柔らかい雰囲気にしたいな。
・最後、優しい読後感にできないかな?
言葉選び、語順、語感、語尾に、意志のある選択を。
細部に「こう読まれてほしい」という思いを、埋め込んでいく。
その結果、最終的にこうなりました。
“今日、私はハンバーガー屋さんに行きました。”
↓
“久しぶりの休みなのに、朝からずっと雨が降っている。
せっかく、おろしたてのスニーカーを履いて、どこか遠くへ行こうと思っていたのに。
昨日まで続いていた快晴が恨めしい。ずっと会社に泊まり込んでいたから、意味がなかった。今日と空だけ交換したい。
我慢ならぬ……私は決めた、「思いっきり身体に悪そうな、ジャンクなものを食べに行こう」と。
悪い、と分かっていることを、分かっていながら遂行する――これは私にとって、しがらみから逃れられる行為だ。
誰にも迷惑をかけない“背徳感”が、会社の正義に殉じている私を、自由にしてくれる。
そんなことを考えているうちに、気づいたら、モスバーガーに入っていた。
そう言えば、最近コンビニ弁当ばかりで、野菜を食べていなかったな。
ジャンクになりきれない、身体に正直な自分を、私は少し愛おしく思えた。
今日はこの後、マッサージにでも行こう。うん、雨のおかげだ。”
最初の一文に比べたら、少しは“言葉の身体性”を感じられる形に、なったのではないかな…と思います。
“身体性のある言葉”は、コラムや小説じゃなくても必要
ちょっと、抽象的な話をさせてください。
「言葉の身体性」
これ、ここ数年、書く上でずっとテーマにしていることです。
ちょっと難しい響きですが、私の中の定義では、以下のような言葉のことを指しています。
・目線が共有される、感情移入できる、心が動く言葉
・読んで動きたくなる、行動を促される言葉
つまり、“人の心と身体を動かす言葉”に、身体性を感じるのかなと。
ここで語ったやり方は、僕なりの“言葉の身体性の獲得の方法”です。
きっと、やり方はもっと他にもたくさんあります。そして、自分が「上手に言葉の身体性を獲得できている」なんて、思ってはいません。
もっと、より早く、より深く、自分に潜って、身体性のある言葉を見つける方法があるはず。ずっと探しています。
上記は身近な出来事、事実を掘り下げたので、コラムっぽい仕上がりになりました。
けれども、この“身体性のある言葉”を突き詰めていくことは、いわゆるライターの仕事でも、必要になる場面があります。
とくに、人に話を聞いて、それを記事にする時に。
インタビューでは時折、話し手がものすごく尊いことを語ってくれます。ただ、それをテキストの世界で生かせるか、殺してしまうかは、ライターの手腕次第。
そんな時に役に立つのが、この“言葉に身体性を持たせる”という視点だと、私は思っています。どれだけ躍動的に、生きた言葉として、読者に文章を届けられるか。口から発せられた瞬間の、鮮度と色彩をそのままに。
ただ、インタビュー仕事においては、聞いた話を勝手に書き加えて、改変してしまってはいけない。なら、どうすればいいか――答えは明確です。
インタビュー中に、どれだけ相手の言葉を、掘り下げられるか。身体性が宿りそうなポイントに目を付けて、深く深く、その人の個性が光るまで、問いかけを繰り返していくことが重要なんだよなあ、と。日々、痛烈に感じながら、ライターという仕事に向き合っています。
求めて、深めていきましょう、言葉の身体性。
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上記の記事はわりと直近で、特に“言葉の身体性”を意識しながらライティングしたものです。“言葉の身体性”とは何か、皆さんが考える上で、参考になれば幸いです。
(これから、ここに上げた項目、一つずつ掘り下げていこうと思います。これが初めの一歩)