メディアアート実践を受けたら、何が何だかよくわからなくなってしまったが、自分が創作をやめるとも思えなかった

Fushi
SFC Media Art 2022
Published in
Feb 3, 2023

メディアアート実践という授業を受けて書くドキュメントの2作目である。

以前の文書はこちらをご覧ください。
https://bit.ly/3HvsOLE

今回の授業を通して、私たちのチームは2つの作品を制作した。

1つめは「ANBIRI」という画像データセットを売買するためのプラットフォームだ。

説明文
画像生成モデルは高精度になり、画像検索ツールの代替になりつつある。フリー素材を使わずとも、自らの手で著作権のない素材を生み出すことも可能だ。このプロジェクトは、Stable Diffusion が完全に画像検索ツールの代替となった時、生まれうるビジネスとして、データセットのプラットフォームANBIRIを提案する。データセットとなる画像が枯渇していく中で、未知の画像に出会いたい利用者と、自分の顔と存在を広めたい提供者の、需要と供給をつなげ合わせる場として機能するだろう。フリー素材モデルの知名度を上げたいという需要と、画像生成モデル作成者のデータセットを欲しいという需要をANBIRIというプラットフォームによってつなぎ合わせる。

サービス利用者(データセット購入者)からの要望を集め、フリー素材モデルに伝達することで、ANBIRI内で要望を循環させる仕組みになっている。

ありそうでない写真が登録されるプロセスとして、Google検索、StableDiffusionでの画像生成、Have I Been Trained?(Stable Diffusionのデータセット内にある画像との類似度検索ツール)の3つを利用して、現状のStable Diffusionでは生成できないことが確認されるようになるのではないかと考えた。

そしてもう一つの作品が「Unreal Memory」という改ざんされた記憶のアルバムである。

説明文
誰もが、昔の写真をみて忘れていた過去の出来事を思い出した経験があるだろう。自分の記憶はなくても、他人から伝えられることで初めて知る過去もある。しかし、人の記憶は自分が思うよりもあいまいなものである。場所や時間、季節や天気、一緒にいた人など、全てを鮮明に記憶することはできない。だからこそ、目に見える情報を瞬間的に記録出来る写真が、人の記憶を呼び起こすきっかけになる。では、写真によって思い出された記憶は、どこまで信用できるだろう。この作品は、Stable Diffusion によって作られた『偽物の思い出写真』のアルバムである。架空の出来事をまるで真実かのように錯覚させ、人の記憶の改ざんを狙う。

ANBIRIの大元になっているのは、「画像生成AIが、完全に画像検索ツールの代替になったら?」という問いだ。中間課題のドキュメントでも、頭で想像することができない人のための画像検索ツールとしてのStableDiffusionの話をしたが、そこから派生して、このような作品になった。フリー画像問題や画像生成モデルのためのデータセット枯渇問題などをもとに、未来にありうるかもしれないプラットフォームを考えた。

また、Unreal Memoryのもとになっているのは「想像で記憶を補ってはいないだろうか?」という問いである。これまで人がぼんやりと思い出していた、信ぴょう性の低い記憶の想像を、画像生成AIが裏付けてくれる。

両者は「想像すること」という同じ出発点から出発した作品だった。

しかし、これらの実践を通して感じたのは、想像とAIについてのことではなく、もっと自分の作家としての存在のレイヤーについてだった。もっとも感じたのは、AIには手と足がないということだ(あくまで現状ではあるが)。

そもそも現段階では、AIは自分の手でメディアを開拓していくことはできないのではないだろうか?AIはデータセットに存在しない写真を作るために、道路標識にぶら下がったり、箱を頭にかぶることができるだろうか?あるいは、アルバムを作って人に渡すことができるだろうか。

よく考えたらできる。AIがその行動を導き出して、人を動かすことができた場合それを実現することができるだろう。自立してそのような指示ばかりをするようになれば作品は作られていくだろう。人はAIの手足になる。あるいはロボットとして自立したAIが自分で制作を始める。

画像が生成され、絵などの作品を作る意味が問われるだけではなく、多くの芸術作品を作る意味が問われるのも時間の問題だ。

ある意味で、AIは一つの作家として成り立ちうるのではないか?そのとき、私たちにとってAIはあくまで1作家として存在し、普段ほかの作家に向けるまなざしと変わらなくなっていくのではないだろうか?

いや、その考えは違うかもしれない。AIがすごいのは自立して人間として存在することではなく、圧倒的な速度である。私たちがかける時間の何十、何千分の一の時間で作品を仕上げるのである。

僕は、人間の存在価値は、新たなメディアを開拓していけることだと考えていた。しかし、それはしばらくすればなくなる価値だ。文脈にのせた作品を作ることも、新たなメディアを開拓していくことも、すべて取って代わられる。

人が作る意味とは…?何の意味があるんだ?

もしかしたら、作品は自己表現であり、承認欲求のための手段になるのかもしれない。

言葉で自己紹介をする人がいてもいいし、絵で自己紹介する人がいてもいい。絵をAIをつかって出力してもいいし、手書きでもいい。その選択そのものが人間の自己紹介として積もっていくのではないだろうか。

自分のファンを作るための道具としての作品…。承認欲求のための作品…。快楽のための作品制作。

AIが勝手に芸術の未来を推し進めていく…。もはや人間は蚊帳の外。

最終的に人間に残るのは、芸術の未来を押しすすめている感、達成感。すべてのものは「やりたいからやる。」それ以外のものになるのだろうか…。

その満足のためだけに作っていくようになっていくのかな…、それでも自分は作ることをやめなそうだ。

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