AIが人間社会にもたらすものとその意義/危険性

Ryota Yamaoka
SFC Media Art 2022
Published in
Dec 23, 2022

ここでは今日活況を呈しているAI技術の芸術への応用、その際の意義、危険性などに関して論じていく。

AIと芸術に関する議論を進めるにあたって、まず初めに私なりの表現・メディアに対する考えを共有する。

そもそも芸術表現とは、作家・メディウムによって行われ、鑑賞者・環境によって受容される。その際には、作家の体験や人間性が作家性となり、メディウムのメディウムスペシフィシティと共に、ある種のバイアスとなって作品に表出する。また、それを受容する鑑賞者のバックグラウンドや環境的特徴もその作品に対してフィルターをかける(作家が意図的に鑑賞者、環境とのインタラクションを発生させようとしている作品は特にその傾向が強い)。特に、芸術表現においては、鑑賞者への役割期待が大きいように感じられる。作家の表現は、その作品自体にではなく、鑑賞者をはじめとした「他者」に反映されるからである。

メディア論研究者である桂英史は、表現行為における「他者」について以下のように述べている。

芸術家としての「わたし」は「他者」に自己理想が投影されて「現れ」として認識される。その「現れ」を信念として、芸術家としての「わたし」は自己表現を続ける。応答を返す「他者」、応答しない他者も含めて、芸術家はこの「現れ」に賭けるのだ。この賭けはあらかじめ定式化された規範や価値に従属するか否かではなく、自らがつくりあげた価値によって他者を尊重する態度である。(『表現のエチカ』より)

以上のように、芸術表現においては様々に発生するバイアス、そして「他者」の存在が重要な要素であると考えている。以下では、この前提のもとAIと芸術に関する議論を進めていきたいと思う。

まず、AI技術による人間の創作の模倣という観点から話を進める。

そもそも、AIのメディウムとしての役割は多岐に渡っており、

・画像の生成をテキストベースで行えること

・複数の画像を学習させることで今まで具体性を持っていたイメージに抽象性を持たせられること

・テクノロジーの急激な発展という環境での自己言及性

など、様々な役割期待がなされている。

そこで、人間の創作をAIで模倣するということは上記の1つ目と3つ目にとって意義深いことであると考えられる。

まず、1つ目に関しては、現在text to imageモデルのクオリティレベルを評価する方法がほとんどない。どの程度人工知能が発達しており、メディウムとしてのAIのクオリティはどの程度であるのか。どちらかというと現在の絵筆は発展余地のあまりないメディウムであり、現在のAIは十分に発展余地のあるメディウムである。だからこそ、現在のAIがどの程度のレベルに到達しているかを可視化させる必要がある。その際に有用なのが人間の創作を模倣させるということである。

例えば、ある写真をAIに模倣させた際にどこまで細かく忠実に表現しうるのかを指標とすると、そのAIの写実性を可視化することができる。また、そのようなAIによる模倣を定期的に行なうと、それによってAIの成長性を実質的に可視化することもできる。しかし、現代においては単に現物に即した写実性の高いものを生成することができるというだけでは、芸術的な価値は生まれづらいため、これに意義があるとも言い難いのもまた事実である。

だからこそメディアアート的な観点から言うと、そのメディウムの良く言えばスペシフィシティ、悪く言えばバイアスをしっかりと捉え直し、そこに独自の視点から自己言及をしていくということが人間には求められていると考える。

また、このようなAIのネガティブな側面、危険性としてデジタル的なメディウムであるということが挙げられる。

例えば、絵をメディウムとした場合、絵筆は作家にアナログ的に接続され、漸進的に表現・変化する。それは瞬間的な表現でも、長期的変化でも同様である。そこにはグラデーションがある。そもそも人間社会はアナログ的であり、原子をはじめとした常時揺れ動く要素によって成り立っている。

一方で、AIはデジタル的なメディウムである。「海沿いを歩く初老の男性」を描けと入力すると、「海沿いを歩く初老の男性」のイメージが出力される。しかしそのプロセスは「海沿い」と「歩く」と「初老」と「男性」の大量な学習データリソースを統合し、ただ一般化するという行為によって構成されており、そこにグラデーションは存在しない。AIと人間はテキストを入力するというデジタル的行為によって接続されており、人間のアナログ的な要素はテキスト入力の際に四捨五入され、AIというデジタル的メディウムと親和性の高い形に変換される。

したがって、AIのデジタル的な側面は危険性を内在していると考える。

また、AIと芸術の関係性を創造性という観点から論じると、AI悲観論者が議論するほど悲観的ではないように感じた。そもそも、「創造性」とは、日本大百科全書において「新奇で独自かつ生産的な発想を考え出すこと、またはその能力」と定義づけられている。この定義から考えると、AI画像生成というメディウムが登場したところで、「考え出すこと」が妨げられるわけではない(むしろ考え出したものをアウトプットする際の選択肢が広がった)ため、人の創造性に悪影響は及ぼされないと考えた(むしろ作品をより広い観点で捉え直すことができるため、好影響なまであると思う)。

多くの人の認識が相違している点として、作品のメディウムへの知見・技術などと創造性との関係性が挙げられる。

例えば、いわゆる「絵がうまい人」は創造性に長けているのだろうか。そもそも一般的に言われている絵がうまい人は、絵画というメディウムへの知見と技術を持っている人であり、「新奇で独自かつ生産的な発想を考え出すこと」に長けているわけではない。つまり、創造性があるというわけではない。

しかし、このようなメディウムへの知見・技術と創造性を混合して考えている人が多く、この創造性の定義づけとは論点がずれてしまっているように思う。

以上からAI画像生成技術が発達しても、人の創造性にはネガティブな影響はないと考えられる。AIによる画像生成技術は単なるメディウムに過ぎないため、絵筆と同じであり、それが人の創造性の有無に直接的に関与することはない。テクノロジーの発展に伴い、新しいメディウムが登場しただけである。

故に、アートへの影響という観点で論じると、テクノロジーのメディウムスペシフィシティに自己言及する手段がまた1つ増え、今後ますます現代社会の芸術観にメディアアート的な要素が増えていくと考えられる。

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