AIの創造性と人が創る意味

Nimisha Anand
SFC Media Art 2022
Published in
Feb 3, 2023

2022秋 メディアアート実践 最終レポート

アナンニミシャ

Stable Diffusionを含む画像生成技術の発展と動向に、デザイナーやアーティストの仕事がなくなるのではないかという問いがあがることは少なくもないだろう。しかしこういう観点はAIはアーティストと競い合うものである前提をもとに解決されてしまいがちでもある。AI対アーティストと考えてしまうと、アートやデザインの価値は数値化できるような、正解があるもとして見做してしまっているのではないか。AIとアートの関係性が問われると同時に、人が作品を作るということを問い直すことが必要不可欠になり、そこに価値があるとも言えると思う。

まず、AIは果たしてクリエイティブなのか、という話になる前に、AIはアートに置けて強力なツールの一つであることは間違いない。自分を表現するにあたって、AIを利用することによって精度の高い表現が可能になる。画像生成技術などが幅広く簡単に使われるようになるにつれて、描いた絵の技術的な完成度への重きも減り、「何を描かせたのか」という作家の意義に重きが行われる様になり、コンセプチャルアートの重さがアートの流れそのものにも現れてくるのではないかと思う。また、AIを道具として見なす上で、自分の思っていることをそのまま伝える道具だけではなく、みえないものを映し出すような道具としてもみることができる。写真やことばではキャプチャできない「世界観」を新たなレンズで映し出すことができるとも思う。AIのMLE(maximum likelihood estimation)の特性からして、そのレンズはもしかしたら極端に歪んでいるかもしれないが、その歪みは決して、人間的ではないとも言い切れない。フィルターを使用してものを一定の見方からみるMemo Atkenの Learning to Seeなどの、AIを通したものの視点という、新しいレンズでの世界観を提唱する行為自体は、大きくアート界を揺さぶると思う。人工知能という、現実を取り組み、それに限りなく近いがどこか違う、非現実と現実を行き来するようなレンズで世界を見直すことを可能とし、AIならではの新たなシュールレアリズム的ムーヴメントへの発展も見えると思う。

さらに、AIを使用することで、AIには模倣できない「人間らしさ」の再定義にもつながる。これはまた、作家の主体性に新たな影響を与えていると言っても過言ではない。AIは構造上人の知能を模倣することを試みている以上、我々の考え方やアイデンティーを移す鏡でもある。今学期のグループ課題においてのディスカッションは、AIとイメージ、そしてアイデンティティーの構築を中心に行った。Stable Diffusionなどの技術は、プロンプトに応じて、他者からとったデータセットにおけるネットワークというシステムの構造の中に構築さあれている理想のイメージを生成する。プロンプトを入れるにあたっての、自分の頭の中に存在するかもしれない「イメージ」は記憶で構築されているかもしれないが、それはimaginationの領域にとどまるものであり、画像が実際に構築されるにころにはある種現実化の手段を踏んでいるともいえる。グループの作品のコンセプトとしては、stable diffusionを使い、自分の理想像に近くなるように image-2-imageの技術を利用して生成した写真を実際大学の学生証の証明写真として利用し、「イメージ」と「自分」の存在と現実性を画像生成を用いて問い直すことを試みた。自分ではない自分、という意味では同じような画像をPhotoshopやプリクラ機で生成することもできただろう。しかし、この場合は、Stable Diffusionを利用し、すでに集められていた、理想の現実を切り取ったデータセットをもとに生成することによって、もの「イメージ」、とそのイメージを反映するかのように同じシステムの中に構築されていくアイデンティティーを問い直したという手段自体に意味があると感じた。AIは、AIの使用でしか「伝えられないもの」は確かに存在する上、アートの表現の幅を広げると同時に、実際に何を表現するのかという作家の主体性に重きを置くという影響を促している。

AIは無論、強力な道具ではあるが、果たしてAIに創造性というものはあるのか。AIは構造上、既存のデータセットをもとに構築されているなか、そもそも単独では創造性がないのかもしれない。しかし、AIは間違いなく、驚きや新しい視点を与えることはできる。Memo Atkenの Learning to Seeや、AIから見た「顔」を表現するGoro Murayamaの「環世界とプログラムのための肖像」などの作品では、AIによって与えられてた新しい気づきを提唱していて、そこに創造性を感じると言ってもいいだろう。しかし、それはAIから見た現実と人間から見た現実の誤差の間に現象する創造性でもあると思う。AIの面白さや新規制といったものは、現実との誤差の間で生まれると思う。グループ課題のイメージと自己の誤差であっても、画像に指が増えるといった現象の中での現実との誤差であったり、人の模倣を試みたシステムが模倣しきれないところに創造性を感じるのではないか。しかしこれもまた、人間から見た「創造性」であり、AIからしては誤差はないのかもしれない。その意味では、人はAIに創造性を持たせるとも言えると思う。それは、道具として使って自分の創造性を反映させるという意味でも、鑑賞者の中に現象する面白さのもとに見做した創造性であっても、人間の存在があからこそ存在し得るものではあると思う。さらに、誤差を創造性として見なすのであれば、その誤差の生まれる領域が人間とAIで異なることから創造性の差異と、それによる面白さがあるのではないかと思う。

AIが完璧な画像を生成できる様になったとしても、その完璧なシステムを利用して、全く不完璧なものを作り出すことは、人にしかできないのではないかと思う。もちろん場所によって完璧な絵が求められる環境もあれば、AIの画像生成技術などによって人の需要がなくなってしまう場合もあるかもしれない。しかし、アートにおいて「完璧」も「不完璧」も求められ続け、アートの価値と位置付けが揺さぶられ続ける中で、人間の想像の領域との「誤差」の需要は問われ続け、人の作る作品に意味が尚更大きく求められるのではないか。

参考事例:

Learning To See, Memo Atken

https://www.memo.tv/works/learning-to-see/

「環世界とプログラムのための肖像」Goro Murayama

http://goromurayama.com/works/49/index.html

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