よろこびにつつまれて: 2–5 礼賛講義

カウンターでの登録を済ませると、8579はまた私の手を取り、部屋へと歩きはじめた。まだ、あちこちで「ホウ!」という声が挙がる。8579は気にしていないようだが。


部屋に入ると、昨日と同じように8579はグラスを外し、ベッドに腰を下し、私にソファーを勧めた。

昨日とは違う戸惑いを感じ、私は無言でソファーに座った。

そして8579は、また礼賛を始めた。

顔には出ないように努めたが、自信はなかった。目の焦点をぼかし、何となく8579を眺めていた。8579の顔をではなく、全身を。

そして気付いた。8579は時に彼女の右手に目をやっていた。その時、右手の人差し指と中指が動いていた。昨夜もそうだったのだろうか。昨夜は気づかなかったが。

しばらくそれを観察していた。

「出会った」

そこで8579の指は動いた。

「学んだ」

また、そこで8579の指が動いた。

「女性」

また8579の指が動いた。

そしてしばらくただの礼賛が続いた。

「人間はよろこびにつつまれた世界をもたらす方法を作り出した。よろこびにつつまれた世界をもたらす方法に出会った。その方法を学んだ。その世界にはどのようなものであっても差別が存在しない。男性と女性による差別も、知性による差別も、階層による差別も存在しない。総統たちと、法と、社会秩序、加えてその執行によって、人間はよろこびを手に入れた」

ただの礼賛だ。ただの礼賛だが、その所々で8579の右手の指が動いた。

「あぁ、そうだな」

私は、やっとそう答えた。

「もっと嬉しそうな顔をしなさいよ。その素晴しい世界に住んでいるのよ」

「嬉し」のところで8579の右手が動いた。

「こんなことをBlue-4-Blackが訊くのはおかしいと思われるかもしれないが。教学院で学生はどんなことを学んでいるんだ?」

「言うまでもないわね。この素晴しい世界を維持する方法。英知が蓄えられている。その英知に触れるの。英知に触れる機会を与えられる。英知そのものはとても難解で、理解するのは困難ね。だから、機会が与えられる。教学院の全ての学生が協同して英知に触れる機会を作り上げる」

「英知」、「機会」、「理解」、「困難」、「触れる」、「協同」。それらの言葉で8579の右手が動いた。

「そうか、Yellowは大変だな」

そこで私は一旦言葉を切った。

「何もかもを理解するのは」

一呼吸置いて、私は言った。

「もちろん、そうね。だから機会を与えられるの。あなたのようなBlueには与えられない権限を。英知に触れられる権限を。Blueには想像することも理解することもできないでしょうね」

「権限」、「英知」、「理解」、「できない」。そこで8579の右手は動いた

私はソファーに座り直した。

教学院の学生も、あるいはYelloの全員が、何も理解していないということだろうか。英知、つまり法や知識などのデータベースへのアクセス権は与えられるが、それだけということか。最適化システムの指示に従うことが前提であれば、アクセス権のみが問題だろう。

それは、Blue-4-Blackである私の仕事の場合と同じということだ。必要なアクセス権が与えられる。だが実際には私から積極的にそのデータベースにアクセスできるわけではない。グラスが、あるいは最適化システムがアクセスした結果が、私のグラスに表示される。

つまり、私がやっている勉強とは違うということだ。

「社会全体が三交代制でまわっている。学生もそれぞれが学ばないといけないんだものだ。俺には想像するのは難しいな」

「そう。ただ体を動かすBlueとは違うの。Blueなら単純に交代できるでしょうけど。権限を得るのはそうはいかないわ」

「ただ」、「単純」、「交代」、「権限」、「得る」と、右手が動いた。

交代で、協同して権限を得ていくということだろうか? だとしたら、各ローテーションの学生は単純に言えば、1/3の、いや実際には1/5か、アクセス権を得ているだけなのだろうか? その総体として全体のアクセス権を得ているということだろうか?

「まぁ、俺なんかが何人いても手が届かない話だ」

「何人」、「届かない」で私も指を動かしてみた。

「そうでしょうね。Blueには到底無理でしょうね。Yellowでなければ」

「無理」、「Yellow」で8579の右手が動いた。

やはりそういうことなのだろうか。私は言葉を失なった。

お祖母ちゃん…… もしそうだとしたら、僕に何ができる?

私はつなぎの右ポケットに手をやった。

そこで、一つだけ訊いておかないとことがあることに気づいた。

「なぜ俺を誘うんだ? Yellowに相応わしいとは思わないが」

8579の表情が一瞬凍り付いた。これまでにこやかな表情を崩さなかったが、その表情には動きがあった。だが、その表情が一瞬凍った。

「この社会を維持するのには、皆が社会に奉仕しなければいけない。Blueのよるものといえど、社会は構成員として助けが必要なの。あなたは、Blue-4-Blackでしょう? そういう人は社会に反論を持ちやすいから。私もYellowとしてBlackによろこびをわかってもらうために、つまり社会秩序に奉仕するために、あなたを利用するだけだもの。あなたも助けが必要では? 」

「助け」、「必要」、「Yellow」、「あなたも」で8579の右手が動いた。

「そうだな。総統たちと、法と、社会秩序、加えてその執行に感謝しよう。俺も社会の助けにならないとな。どうすればもっと奉仕できるか、ぜひ教えてくれないか」

私がそう答えると、8579は満面の笑みを浮かべた。

「そろそろ時間ね。また、あなたと礼賛できると嬉しいけど」

「あぁ、それなら問題ない。あなたの礼賛はとても素敵だ。ぜひこちらからもお願いしたい」

「そう、よかった。今度会う時は、もっと静かな場所がいいわね。下のバーの騒ぎは苦手だから」

8579が実際に何者なのかは、依然わからない。どういう経路で私に接触してきたのかもわからない。

だが、祖母の望みへの一本の糸だ。


補: 単語の指定について:
微妙に日本語以外も頭に置いて書いてます。いやまぁ、実際どれくらいそれが生きてるかはあやしいですけど。これは、単に日本語依存の方法は避けたいというだけのことです。